【地に足着いた神様】
暗い街だった。映画で出てきそうなロンドンやパリの住宅街。洋風を思わせるドアベル代わりの金具がついた扉と、日本でも見られるような一般的な玄関先の黒い柵。そんな玄関の光景が道に沿っていくつも並び、連なっている。
住宅の明かりは何処も点いていない。小さな街灯が十数メートル置きに並んでいる。
「ガサッ」と音がした。
肩をはね上げ振り返ると、猫が一匹歩いていた。ほっとして肩を撫で下ろす。顔、手足、尻尾が黒く、身体は白い毛で覆われているところを見ると、シャムネコなのだろうかと頭に浮かんだ。
その柔らかそうな毛に触れてみたく、しゃがんで抱きかかえようとすると、ぷいっぷいっと尻尾を振って背後にトコトコ歩いていく。
待ってーと言わんばかりに追いかけていくと、路肩からもう一匹シャムネコが現れた。今度の猫は、顔が真っ黒だった。
その二匹に先導されるように、暗い住宅街を歩いて行った。正直、薄気味が悪い。もう誰も住んでいないような廃墟に見えるはずなのに、外観が比較的綺麗なのでどうも煮え切らない。だが、今にも死者が後ろから追ってきそうな気配がするのも確かで、足が妙に素早く動く。二匹の猫が救いだった。
十分程度歩くと、両サイドに連なっていた住宅街が終わりを告げようとしていた。今まで視界には必ず建物が入っていたのだが、真正面には何もない。深い青色の空が見えるだけだった。
恐る恐る、且つ、背後の気配に怯えながら俺はそこに足を踏み入れた。
沼だった。
これは沼と言っていいのだろうか。沼にしては大きく、綺麗すぎる。折れてしまいそうなくらい細い三日月が水面を照らしていた。沼の真ん中あたりで不知火が漂っている。
もっと近づいてみたいと思って歩を前に進めると、後方で突然シャムネコたちが鳴き出した。「ニャアシャア、ニャアシャー」と繰り返している。どうしたのかと思ってしゃがみながら近づくと、
「いたっ」
引っかかれた指先から血が滲んでくる。
それでも何とか二匹の猫を抱え、しょうがなくさっきいた場所まで戻ろうかと来た道を振り返ったとき。不穏な気配を感じてもう一度振り返ったとき。沼の中から黒い何かが押し寄せてきた。
人? まさかゾンビ? ありえない。
俺の胸元から暴れて抜けようとするシャムネコたちを、両脇に抱えて走ろうとした。が、もうすでに手遅れだった。いつの間にか押し寄せて来ていた高波にのまれ、沼の中へと飲み込まれてしまった。
シャムネコたちはいつの間にか脇から抜け出していた。探そうと水中を見渡すのだが、猫の代わりに別のものが視界を占領した。
水に落ちていた母親と姉を両脇で担ぎ上げようと試みる。なぜか、片目の視界が悪い。顔の右半分に仮面をつけているように、視界が不明瞭だった。ピントが合わなかった。
ふらふらと揺れながら落ち、且つ不規則に明後日の方向へと二人それぞれが落ちていくのを何とか止めようとした。
何とか母親は捕まえることができた。あとは姉だ。必死に手を伸ばす。が届かない。
いったん母親を陸に上げてしまうことにした。
姉の落ちていく方向をしっかりと確認し、すぐさま上へと掻いて、母親を陸に上げ、下ろす。そしてまた海の底へと潜っていく。両耳は泡と流音に包まれる。
下へ下へと泳いでいる最中、なぜだ、と一瞬思った。顔も見たくなかった母親と姉だろう。なのに、なぜ俺は助けようとしているんだ。しかも沼に飲み込まれて月の薄明かりで彼女らが見えた途端、躊躇うことなく助けに行った。両脇を抱えて二人とも助けようとした。あれだけのことをされてきたのに? なんで?
あれ?
何かがおかしい。
息が結構続いているな。
そもそも片目だろうと水中で視界がぼやけていないのは。
これは夢なのか?
