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第4章 犯人が早すぎる

「その犯人について、具体的な容疑者などは上がっているのですか?」


 理真(りま)に訊かれると、松原(まつばら)刑事は腕組みをして、


「さて、そこなんですがね……。先ほども小瀬(おぜ)さんに言いましたが、亡くなった(はら)()さんに対して恨みを持つ人間というのは、今のところひとりも浮かんできていないんですな」

「怨恨の線は薄いと」

「そう考えざるを得ません」

「では、金銭目的というのは?」

「それも問題なんですな」

「問題とは、どういうことですか?」

「今度の事件に際して、我々はまず、まっさきに窃盗目的の犯行だと見当を付けました。なにせ事件現場は――わたくしは寡聞にして存じ上げませんでしたが――高名な画家であられる(かん)()灯明(とうみょう)の個展会場だというではありませんか。であれば、これはもう、神野さんの作品目当ての犯行だなと、そう考えるのは自然な流れではないでしょうか?」

「ええ、そうですね」

「ところがです」

「何か、おかしなことがあったと?」

「大ありなんです。現場を調べた結果、個展展示のためにギャラリーに持ち込まれた神野灯明の作品は、ひとつもなくなっていなかったんですな」

「そうなんですか?」

「ええ、個展のプログラムとも照らし合わせたうえで、ギャラリーのオーナーにも確認しましたから、間違いありません」


 松原刑事は組んでいた腕を解き、自分の両膝をぱんと打った。どうでもいいけど、この松原刑事、最初の挨拶こそ普通だったが、だんだんと言動の端々に無駄にベテラン刑事っぽい口調や仕草が目立つようになってきたな。まだ若いのに、そういうのに憧れているのだろうか。


「加えて」とベテラン刑事っぽい若手刑事は続けて、「絵画以外で、何かが盗難に遭ったという確認も取れませんでした。原田さんの財布には現金もカード類も手つかずで残されていましたし、(ふじ)さん――ギャラリーのオーナーさんです――のお話でも、普段現場には現金や高価なものなどは置かないようにしていたというのです。事務室なども検めてもらったのですが、ギャラリーから何かが消えているということもなかったそうです」

「であれば、物取りの線も薄いと言わざるを得ませんね」

「そのとおりで、我々も頭を痛めてるんですな」


 松原刑事は、渋面を作って自分のこめかみに指を突くという、相変わらずベテラン刑事みたいな仕草で答えた。


「なるほど」と対して理真は、自分のあごに手を当てて、「被害者に恨みを持つ容疑者は浮かんでこない。物取りの線も薄い……となると、事故ということは考えられないでしょうか? そうなると、多野(たの)さんが目撃した怪しい人物は事件とは無関係で、ギャラリーから出てきたように見えたのも、多野さんの勘違いだったということになりますが」


 原田の死因は柱の角に後頭部をぶつけたことだという。確かに、それならば誤って転倒したという可能性も捨てきれないと思われるが。


「それも……極めて薄いというのが我々の意見です。というのもですね……」


 と持参した資料ファイルを広げようとしたところで、「小瀬さんは……」と松原刑事は小瀬に視線を送った。が、小瀬は「構いません」と毅然たる態度で答える。これから見せてもらう資料には原田の遺体の写真もあることに対して、松原刑事は配慮したのだろう。「では」と松原刑事が開いたページには、思ったとおり、原田の遺体も含めた現場全体を捉えた写真が載せられていた。


