何が羊だよ(3)
大きく息を吸って、吐き出す。
それを繰り返し、どうにか心を落ち着かせた俺に向け、ヴォデッド宮中伯が話しかけてくる。
「書き加えられた部分はただのインクです。これも一つのメッセージかと」
この宮廷に出入りしていたイレール・フェシュネールならば、魔道具の存在について知っていた可能性が高い。だから体裁を整えるなら、インクを『血盟のインク』にするだろう。それすらしなかったということは、自分たちが隠蔽しようとしていることを、こちらに明確に伝えたいのだろう。
「わざわざその部分を書き加えて持ってきたということは、余に対し『そういうこと』にして手打ちにしようと……そう持ちかけてきたということだな」
先帝にとって、イレール・フェシュネールは自分の私財を無償で渡しても惜しくないくらいの相手だった。つまりイレール・フェシュネールは、おそらく先帝の愛人だったのだろう。
先帝にとって父親に当たる六代皇帝は、皇帝になる前から淫蕩に走っていた。なら、その子供にも同じ気があったっておかしくはない。
そう考えると、今回奴らが警備の目を掻い潜り、突如宮殿に現れた理由も納得できる。
「抜け道を通って来たか」
この宮廷には、緊急脱出用の抜け道がいくつかあるのだろう。今回、あの二人はそのどれかを利用して侵入してきたと見ていい。
「抜け道は全て把握していますが、その全てを監視することは叶いません。そういった抜け道は塞いでいたはずですが……甘かったようです」
「出入り口を塞いだ程度では無理やり通れるだろう。仕方がない」
先帝とイレール・フェシュネールの関係を無かったことにする為に、元から「こういう契約だった」ということにしようと、無言で提案されている訳だ。
多少、文面に違和感があっても、黄金羊商会と俺が「正しい書類である」と認めれば、それが真実になる。ようは事実の隠蔽だが、帝国としては有難い申し出だ。
そしてたぶん、黄金羊商会にとっても。
貴族でない人間が、愛人として取り入ったというのは、この世界でも褒められたことではない。まぁ、皇帝が平民に手を出したって方がよっぽど醜聞の類なのだが。
ただ今回のこの書類、それだけの話ではない。イレール・フェシュネールの黄金羊商会は、ただ隠蔽するだけでなく、受け取った金貨・銀貨を倍にして返すという。
一見すると、こちらに有利な申し出に見える。
だが、彼らは商人だ。そんな甘い話な訳が無い。
「テアーナベ連合を独立させ、陛下の勢力になり得た中立派を切り崩したことに対する『詫び』も含まれているかもしれません」
ティモナのその言葉に、俺は思わず自嘲に似た笑いを浮かべ答える。
「あぁそうだ……それが困るのだ」
そもそも俺は、盗まれた私財は取り戻せなくても良いと思っていた。
もし現金が無いのなら、その分の補填をしてもらえればいい。それこそ、異大陸の国家に売っていた武器……その残りを供出するように命じることもできた。
さらに言えば、船を何隻か譲るよう求めることもできたかもしれない。あるいは対アキカール攻撃への艦隊支援だって求められたかもしれない。
なにより、情報を引き渡すよう要求できたかもしれない。
彼らが持つ情報、それの価値は計り知れない。異大陸の海岸線、地図。そこにどのような国家があり、どこが戦争状態にあるのか。どのような資源があり、どのくらい輸入が見込めるのか。そして黄金羊商会の正確な規模……あるいは、どこにどれくらいの拠点を持っているのか。
そういった、大きな情報……これは金に換えられない価値があった。
それを手に入れるための交渉、その取っ掛かりに「私財窃盗の代償」は最適だった。そのつもりで声をかけた。
だがそれは、最初からこちらの手札ではなかったらしい。
そしてこの資金提供……倍額にしているのは、無償の融資と取っていいだろう。これによって、こちらが被った「不利益の補填」というカードも打ち消された。
そもそも、テアーナベ連合として独立した中立派貴族と、俺の間に協力関係があった訳では無い。だから手札としては言いがかりに近い、弱いカードだった。それを、過剰なまでの金額で黙らせにきた。
言ってしまえばこの大金貨100万枚、大銀貨100万枚の追加で、先に補填をされてしまったのだ。
どうやら、よほど情報を渡したくないらしい。流石は大商人、情報の重要さを分かっている。
それどころか、このくらいの資金は容易く引き渡せるという示威にすらなっている。金欠で借金まみれの帝国にとって、これはどうしようもなく魅力的だ。
「手痛い先制だ」
あのふざけたしゃべり方と態度……俺と同じ擬態か。
「帝国に従わせるのは無理だな」
情報を供出させ、時間をかけて帝国の完全な支配下に置きたかった。だがその一歩目でつまずいた。金を払って交渉材料を封じてきたのだ。黄金羊商会の拠点や正確な規模、異大陸の海岸線や国家などの『情報』は、もはや手が出せない。それを求めれば、手を切られるか莫大な対価を求められる。
今の俺に、それに見合う対価は用意できない。
