カーマイン丘
もしかすると敵軍が再びやって来て、今度こそ戦闘が見られるかもしれない。だから街には戻らず、この天幕で一泊する。
そんな皇帝の我儘を聞いた貴族たちは、失笑と共に皇帝を見つめていた。それもそうだ、敵軍などそもそもいないのだから。
それすら分からない馬鹿な皇帝……それでいい。結局ここで一泊することになったのだ。なんとか目的は果たせそうだ。
夕食後、俺は皇帝用に用意された天幕へと入った。仮初とはいえ皇帝の私室扱い。貴族たちは入って来ず、部屋について来たのはティモナだけだった。中には何故かロザリアもいたが……それどころではなかった。
天幕の隅、こっそりティモナが掘っておいてくれた穴の前でしゃがみ込み、嘔吐する。本当にもう、限界だった。
染みついてしまった血と煙の臭いが、あの光景をハッキリと思い起こさせる。
「陛下!」
ロザリアの悲鳴のような声が上がった。
「……声が大きい。悟られたくない」
「……はい」
最悪な気分だ。あの光景を見た後に普通に食事を摂るなんて、貴族たちは殺された村人も同じ人間だなんて少しも思っていないのだろう。
慣れてはいけないことだと思う。けど、毎回こうなるのは……
「流石に、しんどいな」
「陛下。私はしばらく天幕の外に付きます。そのお姿を見られるべきではないでしょう」
「……頼む」
ティモナが外に出て、天幕の内にいるのはロザリアだけとなった。
「陛下……」
背中が擦られる。心配してくれるのは有難い。だが……
「なぜ、来た」
本来、ロザリアは馬車と共にもっと手前で待機している予定だったのだ。こんな血の臭いが濃い場所に、連れてくるつもりではなかった。
「……陛下。私はいずれ皇后となる女ですわ」
今にも泣き出しそうな声だった。
「陛下が背負われる重責を、共に背負うだなんて……私にそんなことは、絶対に言えませんわ。その宿命は、その重みは、軽々しく『背負える』などと言えるものではない。その事は重々承知しておりますの。今日のことだって、女の身である私がいては、きっと邪魔になったことでしょう」
……別に、そういうつもりだった訳じゃ、ないんだけどな。たぶん、つらい思いをして欲しくなかったのだ。この世の悪意を見せたくなかった。
けどそうだな。彼女は皇后になるんだ……俺だって、ロザリアに『マリーアントワネット』にはなって欲しくない。改めないとな。
するとロザリアは、そっと俺の両手を包み込むように握った。吐き気はいつの間にか収まっていた。
「ですが、だからと言って、陛下が背負うものを『知らない』ことだけは、許せないのです。他でも無い私自身が。だからどうか、この身勝手をお許しください」
……驚いたな。俺みたいなこと言うじゃないか。
「あぁ、咎めるはずもない」
思わず笑みが零れる。俺たちは似た者同士ってやつなのかな。
「……疲れたな」
「陛下。今日はもうお休みになりましょう」
確かに、自分でも分かるくらい消耗している。決して慣れてはいけない事だが……毎回こうなっていては問題だ。暇なときに、吐き気を押さえる魔法……あるいは感情を抑える魔法でも開発してみよう。
「そうだな」
穴に手をかざし、土魔法で埋め直す。時間が無かっただろうに、ティモナは深めに掘ってくれたようだ。埋めてしまえば、吐瀉物の臭いはもうしなかった。
体に染みついた、血と煙の臭いは相変わらずだが。
天幕内に用意された、いつもより小さめのベッドに横になる。すると、一度収まった吐き気が再びせり上がって来た。
「陛下?」
「すまない。横になったら少しだけ、な」
それを聞いたロザリアは、何故かベッドに上がり、俺の隣で横になった。
ちなみに帝都や貴族の館のベッドよりかは小さいが、子供二人ではむしろ大きいくらいのサイズだ。
そして彼女は、おもむろに俺を抱きかかえた。
胸に顔を埋める形だ。普通は女の子にこんなことされたら興奮すると思う。だが今は、不思議と心が安らぐのを感じた。
「汚れるぞ」
今日は一日中煙の中にいたから、きっと煤だらけだ。それにさっきまでゲロ吐いてたんだ。流石にそっちは付いていないと思うが、きれいなものではないだろう。
「構いません」
「……臭いも移る」
「それも構いませんわ。さぁ、どうか今日はもうお休みください」
いい匂いがする。そのお陰か、身体に染みついた血の臭いが、死の気配が、遠ざかっていくような気がした。そして眠気が一気に押し寄せる。
「ありがとう」
優しい温かさの中で、俺は意識を手放した。
***
翌朝、俺は比較的早い時間に目を覚ました。隣を見ると、ロザリアはまだ寝ていた。
昨日は色々と支えられた。そしてあくまで予感だが……この先何度も助けられる気がするな。
「ティモナも寝ずの番ご苦労だった。体調は問題ないか」
「この程度問題ございません」
お互い、ロザリアを起こしてしまわないよう声を落として話す。
「身を清められますか」
流石に風呂やシャワーが戦場に持ち込まれることは無い。こういった場所では、布などをお湯で濡らして拭くにとどまる。
「あぁ、頼む……いや、流石にこんな仕事までティモナに頼むのは悪いか。天幕の外に控えているロザリア付の侍女でも呼ぶか?」
もう癖となっている熱探知で、侍女が二人、外で待っていることは分かっている。
というかぶっちゃけ一人でもできるんだが……やってもらう方が楽なので割と任せてしまう。
「いえ。彼女たちが信用できる確証もありませんので、私がやります。お気になさらないでください」
「そうか。じゃあ頼む」
拭いてもらっている間、ぼーっと考え事をする。
この後、もう一度丘を登り、それから街に戻るだろう。そしてそれ以降は、ひたすら各都市で領主に連れまわされ、望む言葉を吐かされる機械と化さなければ。それが下手したら秋まで続くのだ……まぁ、仕事だと思って割り切るが。だが貴族の不快な言葉を聞き続けるのがなぁ……校長挨拶とか酔った上司の話の方が百倍以上マシだったな。特にここの領主はその筆頭だしな。
あ、そういえば。
「……確かベイラー=ノベ伯ってティモナ・ル・ショビレって名前だったよな」
「えぇ、私と同名ですね。紛らわしいですか?」
「いや、アイツを名前で呼ぶことないからそれは良いんだが……ふと家名聞いて思ったんだ。もしかしてティモナって『ルナン家』ではなく『ナン家』なのか?」
するとティモナは、珍しくキョトンとした表情を浮かべて言った。
「はい……もしや『ルナン』が家名と?」
手も止まっている。かなり衝撃的な事だったようだ。
俺は今、ものすごい量の冷や汗をかいている。上司に名字間違えて覚えられていたの普通に嫌だったし……主従関係にヒビ入りかねないよな?
