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File4:猛犬注意『探偵』



 八月も中旬に差し掛かった頃の出来事だった。


「犬なんて飼っていないのに、うちの中でずっと吠えているんです」


 姫榊礼一(ひさかきれいいち)は探偵だ。同業者からは変わり者として扱われている。それは父親が代議士だからでも前職が警察庁の警察官だからでもない。

 幽霊・妖怪・UMA・都市伝説など、そういったざっくり“オカルト”とまとめられることの多い事柄に関連していそうな──つまり要領を得ない依頼でも調査を引き受けてしまうからである。

 探偵に持ち込まれる依頼の大半を占めるのは浮気調査だ。それは姫榊探偵事務所においても例外ではない。

 しかしそれとは別に姫榊は「自宅の電話に幽霊の声が混じっている」だとか「テレビの電源が勝手につく」だとか「家でで変な音が鳴る上に誰も住んでいないはずの上階から足音がする」だとかいう相談も受ける。

 実際に調査をしてみると最終的には勘違いか偶然が重なった結果か悪意ある人間によるものだと報告することになるのがほとんどだ。無駄金を使ったと悪態をつかれることもあれば原因が分かったから安心したと礼を言われることもある。

 原因の説明できないことは起こらない。かつては姫榊もそう考えていた。けれど、今は違う。こうなったのは心霊カウンセラーだとか除霊師だとかを自称して活動している隠の影響が大きかった。

 もっと言えば、今こうして姫榊が探偵をしていること自体が隠と出会った結果だった。数年前の隠との出会いがなければ姫榊は今も警察官として働いていただろう。そちらはそちらで充実した人生を歩めていたはずだ。

 しかし己の決断を悔いてはいない。姫榊は視えざるものの世界の一端を覗いてしまった。見えなくても存在している何かがいることを知ってしまった。世の理から外れてもなお人助けを続ける隠がいることも……。


須賀原(すがわら)……ここだな」


 氏名と住所、そして電話番号の書いてあるメモと表札へ交互に目をやり、間違いがないことを確認してから姫榊はメモをしまった。

 依頼主の須賀原瑠璃(るり)とはすでに事務所で依頼内容と契約について話をしてあった。今日は詳細な調査のためH市にある須賀原邸に出向いたのだった。

 門柱に設置された呼び鈴を押し、応答を待つ。ここに来るまでに周辺を観察してきたが須賀原邸の四隣に犬を飼育していそうな家はなかった。

 須賀原邸のある住宅街は駅から程々に近い場所にありつつも丁度良い静けさが保たれていた。犬の散歩をしている人とすれ違うことはあったから確かに隣近所で犬は飼育されているだろう。だが、蝉の鳴き声を上回るほど吠えている犬はいなかった。

 その辺りはもう少し聞き込みをしてみた方がいいだろう。けれども、瑠璃の言葉通りであるなら問題は近隣ではなく須賀原邸そのものにあるはずなのだ。

 そこまで考えたところで、ようやくインターフォンから声が聞こえる。ともすると聞き逃してしまいそうなほど小さい声だった。


「……はい」

「こんにちは。姫榊探偵事務所の姫榊です。ご依頼の件で伺いました」

「…………少々お待ちください」


 少し間を置いてから玄関扉が開き、瑠璃が出てきた。二日前に事務所で話したときと変わりない。……と言いたいところだが、二日前より更にやつれているように見えた。顔色は一見すると悪くないものの表情や身振りに声音、そして下へ下へと向かいがちな視線が彼女の不調を伝えてくる。

 足早に近づいてきた瑠璃が姫榊から目を逸らしつつ門扉を開く。姫榊は軽く頭を下げて中に入った。瑠璃は無言で家へと戻っていく。無闇に話しかけることはせず姫榊も後を追った。

 玄関扉の横には【もう犬注意】の張り紙があった。猛犬注意ということだろうか。小学校の高学年辺りが描く啓発ポスターの筆致に似ている。同じような年頃の子どもが書いたのかもしれない。 

