15 フットインザドア・ドアインザフェイス
ハロルド王子との話し合いの場はすぐにセッティングされた。完全に非公式の会談であり、皇王どころか他のロコート王国からの使節もこの場にはいない。
「陛下。ハロルド殿下がコーヒーを所望しておられますが、陛下はいかがなさいますか」
「同じものでいい」
護衛兼給仕としてすぐ隣に控えるティモナにそう答える。
「いやーすみません。うちでは高価過ぎて、僕でもなかなか手が届かないんです。こちらにいる間に少しでも飲んでおきたくてー」
そういって頭をかくのはロコート王国のハロルド王子だ。今まで通りの能天気さは感じるが、過去話し合いの場で見ていた姿より、シャキッとしてる気がする。どうなっているんだ、これは。
「それは構わんが」
コーヒーの流通を握っているのは黄金羊商会だ。手先が器用ではない獣人をプランテーション農園の経営者とし、中央大陸の戦乱で発生した捕虜を奴隷とし、農奴として働かせる。そこで生産された嗜好品を、今度は東方大陸で売りさばく。彼らのお陰で、確かに帝国なら手の届く範囲の値段だ。
まぁ、それを独占されている現状は非常に良くないけどな。気を抜くと国ごと乗っ盗りそうな連中だし。
「しかし、何故『将棋』なのだ?」
ハロルド王子が「親交を深めましょう」と言って持ってきたのは将棋盤と駒だ。もっとも、駒の方は日本で記憶しているそれより明らかに分厚いのだが。あと、駒に書かれているのは漢字じゃなくてこっちの言葉だ。ルールは確かに将棋だが、見た目はちょっと違う。
「もしルールをご存じでしたら、一局指しながら話しませんか」
……まぁ、今回の件は帝国側としても負い目がある。よほどのことでなければ断れないさ。
「余は細かいルールが怪しい。それでも良ければ」
反則って二歩の他何があったっけ。
「しかし珍しいな、『将棋』が指せるとは」
転生者が転生してまず思いつくのは、既存の発明(前世の完成品)をそのまま自分の発明品として売り出すことだ。だから将棋、囲碁、リバーシといった有名所のボードゲームは過去の転生者が早々に売り出していた。
ちなみに『アインの語り部』から聞いた話によれば、彼らがマークしている一族以外の転生者(野良の転生者とでも言うべきだろうか?)を発見する事例として、一番多いのがこういった後追いの商品を出すことだ。
つまり、こういった商品が先達によって売り出されているのにも関わらず、自分の商品として売り出そうとして痛い目を見る転生者が多いらしい。転生者も所詮は人間、考えることはだいたい同じってことなんだろう。
「人気なのは『囲碁』ですからねー。僕も妻に教わるまで、『将棋』のルールは知りませんでしたから。覚えてしまえば結構面白いんですけどねー」
マリアナ・コンクレイユか……何となくだが、彼女は転生者くさい。一方で、このハロルド王子は転生者っぽさがまるで感じられない。
今だって、駒の持ち方といい、打ち方といい、明らかに将棋の指し方じゃない。全ての転生者が日本人かどうかは分からないけど、今まで確認できている転生者はみんな日本出身だし。
完全に転生者では無いとは言い切れないが、転生者っぽさは微塵も感じない。
「たしかに『囲碁』は貴族だけじゃなく騎士階級にも広まっているからな。 ……『リバーシ』の方は?」
ちなみに俺は存在を知った時、「異世界じゃ誰も気にしないだろうに、わざわざ商標で問題にならなそうな方の名前を付けているんだなぁ」と思った。
「そちらも妻に教わりまして……最近ではそっちばかりですよ。ですが、やる人間はやっぱり少ないですねー」
ハロルドはコーヒーに口をつけ、駒を動かした……なんか、ちゃんとした囲いを作っている気がする。それもマリアナ・コンクレイユに教わったのだろうか。
