10 疾風に勁草を知る(※非主人公視点)
――新暦四七〇年九月九日。ナディーヌ・ドゥ・ヴァン=ワルン。
まるで戦場に鳴り響く大砲の砲撃音ように、宮廷内に爆音が鳴り響いた。それから、彼女たちが宮中の異変の気づくのに、そう時間はかからなかった。
「お姉さま! 無事!?」
ナディーヌ・ドゥ・ヴァン=ワルンは、真っ先にロザリアの安否を確かめにいった。そこには、二人が親しいということや、自身が彼女を頼りにしているということもあるだろう。
だがそれ以上に、ワルン公から貴族としての教育を受け、そして覚悟を決め妃になったナディーヌは、いざとなれば自分がその身を投げうってでも正室を守ること……それが側室としての自分の役目だと考えていた。
「大丈夫よ」
一方のロザリアも冷静だった。実のところ、彼女は今日、何かが起こる予感がしており、心の準備はできていたのだった。
「何の音か分かりますか、お姉さま」
「いいえ。けれど、間違いなくいいものではないわ」
それでも、二人は動かなかった。自分たちが宮廷内において重要な存在であり、下手に動けば却って混乱を引き起こすことを理解しており、報告が来るまで待機するべきだと判断していたのだ。
それから間もなくして、二人の元に続々と報告が届けられた。宮廷が何者かの襲撃を受けている事、それが恐らくドズラン侯であること、その襲撃者たちは真っすぐにこちらに向かってきていること。
そして何より、彼女たちにとって衝撃的だったのは上空に現れたドラグーンが、宮廷を攻撃しているということ。先ほどから鳴り響いているこの音は、リトルドラゴンのブレスらしい。
二人は、宮廷が高い耐魔法性の建材でできていることは知っていた。それでも、やはり恐ろしいものは恐ろしかった。一説によれば、ドラグーンは単騎で砦を一つ陥落させられるという。その威力を知識として知ってしまっている分、彼女たちにとってそれは脅威でしかなかったのだ。
もっとも、今宮廷を攻撃してきているリトルドラゴンが、かつて自分を背中に乗せたものだとは、流石のロザリアも思いもよらないのだが。
二人は多くの報告を受け、迷っていた。動くべきか、待つべきか。とはいえ、彼女らは皇帝の妃だ。その皇帝の言葉があれば、迷わずそれに従うだろう。つまるところ、二人はカーマインの言葉を待っていたのである。
そしてついに、一人の男が皇帝からの伝言を携えてやってきた。
「失礼します」
「近衛長、あなたが私たちの護衛?」
ナディーヌは、皇帝が信用できる部下を護衛に寄こしたのかと考えた。だが残念なことに、この時の宮廷にはそんな余裕もなかったのである。
「いえ……」
バルタザールは言い淀んだ。皇帝は、自身が信じた主君は、自らは逃げると宣言した。妃たちに近衛の護衛を付けず、囮とするつもりらしい。
それをバルタザールは残念に思った。このことで忠誠心が揺らぐことは無かったが、妃たちに囮になれなどと告げなくてはならないことが、何より心苦しかった。
だが同時に、自分には時間的余裕がないことも理解していた。故に、バルタザールは手短に報告をし、すぐにドラゴン退治に向かおうとした。
「敵の狙いは皇帝陛下の御命です。ですので、陛下は既にお逃げになられました。お二人におかれましては……」
そこで再び、バルタザールは言い淀んでしまった。
一方、その言葉を聞いたナディーヌは、立ち眩みを覚えた。彼の態度から、どのような命令を下されたのか察したからだ。だがすぐに、この時が来たかとも思った。皇妃として、皇帝の身代わりになるときが来たのだ。
「陛下は私たちに何と伝えよと? その言葉を、一言一句、正確に伝えていただきたいのですわ」
ナディーヌの目には、ロザリアは極めて冷静そうに見えた。それが果たして実際に冷静だったのか、それともそう強がって見せているだけなのか、ナディーヌには分からなかった。
だが少なくとも、その毅然とした態度は普段のロザリアではない、帝国の女王としてのロザリアだった。
「それは……『敵の狙いは皇帝の首。だから余は逃げる。囮が必要だ』と。それだけ伝えよとのことでした」
その言葉を聞き、ロザリアは驚きの表情を浮かべた。
「そう、そうなのね……」
それから、ロザリアは何かを噛みしめるようにそう繰り返すと、祈るように手を胸の前に合わせた。