もちろん、むりやり従わせようとすることはできる。だが力を削ぐことはできないだろう。彼らの海外拠点がどこにあるのか分からない以上、いつでも力を保持した状態で逃げられてしまう。
というか、まだ政情が安定していない帝国で、内側に敵を作ったらその部分から荒らされる。
あるいは、本気で敵に回られた場合……その豊富な資金力で、周辺諸国を抱き込み、包囲網を組まれるかもしれない。それこそ悪夢だ。
かといって、交渉を打ち切るのもナンセンスだ。金欠状態の帝国にとって、黄金羊商会の豊富な資金力は正に黄金。リスクを負ってでも手を取る価値がある。
「妥協しよう。それしかない」
従えるのは不可能。なら、同盟に近い形に持っていくしかない。対等なパートナーとして。ただの商会相手に一大国家が対等とは、弱気と取られるかもしれない。こればっかりは仕方がない。向こうの方が金を持っているのだから。
「帝国大金貨200万枚・帝国大銀貨200万枚……彼らにとっても安い出費ではないはずです」
ティモナの言葉に、俺はため息と共に答える。
「そうだと良いがな」
そもそも通貨の価値は流動的なものだ。誰が発行したかによって、またその国家の状況によって、その価値は大きく変わる。これはまぁ、現代の地球でも同じだったのだから当然と言えば当然か。
そして、今回収められることになりそうな「帝国硬貨」についてだが、これは今まで帝国が発行してきた「含有率が共通している硬貨」を指す呼び方である。
帝国における硬貨の歴史は、ロタール帝国にまで遡る。彼らが最初に発行した4種類の硬貨が、現在に至るまでの基準となっている。
前ギオルス朝と呼ばれる王朝が安定して長く続いた理由の一つは、金貨と銀貨の『含有率』を厳しく定めた為だと個人的には思っている。発行時の皇帝の顔が刻まれたこの硬貨は、その安定した「価値」により、周辺諸国でも取引に用いられていた。それは結果的に、ロタール帝国の周辺諸国に対する「影響力」にもつながった。
だが前ギオルス朝の末期、この含有率を引き下げる『改鋳』が行われ、結果王朝は滅んでしまう。
この『改鋳』とは……例えば、金の含有率がほぼ100パーセントに近い金貨をそれまで発行していたのだとして、その含有率を50パーセントに引き下げれば、それまで一枚分だった金の量で二枚発行できることになる。この余分につくれた一枚が、そのまま皇帝の懐に入る。つまり、発行すればするだけ利益が出る……ように見える。これが改鋳である。
だがこれには重大な前提がある。それは、「含有率がほぼ100パーセントの金貨」と「含有率50パーセントの金貨」が同じ通貨価値で取引されなければ意味がないというものである。
改鋳後の金貨が、元の金貨の半分の価値でしか取引されなければ、含有率通りの取引である。何の利益にもならない。
勿論、『改鋳』をした皇帝はそれを防ぐ為に、「含有率を引き下げた硬貨も、それまでの硬貨と同じ通貨価値で取引せよ」と圧力をかける。
しかし、その時点で皇帝の力が弱まっていれば、この圧力も無視される。前ギオルス朝の末期がそうだ。国家財政が厳しくなったから含有率を下げた。しかしその硬貨は「帝国硬貨」とは見なされなくなった。結果、財源の捻出に失敗し、そのまま滅んでいった。
これは後ギオルス朝でも同じことが起こった。初期は元の含有率で発行し、滅亡の直前に『改鋳』が行われ、やはり無視された。
その後、ブングダルト帝国が建国したカーディナル帝は、新たに発行する硬貨の含有率を、ロタール帝国時代の硬貨と同じ含有率で発行した。それが通称「帝国硬貨」と呼ばれるもの……大金貨、小金貨、大銀貨、小銀貨の4種類である。交換レートは大金貨1枚=小金貨4枚=大銀貨4枚=小銀貨40枚。
んで、この通貨がどれくらいの価値があるかなのだが……よく言われていたのは、「大工が『三食、寝床付き、毎晩一杯のビールが支給される』という契約で『3日間』働き続けると貰える給料が『小金貨1枚』」らしい。
日本円にすると? ……物価も労働の危険度も何もかも違うのに変換できる訳がない。
ただ、この価格は数十年前までの話である。最近は悪質な「ラウル金貨」と「アキカール銀貨」による取引を宰相や式部卿によって強制されていた為、相対的に「良質」な帝国硬貨は価値が跳ね上がっているはずだ。今なら帝国小金貨で貰おうとすると、たぶん二週間は働かないといけない。
つまり、帝国大金貨200万枚・帝国大銀貨200万枚の収入は、俺たちにとってかなりの額になる。
まぁ、帝国がしている借金の完済には到底届かないんだけどね。
それでも、この内乱は乗り切れるのではないだろうか。
「見返りを求められ続けます」
ヴォデッド宮中伯の危機感ももっともだ。だが、やはり跳ねのける選択肢はない。
「それが取引というものだろう。そして我々には、金が必要だ」
とはいえ、一方的に利益を与えるつもりも無い。
「仕切り直しだ。謁見の間に戻るぞ」
仕切り直し……あるいは開き直りの第二ラウンドだ。