「『リバーシ』は手軽すぎますからねー。遊戯を何らかの『学び』に紐づけたがる貴族には流行らない。むしろ平民には流行りそうですけど、買う余裕のある人間は一握りですし、ルールさえ聞けば自分たちで簡単に作れてしまいますからねー」
まぁ、この時代はそうだろうなぁ。帝国で言うと、帝都とその他大都市の比較的生活に余裕のある平民の間では流行っているらしい。
ちなみに『アインの語り部』の情報によると、これらのボードゲームを最初に売りだした転生者は、結局元手を回収できずに終わったらしい。まぁリバーシに限らず、囲碁も将棋も、その気になれば誰でも作ることはできる。高値で売っては「ルールだけ覚えて自分で作ればいい」と買ってくれなくなるし、安値で売ってはそもそも利益が出ない。
まぁ、マグネット式とか作れれば話は別かもしれないが。今のところ、そんな技術力はまだこの世界にはなさそう。
だがこれらのボードゲームで確かに儲けた転生者もいた。その転生者はこれらのボードゲームがある程度普及しつつあった時に、商品とセットで本も付けて高値で売り出したのだ。
本の内容はルールと基本的な戦術。それから強いと評判のプレイヤー同士が実際に戦った棋譜をまとめて出版したらしい。
活版印刷などもなく、本が高値なのは当たり前であり、本とセットなら高値で売り出しても違和感は持たれない。そして初心者にとって、初歩的だろうが戦術がまとめられた本なら買うだけの価値がある。
こうしてその転生者が売り出したボードゲームと本のセットは大ヒットとなったらしい。
まぁ、途中からは棋譜をまとめた本だけでも売り出して荒稼ぎしたらしいが。何でも棋譜が本に載ることが名誉であると見なされ、結果的に競技人口も増加してさらに商品が売れる……と。
この流れが一番強かったのが『囲碁』らしく、今では大陸中に広まっている。
閑話休題、盤上に話を戻すと俺はどうやら穴熊しか囲いを覚えていなかったらしい。ちまちまと囲いを作って……とやっているうちに、もう攻撃を仕掛けられてしまっている。
それにしても、西欧系の外見の二人が黙々と将棋指してるのって、外から見たら面白い絵面なのかな。
「なんで『将棋』や『チェス』は流行らないんだと思う?」
少しでもいいから攻撃の手緩んでくれないかなぁなんて小狡い考えでハロルド王子に話しかける。
「やはり一つの戦場として見立てた時、実際の戦場とはかけ離れているからですかねー」
すると特に悩む素振りも見せず、ハロルド王子はすぐに答えを出してきた。
「戦場においては、王や玉(総司令官)が戦死しても勝利することだってある。守りを固めた精鋭兵(大駒)相手に弱兵(歩)が勝てる道理はないのに、盤上では仕掛けた側が絶対に勝ってしまう。寝返った兵(取った駒)が命令に正確に従うのも、戦場にいきなり新戦力が湧いて出る(持ち駒を打つ)ことも、実際の戦場ではあり得ない」
……俺もそこまでは全く同じ意見だが、それはさておき……お前、そんなにハキハキと饒舌にしゃべれるんだな!? 今までのあののらりくらりと躱してきそうな雰囲気は、全て交渉の場で見せていた演技という訳か。
「ですが、一つの戦争として見立てた時、『将棋』は極めて完成度が高いですかねー」
さて、こっちもようやく穴熊が完成した……盤面はどう見てもこっちの不利だけど。
そして尚も、ハロルド王子は語り続ける。
「飛車や角行は騎士を主体とした軍団として見立てることができ、その特徴は高価な代わりに圧倒的な機動力を持つことです。香は騎馬主体の傭兵として見立てれば、追撃能力には長けているが細かい指示は通らない特徴がよく表現されている。金や銀といった精鋭兵集団と歩兵という民兵集団の差も同じく、細かい指示が通るどうか、といったところですかねー」
いや、本当に饒舌だなぁこの男。マジで別人にしか見えないぞ。
「民兵は後退と敗走の区別がつかず、精鋭兵は秩序ある後退ができるからな」
