第3章 彼は動かなかった
馬車道駅を出た私たちは、神奈川県警本部を目指した。
余談になるが、私も探偵業界の末席をけがすものとして、“馬車道”という地名を聞くと、この地に居を構えていた、我が国を代表するレジェンド探偵のビッグネームを思い浮かべずにはいられない。そのいわば“聖地”を、理真と一緒に事件捜査の一環としてこうして歩いていることに、私は言いようのない感慨を憶えるのだ。
県警本部に到着し、受付に取り次いでもらうと、私たちは応接室に案内され、程なくしてひとりの若い男性刑事が姿を見せた。
「どうも」その刑事は、ぴしりと敬礼してから警察手帳を開示して、「新潟県警の城島警部より、お話は伺っております。聞くところによると、安堂さんは新潟県警管内において、多くの事件解決実績を持っておられるとか。心強いことこのうえありません。お隣は、安堂さんのワトソンの江嶋さんですね。わたくし、このたび安堂さんとご一緒させていただくことになりました、神奈川県警捜査一課の松原堅一と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします。わたくしのことは、お気軽に『マツケン』とお呼び下さい」
言い終えると、もういちど敬礼した。私はお辞儀を返し、理真も「お世話になります、松原さん」と会釈して笑みを浮かべ、松原刑事の申し出を華麗にスルーしていた。
「そうそう」と松原刑事は、めげたような表情を一切見せることなく、「名探偵といえば、ここから近い馬車道にも、かつて著名な名探偵がいましてね。安堂さんもご存じでしょうが……」
「松原さん」と、そこに小瀬が口を挟み、「捜査のほうは、どうなっているのでしょう?」
「や、これは小瀬さん……」二度までも出鼻をくじかれた松原刑事は、頭をぽりぽりとかきながら、「正直なことを言わせていただければ、八方塞がりという状況です……。怨恨の線を辿ろうにも、小瀬さんのお話どおり、被害者の原田青年は、どこからも悪い噂を一切聞かないんですね。彼を恨み、ましてや殺そうとまで思っている人間など、この世のどこにもいないのではあるまいかと、捜査員連中は皆そう感じていますよ。雇い主の神野さんも生前、原田青年の働きぶりには大変満足しているというようなことを周囲に漏らしていたという証言もあります。彼の頑張りに何か報いてやりたい、というようなことも言っていたそうです」
「そうですか……。原田くん、神野先生がそんなふうにおっしゃっていたことを知っていたのかな……」
「小瀬さん、原田青年の無念は、我々が必ず晴らします。こうして力強い助っ人にもお越しいただいたことですし」
松原刑事は理真に手を向けた。というか、そもそも理真を助っ人として呼んだのは神奈川県警ではなくて小瀬なのだが。その理真が、「よろしくお願いします」と改めて頭を下げたところで、
「少々お待ちください。捜査資料を持ってきますので」
と松原刑事は応接室を出て行った。
「あの松原さんは、飛鳥さんと顔見知りなのですね」
理真が言うと、
「ええ、何度か聴取を受けました。そのたびに私が捜査状況をしつこく訊くものですから、少し閉口されているように思います」
「さっきの応対を見るに、私も同意見ですね」
理真は微笑んで、ソファの肘掛けに肘を置くと、長い脚を組み合わせてリラックスした姿勢になった。今日の理真はヒールのあるパンプスを履き、デニムのボトムに上は白いシャツを着ている。春とはいえ、新潟はまだまだ寒さが残る気候だが、横浜はきっと暖かいだろうと、いつもよりも薄着をしてきたのだが、その選択は正解だった。今日の横浜は春の陽気に包まれて、気持ちのいい青空が街を覆っている。同じ晴れ空でも、日本海側と太平洋側では、その性質が異なっていると来るたびに私は思う。太平洋側関東の晴れは、特段に晴れていることを主張しない晴れなのだ。「晴れですが何か?」とでも言わんばかりの。日本海側は違う。「どうだ、晴れているだろう」と、やけに晴れの主張が強い。年の半分は雲か雨か雪が空を支配しているという環境なので、晴れが恩着せがましくなるのは当然なのだが。それだけ晴れを貴重に感じられるというのが日本海側のいいところなのだと、そういうことにしておこう。
