第6章 絵画蒐集家
鍋谷の住所は病院に近い場所だった。松原刑事がハンドルを握る覆面パトに乗ること約十分、私たちは閑静な住宅街に到着した。
在宅中だった鍋谷は、松原刑事が開示した警察手帳を目にすると、一瞬震え上がるように表情をこわばらせていた。私にも分かったくらいだから、理真はもとより、松原刑事もそれを見逃すはずはなかっただろう。
私たちを応接間に通した鍋谷は、刑事や探偵に対しては緊張の面持ちを崩さなかったが、小瀬と接するときは別だった。さすがに絵画の蒐集家というだけあって、小瀬の顔は知っていたらしい。小瀬の作品も何点か買い求めているといい、その作者から笑顔で礼を述べられデレデレしていた鍋谷だったが、刑事と探偵から「話を聞かせてもらいたい」と頼まれると、一気に緊張の面持ちを甦らせた。
「単刀直入に伺いますね」と松原刑事は、「鍋谷さん、あなた、三日目の午後七時半から八時半のあいだ、どこでなにをしていました?」
ずばり、原田の死亡推定時刻のアリバイを質した。
「そ、それは……」鍋谷は、額に浮かぶ汗を拭き拭き、「行きつけの喫茶店で、コーヒーを飲んでいました」
「そこで、知人に会ったのでは?」
「は、はい……久我さんという、雑誌記者の方と……。彼、近くの病院に入院しているもので、そこでよく会うんです」
「どんな話をされました?」
「と、特には、何も……世間話とか……」
「喫茶店には、何時までいましたか?」
「え、ええと……閉店まで、いたかな……」
「店員の証言によれば、八時前に入店したあなたは、久我さんと少しばかり話をすると、すぐに店を出たそうですが」
「あ、ああ、そう、そうだったかもしれません……」
「喫茶店を出てから、どこへ行ったのですか」
「えっ?」
「あなたが喫茶店を出たのは、八時前後だということは分かっています。それから、どちらへ?」
「い、家に帰ってきましたよ……」
「それを証明できますか?」
「わ、私はひとり暮らしだし、途中で誰かに会うこともなかったので……」
鍋谷が汗を拭く頻度が高まる。と、そこに理真が、
「こちらに伺った際、玄関にセキュリティ会社の防犯装置が取り付けてあるのを見ました。その解除記録を参照すれば、帰宅したことの証明になるのではないですか?」
「あっ! そ、それは……」
それを調べられては困るのだろう。鍋谷の顔色が一気に青くなった。
「確認してみましょう」と松原刑事はスマートフォンを取り出して、「契約している会社は、どちらですか?」
「……すみません。家に帰ってきたというのは……嘘です」
鍋谷は応接ソファの中で小さくなった。
「では」とスマートフォンをしまって松原刑事は、「どこへ行っていたのです」
「それは……」
なおも言い淀む鍋谷。
「神野灯明の個展が開かれる予定のギャラリーに行ったのですね」
「――!」
松原刑事の言葉に、鍋谷は無言の返事をした。
「あなた、喫茶店で久我さんが書いている原稿を覗き見して、神野さんが亡くなったことを知ったのですね。それで、神野作品の価値が急騰すると踏んだあなたは、ギャラリーへ行き、神野さんの作品を盗み出そうと――」
「ち、違います!」
「ギャラリーへは行っていないと?」
「い、いえ……ギャラリーへ行ったのは本当です。久我さんの記事を覗き見して、そこで、神野先生のご不幸を知ったのも……」
「では、何が違うというのですか」
「神野先生の作品を盗むだなんて、そんなとんでもないこと……。わ、私がギャラリーに行ったのは、絵を買うためです」
「絵を買うといっても、時刻は午後八時、喫茶店から車で行っても着くのは八時半くらいでしょう。あなた、神野さんのマネージャーの原田さんがギャラリーに残っていることを知っていたのですか?」
「い、いえ……当然、ギャラリーは閉まっていると思いました」
「なら、どうして」
「並ぶためです」
「はあ?」
「その日は個展開催日の前日でしたので、夜のうちから並んでおけば一番乗りが出来ますから……」
「はあ……個展の開始時刻は?」
「午前十時です」
「十四時間以上もありますよ?」
「それくらい待つことは苦になりません。『夜明け』が手に入るのであれば……」
「やはり、鍋谷さん、あなた、今度の個展で神野さん所有の非売品絵画が売りに出されることを知っていたのですね」
「はい。久我さんは直接言いはしませんでしたが、その口ぶりから間違いないだろうなと……」
