二度目の巡遊
初レビュー! ありがとうございます!!
そして投稿遅れて申し訳ありません……
新暦466年夏。皇帝の一行は2度目の巡遊へと旅立った。
主に帝国西部、式部卿の勢力圏を巡遊する為である。
1度目の巡遊でガーフル騎兵に襲撃されたトラウマで、散々嫌がる(フリをする)皇帝を説得したのは、摂政とヴォデッド宮中伯だった。式部卿はこの二人に借りを作った形となった。
そこまでしてでも皇帝を引っ張り出したのは、前回の巡遊がほとんど宰相派の領地しか巡らなかったためだ。これでは不公平だということなのだろう。
以前までの宰相なら、ここで確実に介入していた。表向きは嫌がる皇帝を庇うようにな。少なくとも式部卿の行動を批判するくらいはしただろう。
今回はそれすら無かった。つまり、その余力が無いということだ。
ここで暴発されても困るので、正直気は進まなかったが……ロザリアとサロモンなど、「ベルべー王国組」を帝都に置いておく事にした。
元々巡遊に出た理由の一つが「ロザリアたちを帝都から離すため」だったのだが……明らかに事情が変わった。
前回の巡遊までは宰相と式部卿にとって「邪魔になったら排除できる存在」だった。仮にその結果、俺が抗議しても「ベルべー王国の密命を受け良からぬ事を企んでいた」として処理されていた可能性が高い。
だが例の襲撃事件の結果、宰相と式部卿の二人には「帝国を裏切っているかもしれない」という疑惑の目が向けられている。実際は「都合の良い寄生先」くらいにしか思ってないと俺は確信してるけどな。
それまで二人に対し「裏切っているのではないか」と言っても「言いがかり」にしかならなかった。それが今では「疑い」になる。
対するロザリアたちだが、戦闘に参加したこと(実際に戦ったかではなく、その場にいたこと)で、「幼い皇帝の信頼を受けている」と判断されている。この情勢で彼女らに手を出せば、「やはり裏切っていた」とされ、その行動に正当性を保てなくなる。
『出る杭は打たれる』と言うが……それは『打つ物』がある時に限る。槌が修理される(派閥の動揺が落ち着く)までは間違いなく安全だ。
素手で打つほど追い込まれてもいないしな。
ロザリアやサロモンなら、摂政と宰相のバランサーとして機能するだろう。面倒臭い俗物爺は俺と同行するしな。
こうして前回以上の護衛が付いた巡遊は、8月に出立となった。
ちなみに今回の巡遊にはヴォデッド宮中伯もついて来た。特に何も言われなかったが、どうやら例の「皇帝襲撃事件」に対して思うところがあったらしい。
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当然の事だが、今回の巡遊では暗殺されかけることも、襲撃されることも無かった。
だが前回と違い、今回はヴォデッド宮中伯が同行している。お陰で色々と細かいところまで知ることができた。貴族の性格、地元民の領主に対する評価はもちろん、見学できない施設の詳細なんかも。
ティモナもかなり教えこまれているが、常に俺と行動を共にしているせいで地方の事情には疎いのだ。
分かったこととしては……まず、帝国西部の経済は海上貿易により相当潤っている。下手するとラウル公領以上に。
それが軍事力に直結していないのは、アキカール公が自領の一部を息子たちに「譲渡」しているから。それが長男のアキカール=ノベ侯フリードと、次男のアキカール=ドゥデッチ侯アウグストである。そして何より、この二人が不仲であること。それが摂政派の『弱点』である。
まぁ、宰相派にも『弱点』はあるんだが……それは置いておこう。
とはいえ「致命的」までは行かない。例えば帝国西部で主流通貨となっている銀。帝国最大の銀山はちゃっかりアキカール公本人が握っている。
ちなみに銀の精錬は水銀を用いた『アマルガム法』が普及しているようだ。また一つ、内政チート案が潰れました。
もっとも、これは直接見れた訳では無い。銀関係と製塩関係は一切見学できなかった。どうやらこの二つがアキカール公領での主産業らしい。