廊下に足音が近づいてくると、理真は組んでいた脚をほどき、背筋も伸ばす。ずっとそういう姿勢だった私には関係ない。いくら私も警察慣れしているとはいえ、初めて訪れる神奈川県警で緊張するのは当然だ。ワトソンのくせに情けないなどと思わないで欲しい。どんな環境でも平然としていられる理真が異常な強心臓なだけなのだということを、分かっていただきたい。
「お待たせしました」
資料を小脇に抱えた松原刑事がソファに腰を下ろしたところで、さっそく理真が事件の詳細について尋ねると、
「では、まず、事件発覚に至った経緯からお話ししましょう。原田さんの死体の第一発見者となったのは、個展会場設営のアルバイトに来ていた多野裕矢という名前の大学生です。彼の証言によりますと……」
個展開催の前日であったその日、原田と一緒に昼から設営作業を行っていた多野は、午後六時四十五分頃にギャラリーを出て、約束をしていた友人らとの外食先に向かった。アルバイトの拘束時間は午後七時までとなっていたのだが、設営準備が早めに完了したため、「バイト代は満額出すので、もう帰ってもよい」という原田の言葉に甘えたのだという。
外食を終えて友人たちと別れた多野は、帰路の途中でギャラリーの前を通りがかった。外食先から自宅へ帰るさい、ちょうどそこを通る道程となっていたのだ。道すがら多野は、ギャラリーの窓に引かれたカーテンの隙間から明かりが漏れているのを目にした。「まだ原田が残って作業をしているのだろうか」そう思った多野は、予定時刻よりも早く帰してもらった礼を言おうとギャラリー建物に向かった。そこで多野は怪しい人影を見たという。夜のことで顔などはまったく視認できなかったが、体つきからして成人男性らしい。その人影は、ギャラリーの通用口から出てきたように見え、周囲を気にするようにしながら、足早にその場を去って行ったという。その様子に不穏なものを感じ取った多野は、ギャラリーの通用口に走った。果たして通用口のドアには施錠がされていなかった。中に入った多野は、原田の名前を呼びながら、明かりが点いているホールに足を踏み入れ、そこで、頭から血を流して床に倒れている原田を発見、すぐに119番通報をした。時刻にして午後八時三十二分のことだった。
「原田さんの死亡推定時刻は、午後七時半から八時半の一時間の間と見られています」
ここに来る前に小瀬から聞いていたとおりだ。
「我々といたしましては、第一発見者の多野さんが目撃した怪しい人影を犯人と見なして、目下捜索中なのではありますが……」
成果は芳しくないということが、松原刑事の口調で察せられた。その松原刑事の口からため息がひとつ漏れたあとから、理真が、
「原田さんの死亡推定時刻の上限は七時半ということですが、死体に動かされたような形跡はあったのでしょうか?」
「いえ。そういった痕跡は一切認められませんでした」
「そうですか。であれば、アルバイトの多野さんが六時四十五分に帰ったあとも、原田さんはずっとギャラリーに留まり続けていたという可能性が高いわけですね」
「おっしゃるとおり」
「ここへ来る前に、小瀬さんのお話や新聞記事でも確認したのですが、入院していた神野灯明さんが亡くなったのが、午後七時二十分だということですね」
「それまた、おっしゃるとおり」
「そこが引っかかりますね。神野さんが病院で亡くなったのなら、その知らせ、あるいは容体が急変した時点で、原田さんに連絡が入るのではありませんか? そんな知らせを受けたら、原田さんは何を置いても病院に駆けつけたと思うのですが、なのに、原田さんの遺体がギャラリーで発見され、移動させられた形跡もないというのは」
「さすがですね」と松原刑事は、感心したようにうんうんと頷くと、「ちょうどいい。では次に、病院で亡くなられた神野さんのことについてお話ししましょう」