「それにしたって、前日の夜から並ぶだなんて、度を超してはいませんか?」
「私も、当初は開催日の朝からギャラリーに行く予定でいましたよ。ですが、思いがけないことから神野先生のご不幸を知ってしまい、これは翌日になると業界内に知れ渡るなと思いました。そうなったら、作者逝去での値段高騰を期待して、美術品を投資物件か何かとしか見ていない連中が殺到することは目に見えています。私が神野先生の逝去を先駆けて知れたのは、美術の神の導きだと思ったのです。ですから、こうしてはいられないと……」
「でも、あなたはギャラリーに並ぶようなことはしなかったわけですよね」
「……」
「それは、どうしてですか」
「……」
「誰もいないと思っていたギャラリーに、明かりが点いているのを見たからですね」
「そ、それは……」
「で、中に入った」
「い、いや……」
「中には、神野さんのマネージャーである原田さんがいた。これ幸いにと、あなたは原田さんに交渉を持ちかけたのではないですか?『夜明け』を売って欲しいと。ですが、原田さんはその申し出を突っぱねた。諦めないあなたは原田さんと口論になり、かっとなって彼を突き飛ばしてしまい――」
「ち、違います! わ、私が中に入ったとき、あの青年はもう死んでいたんです!」
汗で湿ったハンカチを、鍋谷は顔に押しつけた。
「頭から血を流して……倒れていて……。私は怖くなって、すぐにその場から逃げ出しました……」
「それは、本当ですか」
「――本当です!」
「どうしてその場で警察なりに通報しなかったのですか」
「あ、あんな状況で通報なんてしたら、わ、私が犯人だと思われるに決まっています……」
「ちなみに、その時間は?」
「た、たぶん、八時半くらいかと……」
松原刑事は理真と目を見合わせた。二人とも、アルバイトの多野の証言のことを思い浮かべているに違いない。“八時半頃に、ギャラリーの通用口から出てきて逃走した怪しい人物”
「だ、黙っていて、すみません」
鍋谷は頭を下げた。
「正直にお話しいただき、ありがたかったです……と言いたいところなのですが」
「は、はっ?」
「鍋谷さん、実は、殺された原田さんの死亡推定時刻は、午後七時半から八時半のあいだなんです。つまり、あなたがギャラリーを訪れた時間も、ぎりぎりその範囲に入るんですよ」
「――ま、待って下さい! ほ、本当です! 私が行ったときにはもう、あの青年は死んでいたんです! わ、私じゃない!」
鍋谷は、懇願するような目を向けた。無言で見つめ返す松原刑事の横から、
「鍋谷さん」
理真が声をかけた。
「は、はい?」
強面の刑事から探偵へと、鍋谷は視線を移動させる。
「ギャラリーの中に入ったとき、お目当ての『夜明け』が展示されていることは確認しましたか?」
「えっ?」
「『夜明け』です。あなたが欲しがっていた。作品番号は、ええと……」
「四十五です」
「ああ、そうでしたね。それで、その『夜明け』はありましたか?」
「正直なところ……憶えていません。展示されている作品よりも先に、倒れている人に目が向いたものですから……」
「そうですか。それと、失礼なことを伺いますが、鍋谷さん、ギャラリーに入って、人――原田さんが倒れているのを目撃して、そのとき、作品を失敬していこうとは思わなかったのですか」
「はあ? な、なにを言ってるんですか?」
「購入するまでもなく、その場で展示されている絵を持って帰ることは可能でしたよね。誰も咎める人はいませんし」
「そ、そんな真似するわけがないでしょう! 神野先生に対する、芸術に対する冒涜ですよ! だいいち、そんな非合法の手段で入手した作品なんて、誰にも見せられないし自慢も出来ないじゃありませんか!」
「ですよね。すみませんでした」
理真は、ぺこりと頭を下げる。
「い、いえ、いいんですよ……」
またも汗を拭き拭き、鍋谷は少し落ち着きを取り戻したようだ。
「松原さん」と理真は隣に座る刑事に向いて、「私、現場となったギャラリーを見てみたいのですが」
「ええ、もちろん構いませんよ」
「では、行きましょう」
「あ――はい」と理真に続いて立ち上がった松原刑事は、「鍋谷さん、あとから正式に警察から聴取の呼び出しがありますからね。素直に従って下さいよ」
鍋谷は後頭部が見えるほど深く、項垂れるように頭を下げた。