「この写真にあるとおり」松原刑事は写真の一部を指さして、「原田さんが頭部を打ち付けた柱の位置は、床から三十センチ程度の高さのところです。こんな位置に頭を打つ理由など、転倒したと見るよりほかありません。ですが、遺体の足下周囲を調べても、液体がこぼれていたとか、踏みつけてしまうような何かが落ちていたといった、足を滑らせてしまうような要因は何も見つからなかったのですな。現場では会場設営のため脚立も使用していたそうなのですが、その脚立は物置にしまわれていました。よって、脚立の上でバランスを崩したということもありえないわけです。健康診断の結果や周囲の証言によると、原田さんはいたって健康体だったそうで、立ちくらみなどで転倒したという可能性も薄いと言わざるを得ません。解剖の結果、胃の中には消化中の食べ物が残されていましたから、空腹で倒れたということも考えにくいですし、その他、体調不良や怪我など、脚をもつれさせてしまうような原因も発見されませんでした。にもかかわらず、実際、原田さんがこのような亡くなり方をしたとなると……」

「何者かに突き飛ばされた。そう見るのが自然ということですね」

「おっしゃるとおりです」

「頭を打ったものが、移動や持ち上げ可能なものでしたら、何かの理由で頭上に掲げていて、手を滑らせて頭部を直撃したということも考えられますが、柱ですからね」


 持ち上げることなど出来るわけがない。次に松原刑事は、


「物取り目的で侵入した犯人が、会場設営をしていた原田さんと出くわして、揉み合いになって殺してしまい、怖くなって何も盗らずに逃走したのではないか、という意見も出たのですが。これも弱いと考えざるを得ませんね。というものですね、現場となったギャラリーは、中で照明が点いていれば、カーテンの隙間から明かりが漏れて外から確認できるのですよ」

「窃盗犯が、わざわざ中に人がいると分かっている建物に侵入するはずがない、ということですね」

「またまたおっしゃるとおり。もし原田さんが――どうして病院へ行かなかったのかという疑問とは別に――何かしらの用事で一時的にギャラリーを留守にすることがあったのだとしたら、必ず施錠はしていったはずです。なにせ、神野灯明の作品が数多く展示されているのですからね。原田さんの外出中を狙ったのであれば、犯人は建物内への侵入そのものが出来たはずはないのです。ギャラリーの鍵は特殊な電子キーで、複製不可能なものです。つまり、犯人がギャラリーに侵入した以上、そこには、中に人がいると分かって上で、それでも侵入した何かしらの目的があったはずなんです」

「犯行目的、というか、侵入目的、ですか」

「場所が場所だけに、絵を盗む以外に考えられないでしょう」

「ですが、中に人がいなければ侵入は不可能で、人がいるとしたなら、そのことは外から見て一目瞭然だった」

「ですので、わけがわからんのですよ……。とりあえず、事件に関する主な情報は以上です」


 松原刑事は表情をゆがめて頭をかいた。

 私はメモを取りながら、今回の事件についての特筆すべき要素、謎を順に書き出してみた。

1.被害者の原田は他人に恨みを買うような人物ではなく、怨恨の線は極めて薄い。

2.窃盗目的の犯行と思われたが、神野灯明の絵画はすべて無事だった。

3.死体の第一発見者である多野が目撃した、ギャラリーから出てきた怪しい人物が犯人なのか。また、その証言にはどこまで信憑性があるのか。

4.原田はなぜ、敬愛する神野が危篤に陥ったという報を受けても病院に駆けつけなかったのか。

5.神野の病死と原田の死には何か関連があるのか。ちなみに、神野の死は完全な病死であり、人為的な殺意が介入する余地のない自然死であることは間違いないと思われる。


 書き終えて、ふと横を見ると、理真も私のメモ帳を覗き込んでいた。その反対側からは、小瀬も同じようにメモの文面をうかがっている。私たちの対面に座る松原刑事も、メモの内容が気になるのか、物欲しそうに(などと言うと失礼だが)こちらを見やっていたので、私は持っていたメモを開いてテーブルの上に置いた。


「いや、失敬」と片手を上げて私の置いたメモに視線を落とした松原刑事は、「ははあ、こうして事件の謎や問題点を書き出して整理する、これがプロのワトソンの仕事なのですな」


 と感心したようにしきりに頷いていた。私も本職はアパートの管理人で、別にこれでご飯を食べているプロではないのだが。というか、探偵はともかく“プロのワトソン”などいるのだろうか。と、四人で額を付き合わせるようにメモを覗き込んでいたところ、


