ヒシャルノベ事件1
新暦465年8月、皇帝の一行はラウル公領へと入った。
領地称号的にはエトゥルシャル侯領。ここから東はほとんど宰相の領地だ。
だが彼はこの一行に付いてきていない。テアーナベ連合との前線から離れられなくなったからな。
どうにかして自領に戻ろうと、何かしらの手は打ちそうだが……流石にそこまではどうしようもない。
ベイラー=ノベ伯領を出た後、この一行は東へと進んできた。通って来たのはベイラー=トレ伯領、ペクシャー伯領、ディンカ伯領、アーンダル侯領、ヴァッドポー伯領。まぁ、ディンカ伯領については俺が無理言って寄ったんだが。
それぞれの土地で名産や名所を見てきた……巡遊と言うが、やってることは社会科見学と変わらないのだ。
だが「この国について」を学びたい俺にとっては、非常に有意義な旅であったと言っていいだろう。前世の社会科見学とは向き合う姿勢が違うのだよ。命が懸かってるから。
分かった事としては……まず、帝国北部は全体的に丘陵地帯が多く、そして羊毛の一大産地でもあるということだろう。特にベイラー=トレ伯領は人口より羊の方が多いのではないかってくらい羊だらけだった。食事にも毎回羊肉が出てきたしな。
ヴァッドポー伯領では林業も盛んだった。驚いたのは「植林」の概念がちゃんとあったことだな。これはもしかすると……いや、今はいいか。ともかく、山がちゃんと管理されている……これは良いことだ。
ペクシャー伯領はガラス製品が有名なようだ。邪魔になるレベルで贈られた。
残念ながらガラスについての知識は全くないので、それがどのくらい発達しているのか、どれほど発達の余地があるのか俺には分からない。何せガラス製品が作られるところなんて、前世含めて初めて見たからな。
ディンカ伯領はペクシャー伯領の南にある領地で、本来通る予定は無かったのだが……俺が駄々こねて寄った場所だ。その名産は何といっても鉄。
武器には欠かせない素材だ。気になるのも当然と言うものだろう。
ここで分かった事は三つ。一つ目は「銃や大砲には『鋼』が使われている」ということ。二つ目は「『鋼』は大量生産できず、希少である」こと。三つ目は「『レール』が存在する」ことだ。
『鋼』については予想通りだ。確か『鋼』の大量生産は産業革命以降だったはず。その「大量生産が可能となった製法」についても俺は知らないのだが。
ただ、既に『レール』がある事については想定外だった。レールとトロッコの組み合わせは、俺が実権を握った後にやらせようと思っていたくらいに。
しかし『鋼』の生産量が少ない為、レールは木製だった。当然耐久性は低く、事故が多発しているようだ。その為、内部で働いているのはほとんど奴隷だった。
奴隷……これも難しい問題だ。正直、この制度はいずれ必ず崩壊すると思っている。かと言って、突如廃止を宣言したところで混乱し、宣言の効力は失われるだろう。また奴隷から解放されたせいで衣食住を失うなんて事になれば本末転倒だしな……どうしたものか。
最後にアーンダル侯領。ここは帝国北部では数少ない平地が広がっており、北部にとっての生命線と言っても良いくらいの穀倉地帯だ。だが派閥対立のせいで、その穀物は北部全体に行き届いていない。
アーンダル侯と同じ摂政派のディンカ伯・ヴァッドポー伯の土地には供給され、宰相派の土地には供給されないのだ。特にペクシャー伯領では飢饉まで行かないが、全体的に食料不足だった。この格差は間違いなく後々に響く。
貴族の首を挿げ替える事はできても、農民の感情を180度変えるのは困難だからな……
どれも知ることができて良かった事ばかりだ。この調子で帝国全体を見て回れれば、何が必要でどこを変えるべきか見えてくるだろう。
ちなみに、今更だが「ノベ」と「トレ」はロタール語でそれぞれ「西」と「東」って意味だ。
我々の現在地、ヒシャルノベの「ノベ」もそういう意味なのかは知らない。予定では通り過ぎるだけだったから。
***
それはいつになく突然のことだった。
まず、何もない道端で突然隊列が止まった。
「……前の方がまた騒がしいな」
「いつものでしょうか?」
隊列が止まること自体は毎日の事だった。平民が平伏しなかっただの、後ろの馬車が必要以上に距離を詰めて来ただのと……ただこの時は、いつも以上に騒がしかった。
「それとも馬車の故障……」
「待て。様子がおかしい」