「夢に決まってんだろう」
パッ、と視界が明瞭になった。手を前に伸ばしてうつぶせの状態になっていた俺は、声につられてすぐに体を起こす。
周りを見渡す。
そこは何もない空間だった。壁がある訳でもない、ましてや色なんてある訳がない。でも白いって訳でもない。海を宇宙から見たら青く見えるのと同じ。だが、海みたいに浮遊物や地底が反射している訳ではないし、そんなものはないと根拠はないが断言できそうだった。地平線や水平線のように先が続いて見えるのに、自分は個室の中にいるように感じられる。
上も、横も、前も、後ろも、全て遮るものはなかった。春の微風ですら、永遠と吹き続けても世界から出られなくなるような、そんな白い宇宙にいるように感じられる空間だった。
「お前もまた、忘れられない後悔を持っているんだろう?」
いつの間にか目の前に立っていた男は、そう言った。
金色の仮面で顔の大半が見えない。黒い外套のようなトレンチコートで、足の脛辺りまで覆われていて見えなかった。下には黒いジーンズを履いているようで、靴は黒革のブーツだった。
「ここに来る人間ってのはな、大体不遇な運命にあってやりたいことをやれないまま命を落とした奴らなんだ」
後悔? 俺にそんなものがあっただろうか。それに、不遇なんかで命を絶った覚えはない。そもそも人間としての才能もなかったし、生きることや、他に何か秀でていた才能もなかった。連絡通路から飛び降りたのだって、言ってしまえばなんとなくの衝動で、それだけ何か物事に没頭できていなかったという証拠だった。まあ、その、身を投げたことに対して後悔があるって言うのなら話は別だが。
ああ、そう言えば俺自殺したんだった。
やっぱり命を落としたようだった。妙に受け入れられている。
そういえば比留間さんはどうなったのだろうか。なぜか俺を追って渡り廊下まできていたみたいで……というか、一緒に落ちた気がする……ような。
「うんうん。わかるぞ。ここに来る人間は大体最初は混乱するんだ。自分は本当に死んだのかわからないのは当然だ。言葉を無くすのも無理はない」
男は一定の距離を保ちながら俺に話しかけていた。音がないと言ったらおかしいが、ブーツを履いているはずなのにヒールが床を叩く音が聞こえない。もっとも、俺が耳を澄ませるほどちゃんと声を聞いていないっていうのも事実なのだけれど。
「思い出したか? 後悔」
俺がふいに顔を上げたからそう思ったのだろう。
男は、俺の足元まで近づいてきた。
怪訝そうに窺う。
「え、あ、お前……いつも来る人間とちょっと雰囲気が違うな」
会って初対面で顔を覗き込むにしては、彼の飄々とした態度とこの状況には不釣り合いな顔立ちな気がした。フードを被っているようで、左の横髪や横顔は隠れているせいか、金色の仮面は顔に埋め込まれているように見えた。もしかしたら左半分の顔がないのではないかとさえ思えたが、それに関しては、右側の耳と首筋がちらっと見えたので覆された。
思わず、肌の白さと滑らかさに見入ってしまうような頬の色。透き通るような眼、高い鼻筋、眉毛は太め整えられているが、それがより魅力的に際立つ。輪郭こそ仮面とフードで大部分が隠れていて見えないものの、魅力的に見えた。きっと神様みたいな人なのだろう。もしかしたら神様なのか。右下の頬、鼻、右半分の口だけは、仮面に覆われていないことに気がついた。
「反応なしか……」
至近距離でずっと目を合わせながら眺めていたせいで、目が合っているのに話し出さない俺が、相手にとっては不快だったのだろう。睨んでいるようにさえ見えただろう。
事後的にそれに思い至った俺だったので、一瞬たじろぎそうになるが、我に返る。
こんなところにまで来て他人に気を使う必要があるか。
こんなところって何処? 俺は死んだのだろう。色のない黄泉の世界に来た。それでも一応後ろに突いていた手を離し、立ち上がった。
改めて見ると本当に何もない空間だ。だから、より俺と男の存在が浮きだって見える。俺も男も黒調の服を着ているのだし。
俺は少し離れていた男の後ろまで歩いた。
気配を察したのか、男は振り向く。でもこれが気配なんかではなく、確証があって振り向いたというのに、彼の右手に握られていた鏡を見て思い知る。
「なんかしゃべる気になったか?」
「反射するんですね、鏡」
想像していた返答と大きく違ったのか、男は驚いた顔をする。
「ああ、これな。鏡じゃないんだよ」
「どういうことですか?」
「まだお前には早い」
男はそう言って、またどこまで続くかわからないような先へと歩きだした。俺もその後を付いていく。