 赤色のマジックペンで派手に書かれた【もう犬注意】の下では色鉛筆で手描きされた黒い犬がこちらに吠えかかっている。今にも飛びかかってきそうだ。

 黒犬の耳は垂れていて、右の後ろ足の先だけが白い。マジックペンで赤い首輪がはめられている。

 注意文通りに獰猛な犬として描かれているはずなのに、愛らしさのある細かい描き込みと写実的に描こうとして描き切れていないギャップが張り紙の場違いさをより浮き彫りにしていた。

 

「須賀原さん。犬は飼っていないと仰ってましたよね。この張り紙は一体……?」

「…………」


 姫榊の問いかけに瑠璃が静止する。扉のノブに手をかけたまま、呼吸すら止めてしまったかのようにまったく動かなくなってしまった。


「須賀原さん?」

「……息子が」


 と急に呟いて瑠璃が扉を開く。それから姫榊へ振り向いた。目を細め右の頬だけを上げていびつな笑顔を作っている。


玄希(げんき)が描いたんですよ。うちで犬なんて飼っていないんだから止めなさいと何度叱って剥がしても貼り直すんです。だからもう諦めました」

「そう……でしたか。玄希くんには何かこだわりがあるのですかね」

「さあ……あの子ももう十三歳ですから。気難しい年頃なんでしょう」


 突き放す口調で言って瑠璃が再び前を向く。見間違いでなければ彼女はすっかり無表情になっていた。

 瑠璃に続いて敷居を跨ぐ前にもう一度張り紙へと目をやった。黒犬は見つめている。玄関口に消えた瑠璃の背中を。


「……今動いたか?」


 しかし、一度の瞬きを挟んだ後に黒犬は元通りになっていた。正面に狙いを定めていて左右には見向きもしていない。そもそも絵が動くはずはないのだ。


「…………気にしすぎているだけならいいんだが」


 原因の説明できないことが起こってしまっているのかもしれない。隠の胡散臭い笑顔が頭をよぎった。



■■■



 リビングへと通され、ダイニングテーブルに着席する。扉が閉じ、家の中に入った途端に外界の音が聞こえなくなった。蝉の鳴き声もすっかり遮断されている。よほど防音に気を遣っているのか。それにしても不自然に感じてしまうが。

 室内ではテレビの上に掛けられた時計の秒針が進む音、それに冷蔵庫やエアコンを始めとした電化製品の稼働音以外に聞こえてくるものはない。普通に生活している分には気にも留めない生活音ばかりだ。

 当然ながら、犬の吠える声など聞こえない。しかし何故かリビングのそこかしこにまで【もう犬注意】の張り紙がされていた。子どもの描いた絵であることには変わりなくとも、まったく同じ内容のものが雑然と張られている光景は微笑ましさよりもやはり不気味さが勝る。

 窓からは日光が射し込み、蛍光灯は問題なくリビングを照らしているのにも関わらず薄暗い印象を持ってしまう一因は間違いなく張り紙にあるだろう。

 二人分のアイスコーヒーをテーブルに置いて瑠璃が姫榊の向かいに腰を下ろした。姫榊は鞄から手帳を取り出して話を切り出す。


「……今も犬の鳴き声は聞こえていますか?」

「………………」


 瑠璃は心ここにあらずといった様子でテーブルを見つめていた。あえて音を立てながら椅子を引きテーブルとの距離を更に縮める。テーブルに両肘をつき前傾姿勢を取ってから姫榊は声をかけた。