「えぇ。そして持ち駒を『打つ』のも、戦略の観点からすれば違和感ありませんねー。敵国の領内だろうと、敗走したいくつかの部隊を再編して新しい軍団とすることは往々にしてあることですから」
なるほど……離反した兵としてではなく、部隊を再編し生まれる新しい軍集団に見立てるのか。
「『成金』も下馬戦闘としてだけでなく、練度で解釈できます。歩兵(民兵)だって、練度次第では精鋭になる。一度の戦場で変化するのは不自然ですが、一つの戦争の中でと考えれば、そうおかしなことではない」
さらにハロルド王子は語るのを止めない。
「そして何より、攻撃を仕掛けた側が相手の駒を奪う(絶対に勝つ)というルール。これも戦略的にはそうおかしなことではありません。戦略においては守勢側よりも攻勢側の方が攻略対象を選べる分、圧倒的に優位。何より軍団同士の戦闘は、基本的に勝てると判断した方が仕掛けるものです。雑兵の集団でも、油断して野営している騎士の軍勢相手なら奇襲が通じる」
つまり、局地的な戦場として盤上を見ると「もう交戦しているのに守りを固めていないのはおかしい」だが、一つの戦線として見れば「敵の接近に気付かず油断している軍団」に見立てる事ができると。
「総じて、騎士や下級貴族(現場指揮官)より高位貴族(将軍や大臣)には人気が出るでしょう。実際、僕も王族なら覚えておいて損はないと言われて覚えましたからねー」
まぁ、その絶対数が少ないせいで、人口の多い『囲碁』に比べて不人気に見えるわけだが。というかそうか……この人、平民出身か。
まぁその点、囲碁が現場指揮官に人気なのは納得である。だって「布石」とか「捨て石」とか、たぶん囲碁由来の言葉だろうし。あと相手の石を囲って取るってルールがそもそも敵をどう包囲するかの戦いに見える。
それからしばらく、無言での勝負が続いた。別に何かを賭けている訳でもないので、互いにそれほど手を悩まず、サクサクと指していく。
「指しながら言うことではないかもしれませんが」
しばらくして、ハロルド王子が今までにないほど真剣な表情でまっすぐにこちらを見て、それから頭を下げる。
「今回の襲撃事件の際、貴重な兵力を我々の護衛に割いていただき感謝しています」
……いよいよ本題かと思ったが、まさか感謝から入られるとは思わなかった。
「当然のことをしたまでだ。それに、余の意図を汲み取って自発的に皇王らと合流してくれた……それだけで、こちらは大いに助かったのだ」
てっきりマリアナ・コンクレイユかビリナ伯が先導したのだと思っていたが……今ならわかる。きっとこの男が先導したのだ。
だが頭を上げたハロルドはその真剣な様子でさらに続ける。
「ですがその陛下の御温情を理解した上で、今回の件につきまして我々は、『当然』強い言葉で抗議させていただきます」
……なるほど。皇帝の配慮は分かっているけどそれはそれ、これはこれって感じだろうか。
「それも至極真っ当だな」
巻き込まれたとはいえ、外交団が襲撃現場にいて、被害を受ける可能性もあったのだ。外交使節が斬りつけられたら即戦争だ。俺にそんなつもりはなくとも、不幸な事故が起こる可能性は十二分にあった。
「それで? まさか抗議して終わりなんてことは無いだろう」
俺が先を促すと、ハロルド王子はすぐに狙いを明かす。
「講和交渉の内容、それをこちら寄りに譲歩していただきたい」
なるほど、非難されるような事態に対し、お詫びに何かしらの譲歩を欲しいと。
「我々親帝国派の現状は非常に厳しく、もし我々が譲歩を引き出せなかったと見るや、国内は再び反帝国派が実権を握るでしょう」
……まぁ、こんな事件があったのに黙っていては、ロコート王国の使節としても面子が保てないだろう。
「内容次第だな」
俺の言葉に、当然だと言わんばかりにハロルド王子は大きく頷いた。
