第8章 神の灯
呼び鈴を押した。チャイムの音がドア越しに屋外にも聞こえてくる。中で物音がするが、すぐに応対に出てこないのは、ドアスコープ越しにこちらを覗き見たからであろうか。松原刑事の顔を、彼が刑事だと言うことを、憶えていたためかもしれない。松原刑事は、もう一度呼び鈴に指を乗せた。二度目のチャイムが鳴り、そこでようやくドアが薄く開かれた。隙間から覗き見えるその目には、明らかな警戒の――そして絶望の色が見て取れる。
「家宅捜索令状です」
松原刑事は、懐から抜き出した紙を広げて開示する。逃れられないと観念したのだろう、向こう側にいる男は、ゆっくりとドアを開いた。
目的のものはすぐに発見された。布に包まれた状態で押し入れに入れられていたのだ。布を解き現れたのは、額装された一枚の絵画。水平線に太陽がかかっている港町を描いた水彩画だった。
「途方に暮れたことでしょうね」家宅捜索に同行を許された理真は、その絵を見て、「あなたも、盗み出したあとにネットなどで確認して知ったでしょう。私が危惧していたのは、この絵が『夜明け』ではないことを知ったあなたが、腹いせにこれを処分してしまうことだったのですが、こうしてまだ保管していたというのは、おかしな言い方ですが、感謝します……笠倉さん」
男――看護師の笠倉は、忌々しそうな顔で唇を噛んだ。
「じゃあ……」と笠倉は、足下に置かれた絵を見下ろして、「何なんだよ、これは……!」
「その絵は、あなたが殺害した原田進さんが描いた絵です」
「なに……?」
「笠倉さん、あなたは平塚市の出身で、大学時代の東京をはじめ、ずっと関東の、しかも海沿いの街でしか暮らした経験がないそうですね。だから、この絵を見て、こう思ったのですね。ここに描かれた水平線にかかっている太陽は、朝日なんだ、と。つまり、この絵こそが『夜明け』に違いないと、そう勘違いをしてしまった。無理もありませんね。あなたは、『夜明け』というタイトル――正確には渾名ですが――だけを頼りに、絵を探していた。しかし、神野灯明個展に展示されている絵の中に、『夜明け』と呼べるものは一枚もなかった。しかし、あなたはすぐに“これ”を見つけたのですね。原田さんが大切に持ってきていた、この風景画を。実際は、“日本海に沈む夕日”を描いたこの絵のことを、“太平洋から昇る朝日”だと勘違いをして」
笠倉の握った拳が震えた。
「笠倉さん、あなたは、日頃から神野さんの病室を訪れているうちに、神野さんに関する断片的な情報が耳に入るようになりました。神野さんは高名な画家であり、近々個展を開く。さらに、その個展ではこれまで非売としてきた作品も売りに出すことになっていて、中でも『夜明け』という作品に大きな値が付くであろうことを。
そして、その日が訪れました。神野さんの容体が急変して、危篤状態に陥ったのです。あなたは、患者の親族にそのことを知らせる役目を言いつかりました。といっても、神野さんに親族はいないため、連絡する相手はマネージャーである原田さんひとりだけです。電話をかけたあなたは、すぐに神野さんのことを教えはしなかった。まず、原田さんがどこにいるかを先に確認します。個展の開催日を翌日に控えていたため、午後七時という時間帯にはギャラリーで設営作業をしている可能性が高い。あなた予想は当たりました。原田さんは設営のためギャラリーにいるということを聞きだした。そこで、あなたは、神野さんに頼まれたふうを装って、設営に何時までかかるかを尋ねます。原田さんは、まだギャラリーにいると答えたのでしょう。もし、そこで原田さんが、設営作業は終えたので、これから帰る、と言っていたら、あなたの計画は実行されず、原田さんも命を落とすことはなかったでしょう……」
原田が病院に駆けつけなかった理由がこれだ。そもそも彼は、神野が危篤状態にいるということ自体を知らされていなかったのだ。理真は、「原田さんが病院に来なかった理由を、どうしても見いだせなかった」と言っていた。であれば、病院に来ない理由などそもそもなく、神野が危篤状態にいることを知らなかっただけだったのではないか? だが、原田の携帯に病院からの着信があり、原田もそれに応答していたことは記録で確認されている。この事実がある以上、考えられる答えはひとつしかない。「病院から原田に電話をかけた人物は、神野が重体に陥ったことを知らせなかった」。なぜそんなことをしたのか。動機は明白だ。“神野灯明が病死したことは、まだ病院外に漏れていない”。神野の死が世間に知られて価格が高騰する前にギャラリーに行き、傑作と名高い『夜明け』を購入しておこうというわけだ。そのためには、ギャラリーにスタッフがいてもらわなければならない。