「フフッ。確かに、陛下は信用下さるようになってから名前でお呼びでした」
ティモナが珍しく笑ってる!? その笑いはどっちだ。良いヤツか? 悪いヤツか?
「言われてみればルナン……じゃなくてナン男爵の墓では『ル』と『ナン』の間が微妙に開いていた気がする」
思い込み、良くない。
「……すまん」
「構いませんよ。ナン男爵家とは縁を切るつもりでしたし……いっそ『ルナン家』を名乗らせていただいても? 主君に家名を頂くなど、これほど名誉なことはございませんから」
「……からかうな」
「いえ、冗談などでは無いのですが……」
服を着て、整える。とりあえず、怒っては無さそうでよかった。
……ホント、焦ったわぁー。
「なるほど、『ルナン家』を名乗らせていただくには、功を立てなければなりませんか」
「……冗談か本気か、本当に分かんないから止めてもらいたいんだが?」
「ずいぶんと楽しそうですわね」
ふとベッドの方に目を向けると、ロザリアが少しだけむくれた様子でこちらを見ていた。
いやだって、途中から起きてるのに寝たふりしてるから……
***
これは至極当然で、当たり前の事なのだが、敵軍は今日も来なかった。
「なんじゃ、来んのか」
「えぇえぇ。帝国の精強な兵の前では、奴らろくな抵抗もできませんからなぁ!」
そう言った後、高笑いをするベイラー=ノベ伯。
……ここにいる『軍』は帝国軍じゃなくてラウル公軍なんだけどな。つまり、宰相の私兵。
「うむ。ではテアーナベ連合とやらが滅びるのも近そうじゃの」
俺の一言で、その場の空気が分かりやすく固まった。
余計な事を言ったようだと気がついたベイラー=ノベ伯は、途端に黙り宰相の顔色をチラチラと覗いだした。調子に乗るからそうなるんだよ。
だがまぁ、俺としてもこれ以上出しゃばるのは危険か。
「しかし余はよく分からぬ故、宰相に任せるのじゃ」
「はっ。しかと承りました」
絶対承知してないけどね。さっさと切り上げて帰る気満々だ。
そうはさせないが。
「それにしてもここは余が初めて戦争を見た丘じゃ。気に入ったぞ! これよりこの丘を『カーマイン丘』とする!!」
「は……? ここに、陛下の名前を……ですか」
貴族たちが唖然としている。
それもそのはず。本来、皇帝の名は特別な地にのみ付けられる。帝都『カーディナル』とかな。その皇帝の名前……つまり『威信』がかかっている訳だ。そこが他国に取られたとなれば、皇帝の面目は丸つぶれだ。
間違っても、こんなちっぽけな丘に付けるものではない。しかも国境付近の。
「うむ。余の勝利の象徴じゃ。ちゃんと周知せねば」
気分が良くなって自分の名前を付けてしまう……それ自体は自然な事だろう。しかも皇帝は子供。威信がどうのなんて理解できない。だからこの宣言自体に違和感はない。
そして宰相は……この丘を『放棄』できなくなった。皇帝の名前の付いた土地を、むざむざ敵に渡したとなれば……その威信は一気に落ちるだろう。摂政派からすれば格好の攻撃材料だろうな。
もちろん、その場合俺の威信も落ちる。自分の名前の付いた土地を敵に奪われたとなれば……こんなに恥ずかしいことも無い。
威信なんてものが、傀儡の皇帝にあれば、の話だがね。
「いずれここに城を建てるのはどうじゃ。離宮でも良いのう」
これで、俺は定期的に『この地』について状況を尋ねる理由ができた。そして宰相も、莫大なリスクと引き換えでしか軍を引けなくなった。
そして宰相が軍を置く限り、圧迫を受ける『黄金羊商会』は中央大陸に兵を送れない。当初の目的である「『黄金羊商会』に対する時間稼ぎ」は達成できる。
その上……恐らくテアーナベ連合の領主たちと『黄金羊商会』の関係も悪化させられるだろう。ラウル公軍がいる限り、領主に土地は返ってこないのだから。なぜ無条件で土地を明け渡してしまったのか、批判を浴びることになるだろう。
もちろん、全て宰相が撤兵しない前提だ。あっさりこの丘を見捨てる可能性だってある……が、式部卿が派閥整理をして権力を強化している今、そんな弱点晒せないよな?
それに……俺個人としても、この丘を忘れるつもりは全く無いしな。
読んでいただきありがとうございます。