あと興味深かったのは魔道具工房か。ラウル公領で大砲が量産され始めているように、こちらでは「軍事利用できる魔道具」の開発が進められているらしい。もっとも、具体的に何がどの段階まで進んでいるかはヴォデッド宮中伯でも探れなかった様だ。流石にその辺の防諜意識はあるらしい。
あとはひたすら歓待を受けるだけのつまらない旅だった。
……皇帝の馬車が回収されていたせいで、移動中ずっと一人だったんだよね。大変退屈でした。
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見るべき物は少ない旅だったが、気づけたことはある。言葉にするのは難しいが……空気感というのだろうか。それが前回と異質だった。早い話が、市民たちからはそれ程歓迎されなかったのだ。
皇帝の母親はアキカール公の娘。にも関わらず、だ。
かと言って、反発や拒絶をされた訳でもない。「無関心」というのが一番しっくりくるか。
むしろ拒絶反応を感じたのは「男爵」や「子爵」階級の一部だ。ヴォデッド宮中伯曰く、彼らは「旧アキカール王国貴族の生き残り」とのことだ。
アキカール地方の歴史を紐解けば、彼らの反発も理解できる。
そもそも、ロタール帝国の崩壊以前からアキカール地方には独自の文化圏が存在した。そのため、ロタール帝国から真っ先に独立したのがアキカール王国であり、そしてブングダルト朝による「帝国再統一」に最も強固に抵抗したのも彼らであった。
ブングダルト帝国2代皇帝エドワード1世は、アキカール王国降伏の条件として寛大なものを提示せざるを得なかった。アキカール貴族は爵位こそ男爵や子爵に落とされたものの、その権限は伯爵・侯爵並のものに据え置かれた。そして何より、「参戦義務の免除」が約束されたのだ。これは他国と交戦する際、例え防衛戦争であっても出兵しなくて良いという極めて有利な条件であった。
だがこの栄華は長くは続かなかった。
3代皇帝シャルル1世の時代、帝国はガーフル王国(既に共和制だったが名目上の王がいた)の侵略を受ける。この戦争は帝国が会戦で大敗を喫すも、諸侯の力で何とか退けた。
当然、侵略戦争では無いので領土を得たわけではない。参戦した諸侯らに領土は与えられず、彼らに不満が出ていた。
対して、2代皇帝から「参戦義務」を免除とされていたアキカール貴族のほとんどは、この戦争に参戦しなかった。
そこでシャルル1世が取った行動は、彼らアキカール貴族の行動を「利敵行為」とし、一方的に領地の没収を宣言することであった。
これは明らかに降伏条件を破る暴挙であった。こういった暴挙の多くは、貴族の賛同が得られず破綻する。しかしこの時は違った。シャルル1世は諸侯に対し、「得た領地をガーフル王国との戦争に参戦した諸侯に分配する」と約束していたのだ。
その為、利益を優先した諸侯の賛同によりこの暴挙は成立してしまったのだ。
「アキカール」としてある程度自治が残されていたことも悪い方に作用した。諸侯にとって彼らは「アキカール貴族」であって、「帝国貴族」とは見られなかったのだ。
反乱を起こそうにも時すでに遅し。領内に諸侯の軍勢が入り込んでいた為、アキカール貴族は挙兵を断念した。
この時、様々な特権も剥奪された。
この「帝国憎し」のアキカール貴族と向き合い、交渉を重ねることで沈静化に成功したのが4代皇帝エドワード2世。度重なる増税によって『アキカール大反乱』を発生させたのが6代皇帝エドワード3世。この『アキカール大反乱』を鎮圧し、アキカール公として彼らを支配下に置いたのが現アキカール公……式部卿フィリップである。
つまり……「旧アキカール貴族」である男爵や子爵らにとって、皇帝も式部卿も等しく『敵』なのだ。今反乱が起きないのは、彼らに挙兵するだけの力がないからだ。逆に言えば、状況の変化により挙兵が起きる可能性もある。
何が言いたいかというと、『摂政派』というのは思っていた以上に脆弱な構造をしているようだ。式部卿と摂政という二頭体制、長男と次男の対立。そして旧アキカール貴族の「反ブングダルト感情」。
これはもしかすると……上手いこと利用できるかもしれないな。
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