第1章 安堂理真、東へ
安堂理真は、新潟県内を主たる活動範囲としている素人探偵である。彼女自身が新潟市在住であり、必然、事件捜査協力依頼が舞い込む場合、そのほとんどが新潟県警からのものであるためだ。が、それでもたまには県外へと赴くこともある。今度の場合がそれで、理真と私――江嶋由宇は一路、神奈川県横浜市を目指すべく車上の人となり、上越新幹線に揺られているのだ。
駅の売店で買い込んだコーヒーやお菓子を座席のテーブルに広げ、私は理真越しに(窓側の席は譲ってやった)車窓を覗き、そして、流れゆく景色に違和感を憶えてしまう。というのも、私と理真が新幹線で県外に出る場合、これまでは可能な限りほとんどE4系――いわゆる二階建て新幹線「Maxとき」を利用していたためだ。そのE4系Maxときは2021年10月1日をもって定期運用を終え、上越新幹線の車両はE4系と並行して使われていたE2系と、北陸新幹線でも使用されているE7系にすべて置き換わっている。今乗っているのは、その新型であるE7系で、私も理真もこの車両を使うのは初めてなのだ。E4系とお別れしたことで、二階席からの眺望を楽しめなくなった感傷に浸っていたのもつかの間、新潟駅を出発して長岡駅を過ぎる頃には私は、「新しい車両はいいな」とすっかり新型E7系の虜になってしまっていた。ごめんね、E4系。
思考が脱線した。さて、今回、理真と私が横浜に向かっているのは、もちろん観光などのレジャー目的ではない。事件捜査の依頼が来たためだ。依頼主の名は小瀬飛鳥。横浜在住のイラストレーターで、理真の本のカバーイラストを描いてもらったことがある縁で友人となったのだ。今「理真の本」と言ったことから察せられるとおり、安堂理真の本職は作家だ。素人探偵というのは彼女が持つもうひとつの顔に過ぎない(だからこそ“素人”探偵と呼ぶのだが)。その小瀬飛鳥から理真に電話がかかってきたのは昨日のこと。話によれば、横浜で開催される予定だった画家の個展会場で殺人事件が発生し、その被害者が小瀬の美大時代の友人だというのだ。ネットでニュースを漁って、理真と私もその事件の情報を得た。
事件が起きたのは、神奈川県出身の神野灯明という画家の個展が開かれる会場で、殺害された被害者の名は原田進とあった。職業は神野のマネージャーと記されていたことから、美大を出た小瀬の友人とはいえ、絵を商売にしてはいなかったらしい。詳しいことは横浜で落ち合ってから聞かせてもらうことになっている。
ちなみに、私は探偵ではない。私、江嶋由宇は、理真のいわゆる助手として、事件捜査の際にはほとんど毎回彼女に同行しているのだ。二十代半ばの女性同士での探偵とワトソンのコンビというのは、全国津々浦々捜してみても珍しい存在なのではないかと思っている。
新幹線を降りた私たちは、東京駅を行き交う人の奔流に久しぶりに圧倒されつつ――ときには飲み込まれ、流されつつ――横浜駅へ向かうために東海道本線に乗り換えた。
横浜駅に到着したら連絡を入れることになっていたが、理真がスマートフォンを取り出す前に、迎えに来てくれていた小瀬が私たちを見つけて声をかけてくれた。
「理真さん、由宇さん、お久しぶりです」
会釈をした拍子に、セミロングの柔らかな髪が揺れる。
「飛鳥さん、お久しぶりです」
理真と私も頭を下げた。小瀬飛鳥。主に水彩画を得意とし、若者向け雑誌の挿絵や書籍のカバー絵なども手がけたことで、普段美術に接する機会の少ない層にも名前の知られている美貌のイラストレーター(もちろん本人自身がそう吹聴しているわけではなく、マスコミが付けたキャッチコピー)だ。プロフィールでは年齢非公表で私たちも尋ねたことはないが、恐らく私や理真よりは少し上だろうと察する。なのに、彼女は私たちに対していつも丁寧な態度と言葉遣いを崩さない。意図してそうしているというよりは、生まれ持った気質なのだろうと私は見ている。本当にそうなのかは知らないが、彼女は“生まれついてのお嬢様”という空気をびんびんにまとっているのだ。ゆえにこちらとしても、彼女に合わせた姿勢と口調にならざるをえない。