松原刑事は、次の話を始めるために背筋を伸ばし、ソファの上での居住まいを正してから、
「神野さんが亡くなったのは事件同日の午後七時二十分のことですが、容体が急変したのは、午後七時頃だったそうです」
「その、わずか二十分後に亡くなってしまわれたのですね」
「はい。神野さんはその日もいつもと変わらない様子だったといいますから、人の命というものは儚いものですな。まあ、それはともかく、容体の急変を知らされ病室に駆けつけた担当医師は、神野さんを看て、近しい人たちに病院に来てもらうよう看護師に言いつけたそうなのです」
「これはもう危ないな、と判断したということなのですね」
「ええ。そこで、手の空いていた看護師のひとりが原田さんの携帯に電話を入れたのです。神野さんは独り身で親族もおらず、近しい人といってもマネージャーである原田さんひとりくらいしかいなかったそうなので。で、看護師が『神野さんの容体が急変して危険な状態なので、すぐに病院に来て欲しい』と訴えて、原田さんも『分かりました』と答えたそうなのです」
「なのに、原田さんは病院に来なかった?」
「そうなります。実際、原田さんの遺体はギャラリーで発見されましたし、動かされた形跡はないことも事実です」
「ギャラリーから病院までは、どのくらいの時間がかかるのでしょう」
「車を飛ばして三十分ですね。原田さんは運転免許はありましたが、自家用車を持っていなかったので、病院に行くとなればタクシーを使ったことでしょう。原田さんの携帯に病院からの着信があったのは、七時五分と記録されています。その直後に運良くタクシーを拾えたのだとしても、病院に到着するのは七時三十五分。すでに死亡推定時刻の範疇に入ります」
「つまり、神野さん危篤の急報を受けたというのに、原田さんは病院へは行かなかったと?」
「そう考えて間違いないと思われます。実際、当日の夜に原田さんを見かけたという病院関係者の証言は一切取れていませんし、その時間帯、ギャラリー周辺から病院まで客を乗せたというタクシーも記録はありません」
「そして、ギャラリーに留まり続けていた原田さんは、七時半から八時半の間に、何者かに殺されてしまった……」
「そう考えざるを得ません……」
「ちなみに、神野さんの死には他殺を疑うような要素は一切ないのですよね」
「それは太鼓判を押してもいいでしょう。なにせ、入院中での病死ですからね。何か人為的な異変によって引き起こされた死であるなら、医者が見逃すはずがありません」
「神野さんの死期を予測できたとか、そういったことも?」
「ないです。医者の話によれば、神野さんは意識もはっきりしており、体調も良さそうに見えていましたが、いつなんどき何が起きてもおかしくない、不安定な状態だったそうです。その夜に容体が急変し、そのまま帰らぬ人となってしまったことも、誰にも予測は出来なかっただろうと」
「そうですか」
「はい」
と言ったあと、松原刑事は大きなため息を吐き出した。理真は少しの沈黙のあと、
「死体発見時に話を戻しますが、第一発見者の多野さんが目撃したという、ギャラリーから出てきた怪しい人影、その人物を犯人だとするならば、その犯人が現場から出てきたのは、多野さんが帰り道にギャラリーを訪れた八時半なのですから、原田さんの死亡推定時刻はその直前に絞られるという考え方も出来ますよね」
「おっしゃるとおりです。死亡推定時刻というのは、あくまで解剖学的に割り出されるものですから、状況的な勘案を加えることで、さらに絞り込むことは可能です」
「今回の場合の、死亡推定時刻を特定する状況的勘案というのが、その多野さんの目撃情報なわけですね」
「はい。原田さんが殺された時刻が、死亡推定時刻の上限の七時半だったとしたならば、犯人はそれから一時間も現場に留まっていたということになりますからね。犯罪者の心情的にもあり得ないとまでは言い切れませんが、ちょっと考えがたい状況です。仮に、もしそうなら、犯人には、被害者を殺してから現場でなにかやるべきことがあったということになりますが……」