ナディーヌはその様子を見て、彼女がショックを受けたのだと思った。愛した皇帝に見捨てられ、囮になれと言われる……卒倒していないだけ奇跡だと思った。
「お姉さま、お気を確かに。決して私たちを見捨てたかったわけではなく……」
ナディーヌは、それが下手な励ましだと分かっていた。それでも、どうにかしてロザリアの心を強く持たせようとした。そしてバルタザールもまた、そっとロザリアから目を逸らした。
……だがバルタザールもナディーヌも、まだロザリアのことを完璧には理解していなかった。
誰よりもカーマインに憧れ、誰よりもカーマインを理解する女。それがロザリア・ヴァン=シャロンジェ=クリュヴェイエである。
「何を言ってるの、ナディーヌ。陛下の邪魔をしないよう、ヘルムート二世やロコート王国の皆様と急ぎ合流いたしますわよ」
一切の動揺もなく、それが当然のことだと言わんばかりに平然と、彼女はそう宣言した。
「北側の渡り廊下を経由してヘルムート二世の元へ。あそこに集まるのが良いはずですわ。侍女や護衛もすべて連れていきます。……誰か! 念のため、ロコート王国の皆様にも同じく集まるように伝えてほしいのですわ」
ナディーヌは、ロザリアがそう侍女に指示する様を呆気に取られ見ていた。そんな彼女に気付いたロザリアは、あなたもまだまだね、と言わんばかりにため息を吐き、カーマインの言葉の真意を説明する。
「陛下は御自身が逃げることで囮になると言っているのですわ。この襲撃者の狙いは陛下であると陛下が判断したのに、私たちが囮になれるはずがありませんもの」
だからロザリアは祈ったのだ。これから何が起こるかを察し、ただカーマインの武運を心から願った。
一方でナディーヌはこう思った。そんなの分かる訳がないだろうと。
だが同時に、それがカーマインらしい行動だとも納得し、その言葉に従うことにしたのだった。
***
――新暦四七〇年九月九日。マリアナ・コンクレイユ。
宮廷に爆音が鳴り響いた。はじめ、彼女は自分たちが嵌められたのかと思った。帝国に掌を返されて、あるいは王都で政変が起きて。自分たちはこの場で殺されようとしているのではないかと。
しかし、どうやら違うらしいと気が付くまで、そう時間はかからなかった。無数の侍女や執事が、無秩序に廊下を行きかう……そこには、混乱が広がっていた。つまり攻撃されているのは、自分たちではなく帝国の宮廷そのものであった。
既に、ビリナ伯は情報を聞き出すために出ていった。一方、ロコート王すら意のままに操った天才少女は、この非常事態に混乱し、動揺していた。
「いったい何が起こっているの……?」
マリアナ・コンクレイユがそう呟くと、彼女の夫が意外そうに、妻に向けてこう言った。
「マリちゃんも分からないことあるんだねー」
「当たり前でしょ……!?」
突然の襲撃に、ただただ彼女は混乱していた。誰が、何の目的で……それが分からなければ、どうすればいいか考えることもできない。その状況にあっては、自分ではどうにもできない。
彼女にとって、分からないということは恐怖であった。
「えーでもさー、伯爵と皇帝陛下の密談内容、全部事前に当ててたじゃん! 僕たちの本当の狙いもまだバレてないしー。とってもすごいと思うよー」
だが彼女の夫は、外で轟音が鳴り響く中、まるでそれが聴こえていないのではないかと疑いたくなるほど、いつもと変わらぬ様子で彼女を褒めたたえる。
「それは……なぜかは知らないけど、あの皇帝のことだけはたまたま外れないだけよ。ただの相性だと思うわ」
マリアナ・コンクレイユの読みは冴えている。よく当たるし、そのお陰で彼女はロコート王国の社交界において強い影響力を握っていた。そんな彼女でも、外すときは外す。ただ、彼女は自分が予想を外すこともあることを考慮に入れて動いており、これにより常に致命的な失敗は回避できていた。
しかし不思議なことに、皇帝カーマインについてだけは、今のところ予想が外れたことが無かった。言ってしまえば、カーマインの思考や判断を、高い精度でトレースできていたのだ。
「えー相性かー。ちょっと妬いちゃうなー」
そう言って男は……自分の妻に後ろから抱き着いた。