「須賀原さん?」

「…………あー、はい。そうですね。聞こえます。うるさいです」


 やっと前を向いたものの瑠璃の動きは鈍く話し方も単調だった。無気力でいるようで、膝に置かれた両手には力がこめられている。


「須賀原さん以外に鳴き声は聞こえていないんですね?」

「………………ええ。玄希は聞こえないと言っています」


 姫榊は一瞬だけ手帳に目を落とした。すぐに質問を続ける。


晧一(こういち)さんはどうです? 鳴き声が聞こえ出したのは一か月ほど前からですよね。単身赴任中とのことでしたが……その間に一時帰宅されたりは?」


 瑠璃が虚ろな目を見開く。かと思えば両手をテーブルへ乱暴に叩きつけた。衝撃でアイスコーヒーの入ったグラスが振動する。溶けかけの氷が崩れて黒い水面に沈んでいく。

 姫榊は何の反応もしないまま、瑠璃が口を開くのを待っていた。


「……いいえ。帰ってきていません。……で、電話で伝えても気のせいだとしか言ってくれなくて……気のせい、気のせいなんかじゃないんです。でも夫も玄希も信じてくれないんです姫榊さんも私を信じられませんか?」


 ぼそぼそとした喋り声が終いには金切り声に近づいていた。一息で言い切った瑠璃の息は荒い。

 それからしばらくして瑠璃の呼吸が整ったのを見計らい姫榊は言った。一応は誠実に映るらしい笑顔と一緒に。


「私は須賀原さんの仰ることを信じますよ。鳴き声は一日中聞こえているんですか?」


 かつては安心感よりも威圧感を与えることの多かった笑顔だが、探偵を続けるうちに多少は解れてきたらしい。

 恐る恐る瑠璃が姫榊と目を合わせる。生気の乏しい目だった。


「……な、鳴き声が聞こえ始めた頃は……違いました。けれど、今は……ほとんど一日中聞こえています。もううるさくて仕方ないんです。ろくに眠れないしまともに考えられない……」


 と言って瑠璃はうなだれた。

 果たして瑠璃の訴える鳴き声は気のせいだと片づけていい問題なのだろうか。気のせいだろうが何だろうが、瑠璃は相当参っている。このまま放置して良い方向に向かうとは思えなかった。

 精神の不調が鳴き声の聞こえる原因ならばその方面の専門家に任せるべきだろう。ただの探偵でしかない姫榊がそのような助言をしていい立場にあるかは別にして。

 しかし、それでいいのか? これまで見てきたもの、聞いてきたもの、そして視えざるものの世界に関わって少なからず変容してきた姫榊の感覚が告げている。隠を呼べと。

 瑠璃を刺激しないよう姫榊はなるべく穏やかに話しかける。


「鳴き声は耳元で響いてくるように聞こえますか? それとも家のどこどこで吠えていると特定できますか?」

「………………」


 瑠璃は姫榊の質問には答えないまま天井を仰いだ。姫榊も同じ方向に首を動かす。


「天井……ではなく、二階ですね? 二階のどの部屋か特定はできますか?」


 瑠璃の眼球が左右に素早く動く。それに奥歯を強く噛みしめたのか顎の辺りがこわばっている。部屋の特定ができないから悩んでいるのではない。特定ができてしまうからこそ、それを口にするのが恐ろしいのだ。

 長い長い沈黙の後に瑠璃は姫榊を見た。乾いた目は同時にひどく潤んでいるようにも映った。


「……………………玄希の……玄希の部屋です」

「玄希くんの?」


 瑠璃が立ち上がる。椅子がフローリングに擦れて不快な音を立てても気にする者はいない。


「でも違うんです。玄希の部屋には何もいない。あの子しかいないんです。でも聞こえるの。ずっと吠えている。でも、でも……玄希は鳴き声なんて聞こえない。私がおかしいんだと言って……!」