「では……まずはそちら側の案から『軍事通行権』と『ヘルムート二世を皇国の正統な皇王と認める事』の二項目を削除。その上で、我々はこの後ヘルムート二世を正統な皇王として認め、その皇王との間に『彼が皇国に帰還する際に同じ陣営に加入し協力する』という秘密条約を締結します」
これまでの講和交渉の図式は、帝国とロコート王国の間の交渉に対し、ヘルムート二世の一行が仲介とは名ばかりの介入をすることで、双方に恩を売り自分たちの要望を盛り込ませようとしていた訳だ。帝国としても、皇王の要望を盛り込んだ、というスタンスだった。
だがこの提案は、ヘルムート二世の一行を仲介役ではなく、完全な第三の陣営として扱うという姿勢だろう。これはヘルムート二世を一国の代表として扱う意思表示であり、ある意味彼らにとっては格上げだ。帝国との交渉に寄生しなくても、直接ロコート王国と交渉が行える。
一方で、帝国との交渉から皇王一行の影響を排除することにもなる。交渉初期は手探りだったから仲介役を置き、交渉が深まったら不要になったのでパージした、とも言える。
「それは構わない。我々が軍事通行権を欲していたのは、皇国にヘルムート二世を復帰させる際に通り抜けたいからだ。同じ陣営として一時的に同盟関係になるのであれば、軍隊の通行は問題ないだろう?」
「勿論です」
そうか、対皇国出兵に積極的に協力する方針に転換するのか。それは帝国としても都合がいいが。
「そして次に、こちらから追加したい要求がいくつかございます」
まぁ、本題はここからだろうな。何を要求させることやら……。
「一つは、ゴディニョン王国との仲介をお願いします。宮廷内にゴディニョン王国の使節も確認しましたし、対皇国の協力者として見繕っているのでは?」
なるほど……目敏いな。確かに、ゴディニョン王国は帝国が皇国に侵攻する際の、主要なルートの一つだ。だからかなり慎重に、それでいて定期的に使節のやり取りをしている。
万が一にも、皇国側に付かれたくないしな……そうか、ゴディニョン王国とロコート王国の同盟が成立すれば、ゴディニョン王国が皇国側につくリスクは減る。帝国にとってもメリットがある。
「いかがでしょうか」
「そんなことでよければ」
ちょっと拍子抜けではある。今のところ、帝国にもメリットのある話しかない。
「次に……ロコート王国がロット王国の正統な後継国家であるとお認め頂きたい」
「……ダウロットか」
ロット王国とはかつて、現在のロコート王国と、その南に位置するダウロット王国、そしてゴディニョン王国の辺りに存在した国家である。ロコート王国とダウロット王国は、このロット王国が分裂してできた国である。
「しかしゴディニョン王国もその領域にあるだろう」
「はい、だからこその同盟です。ゴディニョン王国は旧ロット王国の領域にはありますが、その由来は別にあります。ロット王国の後継国ではありません」
つまり、狙いは最初からダウロット王国か。先日、ビリナ伯の「消去法で親帝国なだけ」という主張は嘘だったわけだ。帝国を味方につけるだけの旨味が彼らには合った……騙されたな。
パターンAではなくパターンBの方かよ。最初の二択を外していたのか。
「無論、派兵などは一切求めません。ですが、分裂して成立したという経緯がある以上、国内の矛先を帝国以外に向けさせるのであれば、やはりダウロット王国しかないかと」
その考えは一理ある。だがそれを認める場合、相応のリスクが帝国にもあるな。
というか、現段階で帝国がロコート王国とダウロット王国、どちらとより良い友好関係にあるかと言えば、ダウロットの方だ。ロコート王国とはこの講和が成立するまで、交戦国だしな。
「それはダウロット王国が皇国側につく可能性を高める」
「否定しません。ですが我々が反皇国同盟に参加する以上、それは避けられない事態では?」