「……ち、ちょっと、状況を弁えてねぇ!?」
「うん、いつものマリちゃんに戻ったねー」
そう言って彼は、自身の妻をなだめるように、その頭を撫でる。
「大丈夫だよマリちゃん。別に捕まった訳じゃないんだから、諦めるのはまだ早いよー」
その言葉でマリアナ・コンクレイユは初めて、自分が諦めの感情を抱いていたことに気が付いた。
「起きてしまったことはしょうがないよー。とりあえず、みんなで皇王御一行の所へ動こっかー」
ハロルドの言葉に、マリアナ・コンクレイユは素直に疑問を投げかける。
「どうして?」
実際、ハロルドの方も状況を詳しく理解していた訳ではない。相手の狙いも当然分かっていない。ただ宮廷内の焦りようから、なんとなく帝国側に余裕がないことだけは感じ取れる……それくらいでしかない。
「うーん。相手の狙いは分からないけどー、一か所にまとまった方が近衛さんたちは守りやすいでしょー。皇王一行はどう見ても動き鈍そうだしー、合流するならそこかなーって」
「……確かに、それはそうね」
どうせ守られるなら、一か所に集まった方が良い。それは実に道理に合った意見だった。
「でも、一か所に集めることこそ敵の狙いだったら?」
だが、そうに違いないと判断するにはあまりに判断材料が足りなかった。
そんな不安を隠さない自身の妻に、王太子は笑いながらこう言った。
「その時はその時だよー」
あまりに能天気な彼を前に、マリアナは不思議と心が落ち着くのを感じた。確かに二択なら、自分の夫の判断を信じて良いと思えた。彼にその先が死地であっても、隣にいる夫は能天気に笑っているんだろう。そう思えば、不思議となんとかなりそうな気がしてきたのだった。
「……ハル、あなたはこんな時も変わらないのね」
「マリちゃんの前だからカッコつけてるだけだよー。それに、マリちゃんがいれば何とかなるよ、きっとねー」
王太子ハロルド……庶子から王太子にまで上り詰めた男。
だがそれは少し、正確な表現ではない。実際には、その成り上がりはほとんど、マリアナ・コンクレイユ一人の手によって成し遂げられた。つまり、上り詰めさせてもらった男である。
ある者は、彼をただの傀儡だというだろう。妻がいなければ何もできない愚物とまで言うかもしれない。だが、それだけのことを成し遂げた天才少女が夫に選んだ男が、ただの傀儡のはずがなかった。
彼は別に平気そうに装っている訳でも恰好つけている訳でも無く、事実として全く動じていなかったのである。
実のところ、彼は異母兄からの過酷ないじめの中で、何度も死にかけていた。幼い彼らには加減ができず、その結果ハロルドは何度か臓器を損傷するほどの怪我を負っている。
文字通り、毎日のように死と隣合わせの生活だった。彼が死なずに済んだのは文字通り奇跡であった。
彼に魔法の才能が無ければ、そして無意識に魔法を使って体内の損傷を修復できなければ、そしてその修復に一度でも失敗して入れば……何より、兄弟たちのお気に入りのいじめが、宮殿から締め出すといういじめでなければ、彼は確実に死んでいただろう。
このいじめの結果、奇跡的に彼は封魔結界の外に出され、体内を魔法で修復することができていたのだ。
もちろん、本人はそのことについて無自覚である。ただ、事実として何度も死にかけた彼は、人の身に余る強靭な精神力を手に入れていた。彼はいつ死ぬか分からない死地においても、その場に妻さえいれば幸せだと心から思えてしまうのだ。
自分が標的ですらない襲撃事件など、動揺するはずもなかった。
閑話休題、その後の二人について。ハロルドとマリアナが移動する準備を終えたちょうどそのタイミングで、ロザリアからヘルムート二世の元へ一緒に向かおうという伝令が届くのである。
「ハルの言った通りだったわね……あ、でもヘルムート二世はもう皇王ではないから間違えないように気を付けてね」
「……えっそうだっけ」
……鋼の精神を持ったハロルド。彼の欠点は、基本的に脳内が妻のことで占められており、彼女が近くにいると彼女以外の言葉をよく聞き流してしまうことである。
それから、怯えて部屋に引き籠った元皇王の元へ合流した二人は、しばらくして情報収集のために出ていたビリナ伯の存在を思い出すのだった。幸いなことに、彼も無事だった。




