購買のパンを見つめてくる少女の瞳に負けただけだ
その日。
俺はついに、購買で、手に入れた。
幻の辛子マヨネーズ入り黒豚カツサンドを。
ついでに、最近流行っているというマリトッツォを購入した。イタリアの菓子パンで、丸いパンの間に、生クリームとイチゴが挟んである。ようはフルーツサンドみたいなものだな。
クラスメイトや幼馴染にバレると、つまみ食いによって、サンドが解体しかねない。中庭で食してしまおう、と考えて、人の少ない隅っこの椅子に腰掛けた。横には、女子生徒が、一人、お弁当を広げていた。
ワクワクと、一人で中庭でサンドを頬張ろうとすると、視線を感じた。これは、幻のカツサンドを狙った目だ。まさか、クラスの誰かに見つかったか。
視線のする方に、目を向けるとーー。
ジーッと見つめてくる女子生徒。横でお弁当を広げていた少女だった。その目は、真っ直ぐに、俺の手に持つカツサンドに向けられている気がした。
いやいやいや、見ず知らずの初対面の女子が、そんな露骨な……。
視線を外して、もう一回、チラッと盗み見る。
ああ、見られてる。
見られている。ここまで見られたのは、英語の授業で、発音を間違って以来だ。クラスの人々の視線が痛かった。
チラっ、チラっ、とカツサンドと少女を天秤にかける。
ここで、少女にカツサンドを譲らない男。器の小さい男子と噂にならないだろうか。
でも、普通、このカツサンドを他人に譲れるだろうか。
購買、毎週10個の狭き門。税込580円のボリューミーなカツサンド。是が非でも食べたい人間は多い。特に男子。
いや、でも、小動物の無言の訴えほど、精神に悪いものはない。
だいたい女子には購買の激戦を突破できる能力はない。この少女も、一人の購買パンへの憧れを持つ少女。その夢を奪ってでも、食べる必要があるのか。
俺だったら、もう一度買うことができるかもしれない。
でも女子には、難しい。いずれ、あのとき購買パンを貪り食っていた男子として、この子の記憶に残るのか。
仕方ない。
さらば、カツサンド。
また、会う日まで。
「あの、食べます…か」
「えっ」
「いや、すごい目で見てくるから。そんなに食べたければ、どうかなって」
ああ、そんな不審者を見る目で見ないでくれ。そっちが初めに見つめてきたのに。
俺は、今、見知らぬ女子生徒にパンをすすめるおかしな男。
「いえいえ、そんな悪いですから」
「いや、別にいいからさ。このパン、有名だろう。食べたいって気持ちは分かるからさ。ああ、交換ってのは、どう。弁当から何かとか」
んー、悩んでいるようだ。
実際には、悩んでいるフリにしか見えない。答えは決まっているようだ。そうだろう。食べたいんだろう。素直になるんだ。
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて。これ、メインディッシュです」
少女は弁当のハンバーグを箸でつかむ。
弁当にメインディッシュなんてあるのか。一番好きなオカズといったところか。
ありがたく頂戴しよう。
こうして、俺は、名前も知らない子と間接キスとアーンをしたのだった。ほんの少しあとで、気付きました。
「じゃあ、これ。黒豚のカツサンド」
「え、そっちじゃなくて。わたし、それがいいです」
マリトッツォ。最近売れていると聞く菓子パン。
あれ、幻のパンじゃないのか。まぁ、女子からすると、油っぽいのか。やっぱり、フルーツサンドのような、こっちの方が好きと。
まぁ、俺からすると、マリトッツォをもらってくれるほうが嬉しいけど。
「じゃあ、こっちだな」
俺は、マリトッツォを渡して、そそくさと、その場を後にした。
恥ずかしいから。ああ、女の子の弁当を初めて食べた羞恥心が、俺をそうさしたんだ。
廊下で、黒豚カツサンドを食べ歩いて教室に向かった。
噂に違わず、旨かった。
「聞いたよ。今日、マリトッツォを買ったんだって」
「それが、どうかしたか」
昼休みの終わり近く、幼馴染が、俺の机を椅子代わりにしながら、パンの話。しかも、またマリトッツォの方だ。
「あれね、女子の間で、人気なんだ。それで、男子からもらうと、交際申込みなんだよ」
ああ、そうか。
ああ、やらかした。全く、動揺するところは見せないが。顔にはおくびにも出さない。
「誰に渡したのかなぁ」
「自分で食べたに決まっているだろう」
いたって、冷静に答える。
そんな恋愛のような浮いた話のネタを提供するつもりはない。
それに、中庭の少女も、そういう女子の中のジンクスのようなものを信じてはいなさそうだし。桜の木の下での告白のような伝説。根も歯もない噂。
「えー。つまんなーい」
「なんだ、欲しかったのか。食べたいなら、今度買ってきてやるよ」
「他意はないの」
「他意があった方がいいのか」
「うーん、どっちでしょう」
「なんだそれ」
とにかく、パンぐらい、簡単に買ってこれる。幻のパンでなければ。
噂というものは、いつのまにか、流れ着いてくる。
自分で投げた流木が、流されて戻ってくるように。
「渡してるんじゃん」
「チッ。どこから漏れた」
「女子の情報網を軽んじないように」
というか、机に座るな。正面を向くな。スカートの中が見えそうだから。太ももに手が当たっても、文句言うなよ。近い。
「で、その女の子って誰なんだ。名前も知らないんだが」
椅子を一つ下げて、尋ねる。ちょうどいいと、完全に正面を向く。普通に席に着く気はないのか。
「一目惚れってこと。うわぁ、そういうタイプだったんだ」
「違うって。パン欲しそうだったからあげただけだ」
さらに、うげって顔をして、目尻を手でおさえる。
「わたしの幼馴染って、パンをめぐむタイプだったかぁ」
「ちゃんと弁当を少しもらったよ。物々交換」
「なるほど。その子のお弁当が食べたくて、そういう行為をしたと」
なんだか墓穴を掘っている気がするなぁ。
というか、どうでもいいだろう。誰にパンを上げようが。
マリトッツォを上げることと交際申込みなんて、俺の中で繋がっていないし、そのことは、幼馴染もわかっているし。
いや、でも、あの少女には、訂正しておかないとまずいのか。
「それで名前やクラス分かるか。別に交際云々じゃないって訂正に行くから」
「ふーん。それで、女子の知り合いをゲットするという策なのかな」
なんで、俺は、まともなことを言っているのに威圧されているのだろう。そんな菓子パン大作戦なんて考えてない。まどろっこしいにも程がある。
「どうすればいいんだ」
「わたしへのマリトッツォはまだかな?」
「いや、意外と買えなくて。人気なんだな」
「さて、問題です。マリトッツォを幼馴染が買っていたのを見たクラスの女子は、当然わたしにあげるものと判断したけど、わたしはもらえませんでした。わたしのクラスでの立場を答えよ」
「……すぐ、買ってきます」
さすがに、他意を込めておきました。
「白昼堂々、別の女子生徒と間接キスとアーンをしていた幼馴染がいるわたしの立場を答えよ」
「いや、そこまで見られていたのか」
「答えよ」
「えーと、わたしもやりたいとか」
「正解。じゃあ、食べてね、コレ。幻のパンだよ」
「そ、それは……いつも売れ残る……ごふっ」
「二人の人間に交際申込みをした男と噂されているんだが」
「自業自得でしょ」
「メインヒロインを取り違えた気がするなぁ」
「幼馴染が一番でしょ。渡し間違ってるのよ。最初に。危うく、購買のパンのような取り合いラブコメになるところだった」
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