まぁ、それはそうだ。どうせ敵に回りそうなら、認めたって変わらない……か。
……ゴディニョン王国との同盟の仲介を頼まれた時点で、これはロコート王国とダウロット王国の純粋な天秤じゃなくなっている。ロコート王国の方はゴディニョン王国との同盟も含める。上手くいけば、対皇国侵攻の際の南側ルートが安定する。一方、ダウロットの方は一対一での協定になる。
この時点で帝国としてはダウロットよりロコート王国の方が魅力的に見える。
というか……なるほど。これがロコート王国の狙いだったのか。正確には、俺の予想はどちらも間違っていた。
彼らは帝国の武力「だけ」を当てにしてるのではない。反皇国連合の全国家を当てにしている。
「良いだろう。ただし、それはゴディニョン王国との同盟が成立した後だ」
来たる大戦争の際に、自分たちの利権としてダウロット王国を確保しにきた。帝国からダウロット王国は離れており、その利権は帝国には不要のものだ。
問題があるとすれば、その戦争でロコート王国は、相手側に付くダウロット王国を打倒し併呑し、国力を立て直すどころかより強大になろうとしている訳だが。
……しかし、帝国的にはゴディニョン王国を帝国側に引き寄せるラストピースにもなりそうだ。
「えぇ、もちろんです。我々としてもゴディニョン王国を刺激するつもりはございません。それから……前回の戦争はロコート王国優勢、今回の戦争は帝国優勢で決着したという見解。王領ヘアドは皇帝陛下に返還し、捕虜となった兵士の身代金は相場通り、貴族の身代金は相場の一・五倍での交換とする。またロコート王国と帝国は五年間の不戦協定を結ぶ……これら事前に決まっていた内容もそのままでよろしいですね?」
盤上では、こちらの守備が完全に崩されつつあった。だが相手の守備も突破できそうになっている。
「あぁ」
「では最後にもう一つだけ。帝国はベニマ王国との講和の際に、ベニマ王国に対し領土要求を行わないことを保障していただきたい」
俺は駒を動かそうとしていた手を止める。
さすがにこれは、素直には受け入れがたい内容だ。帝国とベニマ王国はまだ交戦中、講和の話なんて一切出ていない。その段階でベニマに領土要求するな、とは……まだその段階じゃないし、そもそも第三国が出す条約としてちょっとなぁ。
ただまぁ、狙いは分かる。彼らロコート王国の親帝国派は、俺が仕掛けた「ベニマ分割」の提案に賛同していた立場だ。ベニマ王国との関係は現状でも間違いなく悪いだろう。ベニマに向かった援軍は対立派閥だしな。
しかしこの条件を認めさせることができれば、ベニマ王国に対して恩を売れる……ベニマ分割案の際のわだかまりを大きく減らせるはずだ。
そこに加え、ロコート王国は南方三国の中で真っ先に講和するということで、他の二国から裏切り者と見られてもおかしくないのが現状だ。だがこれなら、ベニマ王国が味方にならざるを得ないような状況を作れている。
……うん、理解はできるが帝国としては頷きたくないな。
少し考えたが、これはやはり良いとは言えない。ベニマと帝国の国境は、そもそもベニマ王国にとって非常に優位なものとなっている。
仮に今後もう一度敵対された際、再びあの丘陵地帯で防備を固められたら非常に面倒だ。だから丘陵地帯は帝国側に割譲させようと思っていたのだが……この譲歩案を呑むとそれもできなくなる。
「それは了承しかねる。そんな約束をしてしまっては、講和交渉の際に悪用されるかもしれないしな」
最初から領土を失うリスクが無ければ、ベニマ側が強気な交渉に出てくるかもしれない。こればっかりは、実際にベニマ王国と交渉する時の情勢、戦況になってみないと分からない。現段階で何か約束するのは無理だ。
俺の返答から、しばらく間が空いた。しかし想定はしていたのか、ハロルド王子に動揺はなかった。