いつものなら説明に来るティモナが未だに来ない事、そしてもの凄い速さで横を通り抜けていく馬車や馬があった事。
何より……
「今の馬車……あの紋章は確か、ヴァッドポー伯?」
摂政派貴族で、自領を通り過ぎた後も「侍従武官として護衛に付く」とか言ってここまでついて来た、ヴァッドポー伯。
「逃げている? これは……」
そんな時だった。馬車のドアが勢いよく開け放たれたのは。
「ガーフル軍です! 私が御者になります!!」
いつになく焦った様子のティモナがそう叫んだ。
ガーフル共和国……ラウル公領の北にある、敵国。
……これはヤバいな。
「もともといた御者は?」
「既に逃亡しております!」
マジか。全然気づかなかった。
こっちの音が外に漏れないよう、防音性高いからなぁこの馬車。
「任せる」
「はっ」
正直、転生後最大のピンチかもしれない。が、一周回って落ち着いている自分がいる。
ティモナは馬車を右へと曲げると、街道を外れて真っすぐ南へと走り出した。
いい判断だ。馬車の操縦や行き先はティモナに任せるとして……
「へ、陛下っ」
「落ち着いて、ロザリア。大丈夫。まだ接敵したわけじゃない」
戦闘音は聞こえなかった。それに、そのガーフル軍の目的が俺だとしても、すぐに追いつかれるということは無いだろう。
「ロザリア、今は君が頼りだ。わかるかい」
焦って当然なんだけど、今それでは困る。あの様子だと、貴族たちは全員保身に走ったようだ。皇帝に事情を説明する事すら無く。流石は傀儡。
よって、これからしばらくこの三人で何とかしなければならない。焦っている暇なんて無いのだよ。
「は、はい。大丈夫、ですわ」
「よし。では扉を開けて、外の様子を確認できるかい? 落ちないよう、しっかり支えるから」
「わかりましたわ」
正直、今すぐにでも全力で魔法を使いたいところだけど……貴族たちがいる目の前でそれはできない。生き残る事が最優先ではあるが、「その後」も考えなくてはいけないからね。
「えっと……まだ隊列は半分ほど残ってますわ! かなり混乱しているようで……ガーフル軍らしき姿は見えません」
「周りに他の人間は!?」
「見当たりませんわ!」
「よし、ありがとう! 戻って」
風が凄いが……ドアは外の情報を得るために開けておきたいな。ロザリアの報告で周囲に誰もいないことが分かったし……
馬車から身を乗り出し、魔力を練る。
イメージは馬車の前面と上、そして左右を覆う防壁。風もしっかりと防げるように……
「『防壁』!!」
「ありがとうございます陛下!」
これで外にいるティモナとも意思疎通が出来る。
「情報の裏付けは?」
「密偵とベルベー王国の部隊双方から報告を受けました! ベルベー王国の部隊は一部が接近し情報収集、本隊は南へ先行しております」
例の魔法使い部隊……味方してくれるのか。
ロザリアと婚約してなかったらどうなっていた事か。
「侍女となっていた者は?」
「彼女らとサロモン卿は残り、場合によっては時間を稼ぐとのこと」
「それはありがたい……密偵の方は?」
「ほとんどの者と連絡が付きません。狩られた可能性があります」
なるほど……どうやらガーフル軍の狙いは皇帝らしい。
しかし殺した場合はデメリットの方が大きいだろう。腐敗した帝国より、大義名分を持ったラウル王国の方が脅威なはずだ。
となると……皇帝を捕虜にするのが狙いか。程よく帝国を混乱させ、面しているラウル公の威厳を失墜させ、皇帝本人の名誉を堕としプライドをへし折る。その上ガーフル共和国に対する恐怖心や苦手意識も植え付けられる。良い事尽くめだな。
だが捕虜にすることを徹底させるとなると……
「敵は少数の精鋭部隊か」
「推定騎馬1000騎。随伴を除いて歩兵は見られません」
……多いな。流石は元騎馬民族。
ティモナが猛スピードで馬を走らせているせいで、馬車はミシミシと音を立てている。
「馬車の修理は構造が分からないから無理だ。放棄し、騎乗して逃げよう」
「不慣れなお二人に長時間の騎乗は無理です」
「全力で魔法を使う」
四頭立て馬車だから……
「二人は騎乗。それぞれ一頭を換えの馬とする。俺はロザリアを魔法で支援しつつ、ゴーレムに乗って移動する。これで距離を稼ぐ……どうだ?」
「……承知しました」
「ロザリアも聞いたな?」
「はい!」
よし。何としてでも生き残るぞ。
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