「あの」


 小瀬が小さく手を上げた。


「何ですか?」


 対面に座る松原刑事が顔を上げると、


「私、この由宇(ゆう)さんのメモを見ていて、少し気になるというか、考えたことがあるんですけれど……」

「はいはい、何でもおっしゃって下さい」

「この“5”にある、神野先生が亡くなられたことと原田くんの死についてなんですけれど……」

「何か繋がりがあると?」

「繋がりというか、犯行動機、でしょうか。あのですね、私も、犯人が神野先生の作品目当てで犯行に及んだという説には賛同します。でも、そこには、ただ単に“神野灯明の絵画が欲しい”ということだけではなくて、もう一歩踏み込んだ動機があったのではないかと思うんです」

「それは何ですか?」

「犯行のタイミングです。つまりですね、犯人が絵画を盗もうとギャラリーに侵入したのは、神野先生が亡くなった直後だということが、気になって」

「そこに何か別の動機があるということですか?」

「いえ、別の動機というか、動機を後押しするもの、とでも言いますか。私もイラストレーターのはしくれとして、あまりこんなことを言うのは憚られるところもあるのですが、世間一般では、同じ作品でも時と場合によって、その価値が急変するということが、ままあります」

「そうか」


 と呟いたのは理真だった。小瀬も、私越しに理真の顔を見て、


「理真さんはお分かりになりましたね」

「はい。飛鳥(あすか)さんの言いたいのは、“作者の死後に著作の価値が上がる”という現象のことですね」

「そうです」

「あ、なるほど」


 と松原刑事も膝を打った(慣用表現ではなく、本当に膝をぽんと打った。ベテラン刑事のように、って、このネタもういいか)。


「つまり、つまり」と松原刑事はテーブルの上に身を乗り出して、「犯人は、単に神野さんの作品が欲しかったというのではなくて、神野さんが亡くなったことで著作の価値が上がる――身も蓋もない言い方をすれば市場価格が上がる――ということを見越したうえで、犯行に及んだのではないかと」


 聞きながら小瀬は頷いた。


「しかし、実際のところは……」松原刑事は、もとのようにソファの背もたれにどしりと背中を預けると、「ギャラリーから絵は一枚も盗まれていない……」


 解せぬ、という表情で腕組みをした。


「そうなんですよ」と小瀬も、「私、由宇さんのメモを読んで、これだと感じて思わず口にしてしまったんですけれど、そもそも神野先生の作品はすべて無事だったのですよね」

「それと」


 珍しく私も手を上げた。小瀬の推理を聞いて気になるところがあったのだ。


「どうぞ」


 と松原刑事に促されて、私は、


「それにしては、犯行が早すぎませんか」

「早すぎるというのは?」

「だってですよ、神野さんが亡くなったのが、午後七時二十分ですよね。それで、原田さんの死亡推定時刻下限の八時半に犯行が行われたのだとしても、わずか一時間と十分後ですよ。まだ神野さんが亡くなったというニュースなんて、全然どこにも流れていないんじゃないですか?」

「あっ、それもそうか」


 松原刑事は自分のおでこをぴしゃりと叩いた。『探偵が早すぎる』というのはあるが、今度の場合はさしずめ「犯人が早すぎる」だ。神野の死を知った上で犯行に及んだのだとすると、その行動があまりにも。そこに、


「待って」


 と、文字通り待ったをかけたのは理真だった。三人の視線を浴びる中、探偵は、


「今の飛鳥さんの推理は、いい線行っていると私も思います」

「でも、理真さん」とその小瀬が、「由宇さんも言ったように、犯人が行動を起こすにはあまりにも早いわ」

「だったら、それが可能な人物を割り出せばいいんですよ。つまり、七時二十分、あるいはその直後に、神野さんの死を知り得た人物がいれば、それが容疑者候補となるのではないですか」