笠倉は原田に電話を入れると、すぐに病院を抜け出してギャラリーへ向かった。突然の来訪者に原田は驚いたことだろう。しかも、その来訪者は「『夜明け』を売ってくれ」と頼み込んでくる。訝しく思ったに違いない。原田は当然、神野が危篤状態にあった――その時点ではすでに故人となっていた――ことなど知るよしもないはずだったが、笠倉の申し出をはねつけた。神野の許可もないまま作品の売買契約をするなど、原田に出来るはずもなかっただろう。笠倉は賄賂もちらつかせた。しかし、原田は頑として折れなかった。「警察に通報する」とまで原田は言ったという。口論の末に逆上した笠倉は、原田を突き飛ばしてしまい……。のちの聴取で、「断じて殺すつもりはなかった」と涙ながらに語った笠倉の言葉だけは信じたいと、私は思う。
原田を殺害してしまった笠倉だったが、原田がいなくなったその状況を好機と捉えた。何者にも邪魔されることなく、大手を振って『夜明け』を持ち帰ることが出来るのだ。しかも代価を払うことなく。展示されている作品を見ていった笠倉だったが、その中のどれが『夜明け』かは分からなかった。作品にタイトルを付けない神野の流儀があったためだ。その場でスマートフォンで検索をすることを考えた笠倉だったが、彼は痛恨のミスを犯していた。病院を出る際に自分のスマートフォンを忘れてきてしまったのだ。原田のスマートフォンを使おうとしたが、ナンバー入力によるロックが掛けられており、起動させることは出来なかった。ホールの照明が点いていることは外からでも分かる。物音を聞きつけて誰かが入ってきてはこないだろうか……。自分と原田の口論を聞きつけ、怪しんだ通行人がすでに警察に通報をしているのではないか……。もしかしたら、原田の他にもスタッフはいて、今はたまたま休憩で買い物に出ているだけなのではないか……。様々な憶測が笠倉の脳裏にうごめく。一刻も早くこの場を去らなければ。しかし、手ぶらで帰るわけにはいかなかった。人を殺してしまうまでして、何も対価を得ずにこの場を去るなど……。こうなったら、どれでもいい、価値のありそうな絵を何枚か盗み出すことにするか……。そう考えていたとき、笠倉の視界にあるものが飛び込んできた。それは、ホールの隅に置かれた布包み。形状からして、額装された絵を包んでいるものなのではないか。飛びついた笠倉は布を解き、それがやはり絵画だと知り、さらに、描かれているものを目にすると飛び上がって歓喜した。“水平線にかかる太陽と、それに照らし出された港町”まさにこれこそ『夜明け』ではないか。展示もせず、こんなに厳重に包んでおいたとは、もしかしたらこの原田というマネージャー、神野から『夜明け』を購入する約束でもしていたのではないか。だから、決して自分に売ろうとしなかったのだ。
どうしてその場に原田の描いた絵があったのか。理真は、神野が自分の個展を訪れた客に、原田のことを紹介するつもりだったのではないか、と推理した。個展開催中に、神野は何としても体調を回復させて会場に行くと頑張りを見せていた。それは、自分の口から原田を売り込むためだったのではないだろうか。神野は個展を開く際、原田にこう言ったのかも知れない。「今まで描いた中で一番の自信作を一枚、持ってきなさい」。生前神野は、原田の献身的な働きに何か報いてやりたい、と言っていたという。原田が、神野のマネージャーという立場を利用してやろう、などという邪心を持っておらず、純粋に絵を愛する人間であったことが、神野の心を動かしたのかもしれない。
『夜明け』と思い込んだ絵を布に包み直した笠倉は、それを持って現場を去った。時間にして午後八時十分。喫茶店で久我の記事を覗き見た鍋谷がギャラリーに到着するのは、それから十五分後のことだった。
「さあ、来てもらおうか」
松原刑事は、笠倉を連行するため手錠を掛けようと後ろに回った。その一瞬、
「ちくしょう!」
笠倉は、足下に置かれた原田の絵を蹴り飛ばした。絵は壁に衝突して床に転がる。
「おい!」
松原刑事は笠倉を後ろでに取り押さえた。なおも笠倉は、抵抗するように体をよじり、
「こんな……素人の描いた下手くそな絵のために……俺は……」
悔しさに歯を食いしばる笠倉の前に、小瀬が立ちはだかった、その手には、すぐに拾い上げた原田の絵があった。小瀬は、右手を振りかぶると笠倉の頬を張った。その目に涙を浮かべて。