「そうですか……では、それについては撤回しましょう。ベニマ王国に対する領土要求の阻止は諦めます。代わりに……帝国はロコート王国及びベニマ王国との講和において、両国間の同盟関係を破棄させる、あるいはそれに準ずるような要求をしないことを保障していただきたい」
……なるほど。講和の条件で第三国との同盟を破棄させるっていうのは、別におかしくはない。それを防止する……何が何でも、ベニマ王国との同盟を維持するつもりだ。それだけ、西側の国境を安定化させたがっている。
だが何より、注目すべきは……。
「アプラーダ王国に対しては言及無しか」
これはつまり、アプラーダ王国を好きにしていいから、ここで手打ちにってことだ。
どの条件も、帝国に何かしらのメリットがある。ロコート王国とベニマ王国の同盟維持についても、協調して敵に回るなら厄介だが、それ以前の条件でロコート王国は友好路線に舵を切っている。つまり、ロコート王国を仲介にベニマ王国との国境を安定化させられるかもしれない。
「……詰み、か」
気が付けば盤上の王将は詰んでいた。そして彼が提案した譲歩案もまた、落としどころとして妥当だろう。
「良いだろう。その条件で講和だ」
帝国の第一目標である帝国領の返還。第二目標である対皇国同盟への協力。この二つは達成できているし、ゴディニョン王国との同盟についても、彼らを反皇国同盟に参加させる理由の一つになる。帝国としては悪くない。
「ありがとうございます」
「……それから、そちらのお節介も受け取った。分かっているとも。しばらくは危険を冒すつもりは無い」
戦場においては、総指揮官が討たれても勝つことはある。だが戦争においては、王の首が取られた時点で基本的に負けだ。特に、宰相の類を置かず、後継者も決まっていないような、帝国の現状においては。
わざわざ将棋を持ち出して来たのも、今の帝国がそういう状態だという指摘の為だろう。だが俺は、穴熊で固めたのに負けたんだけどなぁ。
ところが目の前の男は、一瞬何を言ってるか分からないと言った様子で目を丸くし、それからあぁ、と納得した。
「これそういう意味だったんですか」
そう言って男は、照れくさそうに頬をかいた。
「この勝負を提案したのはマ……妻でしてー。僕は言うことを聞いただけですよー」
……ほんと、有能な敵はこれだから。面倒くせぇ。
「……というか、殿下の普段のソレは演技か?」
今までの交渉の中で、この男はただニコニコと笑顔なだけの置物だった。先ほどまでは急に真剣な表情で鋭く意見を述べ、今度はそれがいきなりこうだもんな……豹変ぶりに困惑するわ。
「はい? 演技とはなんでしょうか」
恍ける王太子に、俺は思わずため息を吐く。
「これまでの殿下は気が緩んでいるというか、能天気に話し半分にしか聞いていなそうだったのでな。受け答えも適当だった。しかし今日は人が変わったかのように、鋭く真面目にハキハキと喋る……かと思ったらいつものように戻るからな」
雰囲気というか、真剣さが変わるだけで二重人格って感じでもないんだよね。
「それは緊張していたのでしょう。国の命運をかけて陛下と交渉していますから」
……いや、緊張で片付くレベルじゃねぇ。どう見ても、俺と同じく何かを演じている人間だろう。
そんな俺の心情が、どうやら表情に出ていたらしい。
「……僕、そんなに違いますか」
キョトンとした反応……え、まさか本当に自覚ないのか? そんなまさか。
「たしかに、妻がいる時は彼女に任せておけば何とかなるなーとは思ってますけど」
恐ろしいことに、嘘を言っているようには見えない。まさか演技じゃなくて素だと?
マリアナ・コンクレイユといた時はこの男の存在がマリアナ・コンクレイユの意見を支えていた。だが単独だったら今度は優秀な交渉人だと?
この夫婦、ちょっと厄介すぎるな。やっぱり滅ぼしてしまった方が良かった気がする。もう、今更だけど。