「人間って不思議だよな」
男は、鏡を掌で手玉にしている。
「生きるのも死ぬに至るまでも大変な割に、死んでしまうのはあっけない。誰が造ったかもわからないような囲いの中で、現象は、曖昧のまま生き続けていく。そう思うだろう?」
まあ確かに。人間の体を作ったのはどこまでも奥深しい。生まれたら出来上がっていた世界も、歴史の授業で教師にそう言われて、はいそうですか、とは到底思えなかった。
俺の納得した表情を見たのか、男は少し表情を柔らかくしてまた前を向く。
「なぜこの世に生まれてきたのか。乳児期、幼少期の記憶はない。すごく曖昧なことが多いのに、いろいろと勝手に受け入れてしまう生き物なんだよな」
足を止めてすっと振り返る。
「な、なんですか」
男はフッと微笑んで「何でもねえ」と言って向き直った。
「ここはそういう不満を抱えた人間が来るところなんだ」
「いや、嘘ですよね」
「ああ、嘘だ」
男はまた振り返って、俺と対面する状態になった。前かがみになって聞いてくる。
「ユウはどう思う?」
どきっとした。そのユウは「you」なのか、「祐」という名前を言い当てられたのか。
「何がですか?」
「ここが、だ」
ここが、何なのか。死んだ後に来る世界? ていうか本当に俺は死んだのかすら危うい。
「ああ死んだ」
心を読んだかのように男が言うので、一応睨んでおいた。微笑みが憎たらしい。
まあ疑う余地もなく多分俺は死んだのだろう。なんか黄泉の国を彷徨った記憶もなくはない。街灯と洋風の団地。二匹のネコと沼。あれが黄泉の国というかは、誰も教えてくれないからわからないのだけれど。
じゃあここは死後の世界なのか?
「まあそんな感じ」
繰り返し男を睨んだ。
「ちょっと黙っててください」
「やっと怒ったな、ユウ」
男はなぜか嬉しそうだった。
死後の世界なんて先人たちが勝手に信仰していた作り話だ。天国も地獄も信じてはいなかったが、今こうして死んだ後もちゃんと心臓が動いて、他人と話せる実感があると、どうも信じ込んでしまう。というか、疑いの余地がない。だからこういうものに関しては信じてしまう。
「すべて疑っていたら生きていけないしな。『これがカレーライスだ』と教えられて、『本当にカレーライスなのか?』なんて言ってたらきりがねえんだよ。でもお前の言う、『信じられない』っていうのは、こういうことじゃないんだろう?」
そうだ。俺が疑っていたのはこんなものではない。こんなカレーライスの名前なんて、間違っていても合っていてもどっちでもいいしどうでもいい。俺がもっと知りたかったのは……。
「人の心だろう」
「だから、人の心を読むなって!」
男は爆笑しながら、宝くじが当たったかのようにぴょんぴょん跳ねて喜んでいる。それをまたじっと睨み返すのだが、それだけでは腹の虫がおさまらないほど、男は人を苛立たせるのが上手いようだ。この苛立ちは、大声で叫んだところで発散はされない症状だと断言できる。
「心を読むななんて言われてないもーん」
子ども染みたその動きが羨ましくも見える……いやいや、見えない見えない。たとえ人の心を読めたとしても、ここまで人のプライバシーの深部にまで潜り込むことは死んでもしたくない。
「ユウ、もう死んでっから!」
溜息が出た。
もう駄目だ。更に腹を抱えて笑い出す男を見ていたら、もう苛立ちを通り越して呆れた。大きな体なのに幼稚園児みたいに身をよじる姿を見ていたら、羨望すら覚える。え、俺この人のこと妬んでんの? 嫉みですか? 羨ましいの? だとしたら、心が読める一点のみだ。
男はスッと立ち上がった。さっきとは打って変わって真剣なまなざしに見える。
「まあ、冗談はさておき」
誰が冗談だって?
「とりあえず行ってくればいいよ」
どこに?
「ユウが行ってた大学」
「もう、これは言葉に出さなくても会話ができますね。ていうか、寧ろこの方がやりやすく思えてきました」
「ごめんごめん。さっきのは冗談だから。読心術なんて使えないし。ちゃんと声に出して話そう!」
顔の横に人差し指を立て、高らかに声を上げた一方で、数秒後にぷっと噴き出している男の姿を見たら俺でなくても呆れてしまうだろう。もうそっとしておこうと思った。一周回って俺が呆れてしまう。
「では、本題に入る、ふふッ」
「もうそのネタ飽きましたーー」
「わかってるわかってる。じゃあちゃんと話すね」
そう言って男は、真剣そうな、あくまで真剣そうに見える口調で、もう何度も話したことがあるかのようにペラペラと説明し始めた。




