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第5章 死を知るもの

 病院を訪れた私たちは、久我(くが)(みのる)に面会――正確には面会というよりは聴取――を求める前に、看護師のひとりに話を聞くことにした。(かん)()灯明(とうみょう)の容体が急変したことを(はら)()に知らせた看護師だ。


「電話をかけたとき、原田さんの様子に何かおかしな点はありませんでしたか?」


 理真(りま)が訊くと、“笠倉(かさくら)”と名札を提げた、その若い男性看護師は、


「驚いて、狼狽しているような感じはしましたけれど、こういう電話を受けた人というのは、みなさん同じような反応をされますから」

「そうですよね。それで、すぐに病院に来て下さいとは伝えたのですよね?」

「それは、もちろん」

「原田さんは、それに対して?」

「分かりました、すぐに行きます、と」

「ですが、実際は原田さんは病院へは来なかった」

「そのようですね。私は別の用事があったので、その電話を最後に神野さんの処置からは外れたので、詳しいことは分からないのですが……」

「そういったことは、ままあるのでしょうか? 入院患者が危篤という知らせを親族なり知人に入れて、相手もすぐに駆けつけると返事をしたのに、実際には来なかったということは」

「私が知る限り……そういう話を聞いたことはないですね」

「原田さんのほうから、何か訊かれたことはありませんでしたか?」

「……いえ、神野さんの容体が急変して危険な状態なので一刻も早く来て欲しいと、それを伝えて、向こうも、すぐに行く、と返事をした、本当にそれだけでした」

「……そうですか、ありがとうございました」


 笠倉看護師は仕事に戻っていった。


「原田さんは、ごくごく普通の対応をしただけのようですね。なのに、どうして病院には来ず、ギャラリーに留まっていたのか……」


 松原刑事は首を捻り、理真もあごに手を当てて黙考していた。



 改めて久我に聴取を求め、私たちは一階ロビーに場所を移した。病室でする話ではないためだ。

 松原(まつばら)刑事に同行してきた小瀬(おぜ)飛鳥(あすか)と顔を合わせると、親しげに挨拶を交わし、「新潟から来た探偵」と紹介された理真と私に対しては、一転怪訝な目を向けてきた。


「ええ、確かに、あの夜、私は神野先生の容体が急変したことと、治療の甲斐なく、それからすぐに亡くなられてしまったことを知りました。先生の病室にお邪魔しようとしたところ、医師や看護師たちが血相を変えて走り回っていましたので、彼らの会話の端々から、そのことを察したのです」


 少し寂しげな様子で、久我は理真の質問に答えた。やはり、彼は三日前の夜、神野が病没したことをリアルタイムで知っていたのだ。


「そのあとは、どうされていましたか?」


 次の質問をされると、久我は一瞬口ごもるような沈黙を見せたが、


「正直に言いますと……病院を抜け出していました」


 理真の後方に控えている松原刑事の様子が色めきだつ。どこへ行っていたのか、という問いかけに対しては、


「病院近くの喫茶店に入って、記事を書いていました。神野先生の追悼記事です。おっと、責めないでください。正式な発表よりもずっと早く、神野灯明逝去の情報を得ることが出来たのです。他のマスコミと差を付けるためにも、そこはペンを執るべき場面でしょ。私じゃなくとも、記者なら誰でもそうしましたよ」

「喫茶店にいたのは、どの程度の時間でしたか?」

「神野先生が亡くなったことを知ったのが午後七時半くらいで、喫茶店に入ったのが七時四十五分前後でした。店の営業が終わる午後九時までいて、それから病院に戻ってきました」


 その喫茶店の店名を聞きだした松原刑事は、スマートフォンで他の刑事に連絡を取った。アリバイの確認に行かせるのだ。久我の顔写真はすでに入手しているのだろう。


「神野さんのマネージャーの原田さんとは、面識がありましたか?」

「ええ、少しだけですけれどね。彼も亡くなってしまったそうですね。こんなに続けて師弟ともどもだなんて、おかしなものです」

「師弟? 原田さんはマネージャーということでしたが?」

「ああ、そうでしたね。でも、彼――原田くんも絵を描いていたんでしょ。私も一度見せてもらったことがありましたけれど、まあ、故人に対してこういう言い方はよくないのかもしれませんが、師匠には遠く及びませんでしたね。遠くというか、もう及びようがなくなってしまったわけですけれど……」