 掠れた声で訴え、瑠璃は両手で顔を覆った。穏やかな昼下がりにくつろいでいる心持ちを作りながら姫榊が語りかける。


「須賀原さん。一度深呼吸をしましょうか」


 という言葉を聞き入れたのか、瑠璃は深く息を吸って吐き出した。顔を覆っていた手を下ろすと、失態を演じた己を恥じるように俯いて再度着席する。


「………………すみません。取り乱してしまって……こんな有様ではおかしいと言われても仕方ありませんね」

「謝らないでください。須賀原さんはここまで一人で耐えてこられたんです。誰にでもできることではありませんよ」


 傲慢な物言いだと受け取られなければいいのだが。と心配しつつ、失言を恐れて何も言わないわけにもいかなかった。

 しかし幸運なことにそんな気がかりは杞憂に終わったようだ。瑠璃が微笑んでいた。彼女と知り合って初めて見せた穏やかな表情だった。


「………………ありがとうございます」


 自然と姫榊の口元も綻ぶ。


「須賀原さんのご期待に応えられるよう私も尽力します。……重ねてになりますが質問してもよろしいですか?」

「え、ええ……」


 瑠璃が背筋を伸ばす。今の今まで放置されていたアイスコーヒーにミルクを入れて一口飲み、それから姫榊に向き合った。


「鳴き声以外に気になることはありますか? 何でも……どんな些細なことでも構いませんので」


 瑠璃はすぐには答えなかった。ずっと一人で抱え込んできた不安を言葉にするのはそう簡単なことではない。

 姫榊が新たに得た情報を手帳に書き込んでいると、ついに瑠璃が重い口を開いた。


「……………………玄希が、部屋に閉じこもる時間が増えました。それに……お分かりでしょう?」


 曖昧な言い回しに、しかし姫榊は確信をもってリビングを見回した。

 【もう犬注意】【もう犬注意】【もう犬注意】【もう犬注意】【もう犬注意】【もう犬注意】【もう犬注意】【もう犬注意】【もう犬注意】【もう犬注意】【もう犬注意】【もう犬注意】【もう犬注意】【もう犬注意】…………………………数えるのも嫌になるほどたくさんの黒犬が一斉に吠え立てている。鳴き声が聞こえないのが不思議なくらいだ。ここに来てまだ一時間も経っていない姫榊ですら気が滅入る光景だった。


「玄希くんの変化に何か心当たりは?」

「ありません。一か月前までは……もっと明るい子だったんです。中学で新しい友達ができて剣道部にも入って、とても楽しそうにしていたのに」


 テーブルに肘をつき、瑠璃は頭を抱えた。綺麗に磨き上げられた左手の結婚指輪が場違いな輝きを姫榊に見せつけてくる。


「……登校は変わらずにされていますか?」

「…………ええ。部活にも欠かさず行っています。ですが…………違うんです。食事も部屋で食べるようになってしまったし、笑顔が消えました。笑うのは…………『鳴き声なんて聞こえない。母さんはおかしい』と指摘するときだけです。反抗期だと言われればそうなのかもしれませんが……」


 それで片付けてしまっても良いのでしょうか、と瑠璃は続けた。それに頷きつつ姫榊は更に質問を重ねる。


「玄希くんが部屋で何をされているかはご存知ですか?」

「あの絵を……黒い犬の絵を描いているようです」


 瑠璃にしか聞こえないが、玄希の部屋から響いてくる犬の鳴き声。【もう犬注意】の絵。そして一か月前から急に様子のおかしくなった玄希。

 瑠璃は嫌がるだろうが、玄希にも話を聞く必要があるだろう。隠に任せるべき問題だとしても、その前にできる限り情報は集めておきたかった。


「なるほど。――玄希さん以外に気になることはありますか?」

「……いえ……特にありません」

「……そうですか、分かりました。今は夏休み中かと思いますが、玄希さんは在宅されてますか?」


 その質問に、これまでの会話で緩和していた瑠璃の緊張感と警戒心が一気に高まった。敵を見定める態度で瑠璃が言う。


「へ、部屋にいますけど……息子に何の用があるんですか?」

「二、三質問したいことがありまして。もちろんご了承いただければですが」


 微笑むことはせず、ゆったりとした声音で下手に出ることにした。それが功を奏したのか分からないものの瑠璃は渋々ながら了承した。


「………………玄希が了解すれば構いません。ですが、なるべく短く済ませてください」

「ありがとうございます」


 心から感謝の言葉を述べる。席を立つ前にアイスコーヒーのグラスを傾けて喉を潤した。口の中がかなり乾いていたのを姫榊はそこで初めて自覚した。



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