「――待ってください」と、それを聞いた松原刑事は、懐に手を突っ込んで自分のメモ帳を取り出すと、「ひとり、います」

「えっ?」


 今度は、松原刑事が他の三人の視線を一手に浴びながら、


「神野さんの入院していた病院に、知り合いである美術誌の記者がひとり入院していたんです。病室は別ですが、同じ階だったということもあって、頻繁に神野さんの病室を訪ねていたそうです」手帳を乱雑にめくっていた指を止めて、松原刑事は、「名前は、久我(くが)(みのる)といいます」

「私、知ってます」小瀬は声を上げて、「何度か取材を受けたことがあって、確かに神野先生とも親しくされていると聞きました」

「その、久我さんという記者が、当日夜に神野さんが病死したことを知る手段は、ありましたか?」


 理真の質問に、松原刑事は、


「それは……あると思います。午後七時なら、まだ消灯時間には早いですし、神野さんの病室を訪れようとしていた久我さんが、神野さんの容体が急変した現場に居合わせて、そのまま亡くなったことまで知り得たということは、十分あり得るのではないかと」

「アリバイはどうですか?」

「確認していません……少々お待ちを」


 松原刑事はスマートフォンを取り出して電話を掛けた。相手は同僚の刑事らしい。


「……病院に詰めている刑事がいますので、久我さんのアリバイを確認してもらっています」


 通話を終えた松原刑事は、スマートフォンをテーブルに置いた。


「病院とギャラリー間は、車で三十分程度だということですね」

「はい」松原刑事は理真の質問に頷いて、「久我さんは免許持ちです。入院こそしていますが、病床を離れられないほどの症状ではないので、医師の許可をもらったうえでですが、借りた病院の駐車場に置いてある会社の車を運転して、近くの喫茶店に原稿を書きに行くこともあると言っていました。病院だと書きものに集中できないとかで。ですので、七時二十分に神野さんの死を知り、すぐに車を飛ばしたのだとしたら、八時にはギャラリーに到着することは可能です。原田さんの死亡推定時刻内に十分入ります」

「仮に、久我さんが犯人だとしてもですよ、根本の問題は解決されません」

「ええ、絵画が無事だったということですよね。結局、その問題に――」


 松原刑事は、ワンコールも鳴り終えないうちにスマートフォンを取り上げた。


「……そうか、分かった」


 着信を受けたときの素早さとは雲泥の、ゆっくりとした動作でスマートフォンを懐に戻しながら、松原刑事は、


「久我さんのアリバイは確認できませんでした。神野さんが亡くなった夜、午後七時以降に病室に戻ったのかどうか、誰も見ていないそうです。こっそりと病院を抜け出して、車でギャラリーに行ってくることは十分可能でしょうな。そうであれば、アルバイトの多野さんが目撃したという怪しい人影も、久我さんかもしれません」

「多野さんがそれを目撃したのは、八時半でしたね」

「ええ。久我さんがギャラリーに到着したのが八時だとしたら、三十分の間が空くことになりますが、原田さんと何か言い争いをしていたのかもしれません」

「そもそも、久我さんはギャラリーに原田さんがいることを知っていたのでしょうか」

「あっ、その問題もありますね」

「はい。ギャラリーに誰もいなかったら、絵を盗むどころか、そもそも侵入自体が不可能です。久我さんが原田さんの電話番号を知っていて、ギャラリーにいることを確認したか、何か理由をつけて呼び出したということも考えられますが」

「いえ。調べましたが、午後七時以降の原田さんの携帯への着信は、神野さん危篤を知らせる病院からの連絡があったきりです。原田さんからの発信もありません」

「そうですか……」

「安堂さん、これから病院に行ってみませんか? 久我さんから直接話を聞いたほうが早いですよ」

「ですね」

「では、正面玄関でお待ちください。車を回してきますので」


 ファイルを小脇に抱えて松原刑事は、足早に応接室を出て行った。

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