 言葉だけを聞けば冷たい印象だが、それを話す久我の表情には、どこか悲しげな陰がさしていた。あのまま絵を描き続けていたら、原田にはまだまだ伸びしろがあった。そう惜しんでいる気持ちがあったのかもしれないし、美術誌の記者として、純粋に芸術を愛する若者の死を嘆いていたのかもしれない。理真の横に座る小瀬も、何も言い返しはしなかった。


「原田さんの死に関係を持つような人物について、何か心当たりはありますか?」

「ありません」


 散々警察からも同じことを訊かれたのだろう。久我の答え方は、いかにもぞんざいだった。


「ところで」と今度は久我のほうから、「神野先生の個展は、どうなるんですか? 開催される見込みは立っているんですか?」


 それに対しては、松原刑事が、


「現在は殺人事件の捜査中ですので、捜査にひと区切りがつくまでは、難しいかと思います」

「そうですか……残念だな」

「久我さんも、個展に行くのを楽しみにしていたのですか」


 質問者は理真に戻った。久我は、ええ、まあ、と言ったあとに、


「あれにいくらの値が付くのかとか……」

「なんのことでしょう?」

「あっ」


 久我はばつの悪そうな顔になると、そのまま黙ってしまったが、


「久我さん、何かご存じなのであれば教えてください。これは殺人事件の捜査なのです」


 と理真に促されて、閉じていた口を開いた。


「これは、私以外の誰にも話していなかったことだと思うのですけれど……神野先生は、今度の個展に展示する全作品を売りに出すつもりだったようですよ」

「えっ? 本当ですか?」


 横から声を挟んだのは小瀬だった。


「ええ、私はこの耳で聞きましたからね」

「確か、今度の個展には、『夜明け』も展示されるはずですが、ということは、それも?」

「当然、販売対象になるでしょう。私が楽しみにしていたというのは、それなんですよ。あの『夜明け』がついに売りに出されるとなったら、いったい誰がいくらで買うのかということにね」

飛鳥(あすか)さん」


 理真に声をかけられた小瀬は、「ああ、えっと……」といったん落ち着きを取り戻して、


「神野先生は、基本的にお描きになった作品はほとんど販売していたのですが、特に気に入ったものや、個人的に所有する目的で描いたものなど、売りに出すつもりのない非売の作品が数点あったのです」

「その中のひとつが『夜明け』」

「そうです。先生のふるさとである小田原の港町を描いたもので、先生の最高傑作と評する人も多い作品です」

「同意見です」


 と久我も首肯した。


「その『夜明け』が、今度の個展で売りに出される予定だったと?」

「久我さんのお話しによると、そういうことになりますね」

「間違いありませんよ」と、その久我は、「恐らく、事前に発表してしまうと、『夜明け』をはじめとした非売作品の買い付け目当ての客が殺到して、美術鑑賞という個展本来の目的が害されてしまうことを先生は危惧したのでしょう。これは私の想像ですが、先生は個展会場で、『この人なら譲ってもいい』という客――というよりも美術愛好家――を審美して、何気なく商談を持ちかけるつもりでいらしたのではないでしょうか」

「それにしても……」と小瀬が、「先生は、どうして今になって全作品を手放すおつもりになったのでしょう……」

「この病院を出たら、故郷の小田原に帰りたいとおっしゃっていたので、その資金に充てるつもりだったのではないですか?」

「いえ」だが、小瀬は首を横に振って、「先生は、自分おひとりが暮らすのにちょうどよい小さな家を借りるおつもりで、もうその物件も探していたそうです。そんなに高額な家賃のかかる住まいではないはずですし、生活費にしても今までの蓄えで賄えると、そんなことをおっしゃっていた記憶があります。今さら、大切に所有していた作品を売ってまでお金を必要とするとは……」