駅構内を出て、小瀬の案内で近くの喫茶店に入った私たちは、挨拶もそこそこにさっそく本題に入った。
「地元紙の記事を持ってきました」
小瀬は鞄から新聞の切り抜きを出すとテーブルに並べた。事件の詳細を伝えているもののようだ。コーヒーカップに口を付けながら、理真と私は記事に目を通した。
事件が発覚したのは今から三日前。神野灯明の個展開催を翌日に控えた日の午後八時半のことだった。個展が開催されるギャラリーで原田の死体は発見され、その死因は、後頭部を強く打ち付けたことによる頭蓋骨及び脳への損傷というものだった。頭部すぐそばにある柱の角が赤く血で染まっており、傷口の形状と一致したことから、原田はこの柱の角に頭をぶつけて死亡したものと見て間違いないようだ。警察は事件と事故の両面で捜査を進めているという、この手の記事お決まりの文章で記事は締められていた。小瀬が提出した新聞の切り抜きはもう一枚あった。そちらにも目を通して、私と理真は思わず目を合わせた。それは、画家、神野灯明の訃報を伝える記事だったのだ。しかも、神野が亡くなったのは、原田が殺害された日と同日となっている。
「飛鳥さん、これは……」
理真は記事から小瀬に視線を移す。
「そうなんです」と小瀬は、「原田くんと同じ日に、神野先生も亡くなっているんです」
「それって、まさか……」
不穏な声色だったため、私の言いたいことを察したのだろう、小瀬は、「ああ、いえ」と胸の前で両手を振ると、
「神野先生は病死です。数箇月前から体調を悪くされ入退院を繰り返していらして、その入院先の病院で」
神野の死には病院のお墨付きが与えられているということか。ならば、その死に不審な点を疑う余地はないだろう。記事によれば、神野が病没したのは午後七時二十分のこと。原田の遺体が発見されたのが八時半とあったので、神野のほうが若干早くこの世を去ったということなのか。いや、原田の時間はあくまで死体発見の時刻だ。死亡推定時刻はそれよりも早い可能性は十分にあるが、この記事にはそこまで書かれていない。そう思っていると、
「原田さんが亡くなった時刻は、分かっているのですか?」
まさに、理真がそのことを質問した。
「はい」と小瀬は頷いて、「原田くんの死亡推定時刻は、七時半から八時半の間と見られているようです」
「ということは、やはり、神野さんのあとに原田さんが亡くなったというわけですね。最短で十分、最長でも一時間十分後に」
原田の死亡推定時刻に一時間の幅があるものの、神野、原田という死亡順序は不動のようだ。
「それにしても」と記事に視線を戻した理真は、「画家の神野さんと、そのマネージャーであった原田さんの二人ともが同じ日に亡くなったというのは、何か関連性があるように思えてなりませんね」
「警察も、そう考えているようですが、詳しいことは訊き出せませんでした」
その物言いから察するに、小瀬はこれ以上の事件に関する情報を持っては――正確には警察から知らされては――いないようだ。だからこそ、素人探偵としての実績を持つ理真を頼ってきたということなのだ。
「亡くなった原田さんは、飛鳥さんのご友人と聞きましたが」
理真もそう思ったのだろう。被害者に関することに話の内容をシフトした。それを受けて小瀬は小さく頷くと、
「はい。美大で同期だったんです」
「どんな方だったのですか」
「とにかく、口数の少ない、大人しい人でしたね。原田くんも卒業後は絵を仕事にすることを目標にしていましたが、いくら美大を出たとはいえ、絵一本で食べていくというのは難しいことですから」
「飛鳥さんも働きながら絵を描き続けていたんですよね」
「はい。私の場合は、幸運にもイラストレーターとしてやっていくことが出来るようになりましたが……」
「原田さんは、そうではなかった」
「ええ。彼も一度は一般企業に就職したのですが、人付き合いが得意でない性格から周囲に溶け込めず、苦労していたようです。それで務めていた会社を辞めてしまって、しばらくはバイトをしていたのですが、絵に対する情熱は変わらず持ち続けていました。口下手な彼が饒舌になるのは、少しお酒が入って、絵について語るときだけでした」