「ご自身の死期を悟っていらしたのでしょうかね……」


 しんみりとした口調で久我が言った。


「ちなみに、その『夜明け』というのも、ファンが付けた渾名なのですよね?」

「そうですよ」と理真の質問に久我は、「通称『夜明け』作品番号四十五です。番号まで知っているのは、かなりのマニアだけでしょうけれどね」

「久我さん」

「はい?」

「そのこと――今度の個展で今まで非売品だった作品も売りに出されるということを、他に知っていた人はいますか?」

「いないと思いますよ。このことは、神野先生と懇意にしていて、入院仲間でもあった私だからこそ教えていただいたネタですので……」


 と、そこで久我の言葉が不自然に途絶えた。


「いるんですね」

「ああ、直接教えたわけじゃないのですが……鍋谷(なべたに)さんが……」

「どんな方ですか?」

「美術絵画の蒐集家ですよ。特に風景画が好きで、ですので必然、神野先生の作品も数多く所有されるほどのファンで……」

「『夜明け』を欲しがっていた」

「……そういうことです」

「その鍋谷さんが、今度の個展で『夜明け』が売りに出されるということを知っていたのですね。というよりも、先ほどの口ぶりだと、それを教えたのは久我さんのようですが」

「さっきも言いかけましたが、直接教えたわけじゃありません。彼――鍋谷さんは、私が原稿を執筆する喫茶店の常連らしく、よく顔を合わせるんです。そこで、もし『夜明け』が手に入るとしたら、いくらまで出す? というような話題を振ったことがあったんですよ。そうしたら、鍋谷さん、本気になって、『そういう話があるのか?』としつこく訊かれましてね。しょうがなく、『今度の個展を楽しみにしていてくれ』とだけ言って、その日は原稿執筆を切り上げて病院に帰ってきたんです」

「それは、いつのことでしたか?」

「四、五日前のことだったかな」

「それ以来、その鍋谷さんとは会っていませんか?」

「ええ……あ、いえ」

「会ったのですね。いつですか?」

「それが……三日前に」

「三日前というと、神野さんと原田さんが亡くなった日ですね。何時頃ですか?」

「確か……八時頃だったかな……」

「八時? ということは、会った場所は」

「ええ、喫茶店です」

「そのときに、もしかしたら、神野さんが病死されたことも教えたのでは」

「いえいえ!」と久我は顔の前で両手をぶんぶんと振って、「さすがの私も、そこまではしませんよ!」

「その鍋谷さんの連絡先を教えて下さい」

「は、はい……」


 久我が懐から取り出したスマートフォンを見ながら読み上げた連絡先を、私がメモに取る。


「ありがとうございました、久我さん」

「お、お役に立てたなら、光栄です」


 久我はぺこりと頭を下げ、理真は椅子から立ち上がった。そこに、


「ちなみに、久我さん」松原刑事が声をかけた。「あなたのアリバイははっきりしたようですよ。喫茶店の店員が記憶していました。三日前の七時四十五分頃から閉店の九時までの二時間近くをコーヒー一杯で粘っていたので、印象に残っていたそうです」

「あはは……。そのおかげでアリバイが証明されたのですから、ケチも身を助けることがありますね」


 頭をかく久我に、さらに松原刑事は、


「それとですね。あとから入店してきて、あなたに話しかけた男性がいたことも証言してくれました。時間にして八時少し前のことだそうです。先ほど話題に出ていた鍋谷さんなんじゃありませんか?」

「ああ、そうかもしれません」

「その男性、話をしているときに、ちらちらとあなたの持ち込んだタブレットの画面を覗き込むような仕草をしていたそうです。久我さん、あなた、そのとき喫茶店で神野さんの追悼記事を書いていたそうですね。それを見られたのではありませんか?」

「えっ?」

「つまり、鍋谷さんは、三日前の午後八時の時点で、神野灯明逝去の事実を知り得ていた可能性があります。で、その男性――鍋谷さんは、あなたとは数分も会話をするとすぐに店を出たそうですね」

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