「それで、どういったいきさつで、神野さんのマネージャーになることに?」
「神野先生が、身の回りの世話とマネージャーの仕事もしてくれる人を捜している、という話が業界内で聞かれるようになって、それが原田くんの耳にも入って立候補したのだと思います。神野先生は独り身で、ごきょうだいなどの身内もいらっしゃらず、ずっとひとり暮らしを続けていらしたのですが、数年前にご病気をわずらってから、どうやら今の状況に不安をお持ちになったようです」
「自分にいざということが起きたときのために、ですね」
「そうだと思います。加えて高齢でもいらっしゃいましたから。神野先生のマネージャーには、原田くん以外にも多くの人が立候補したと聞きました。そのほとんどが、原田くんと同じように他に職を持ちながら絵を描いている人だったそうです」
「高名な画家である神野さんのそばにいられる栄誉を受けたいということで?」
「それもあったでしょうけれど、立候補したのは、神野灯明のマネージャーという立場を利用して自分の絵を売り込もうと考えていた人ばかりだったのだろうと思います。神野先生は、そういった下心を嫌っていましたから」
「ははあ。それでも、画家としてやっていきたいと考えている原田さんが採用されたというのは」
「原田くんは、他の立候補者たちとは違っていたのだと思います……いえ、絶対にそうだったはずです。原田くんは、神野先生の威を借りて自分の作品を売り込もうだなんて、そんなことは少しも考えない、考えたとしても、決して実行には移さない、そういう人でしたから。そんな彼の人柄を神野先生が見抜いたのだと、私はそう思っています。実際、神野先生も原田くんの働きぶりには満足していたそうです。原田くんも神野先生のことは純粋に尊敬していましたし、神野先生にしても、美術のことにまったく疎いよりは、そういった話題について話し相手になる人のほうが嬉しかったはずです。原田くんは、美術に詳しくて、おかしな下心もなく、純粋に自分のことを敬ってくれる、神野先生にとっては理想の人材だったのだろうと思います」
「なるほど」
「神野先生のマネージャーになってからも、原田くんとは何度か話をしたことがありました。会社勤めの頃とは違って、表情が見るからに明るくなっていましたから、彼にとってもやりがいのある仕事だったに違いありません。神野先生とお話しすることは、すべてが絵の勉強に繋がる、と嬉しそうに語っていましたから」
「ということは、神野さんのマネージャーになってからも、原田さんは絵をずっと描き続けていたのですね」
「はい。でも、絵で食べていこうという気持ちは、神野先生と一緒にいるうちに次第になくなっていったように私には見えました。さっきも言ったように、神野先生のマネージャーという立場になった以上、プロの絵描きになる夢はきっぱりと諦めたのだと、私は思いますし、仮に、実際にプロとしてデビューすることになったとしても、そうなったらもはや、原田くんは自分の本当の実力で評価されることはなくなってしまいます。どこまで行っても、“神野灯明に取り入ってプロになった”というレッテルを剥がすことは難しいでしょうから」
「そういうものかもしれませんね」
「はい。原田くんの中で、絵はもう趣味のひとつとして落とし込まれていったのだろうと思います。私も、原田くんの絵を見せてもらったことがありましたが、プロになりたいと一心不乱だった頃と違って、神野先生のマネージャーになってから描いた絵には、吹っ切れた自由さというか、誰かや世間に認めてもらうためじゃなくて、本当に自分の描きたいものを描いているんだという喜びを見いだせましたから……。原田くんの描く絵は、ほとんどが生まれ故郷の山形の港町の風景で……。あ、すみません、原田くんについての話が長くなってしまって……」
「いえ、関係者の人となりを知ることも、捜査には重要なことですから」
「はい……」
小瀬はハンカチで目元を拭った。