3 休息の時間
衝撃的な報告を受け、俺はなにやらどっと疲れたのを感じた。毎回こっちの想定を上回るの、本当に勘弁してほしい。
早急に癒しが欲しい、癒しが。
「他に、後日に回せない報告や急ぎ必要な決裁は?」
「今日中に必要なものはございませんが……」
でも仕事はいっぱいあるぞ、と含みを持たせる宮中伯。ニュンバル侯も眉間に皺を寄せている。
俺は数日、帝都を空けていた。その一方、二人はずっと宮廷にいた。当然、準備万端で待ち構えていたはずだ。
優秀な二人は、基本的に全ての仕事を常に優先順位をつけてやっている。皇帝にやらせる決裁なんかもそうだ。間違いなく、山のような数の仕事が俺には控えている。
だがこの様子だと、今日中に決裁が必要なものは無いらしい。
「この後はロザリアの所に顔を出そうと思う」
俺がそう宣言すると、宮中伯はあっさりと手のひらを返した。
「では明日に回しましょう。ニュンバル侯も、よろしいですな」
「えぇ」
ニュンバル侯も、それなら仕方ないと納得した様子。
……逆にプレッシャー感じるなぁ、おい。
そのまま部屋を出ようとしたニュンバル侯が、何かを思い出し足を止める。
「あぁ、陛下。連れてきた彼女はいかがなさいますか」
ニュンバル侯の言う「彼女」が一瞬誰のことか分からなかったが、俺はすぐに思い出す。
「イルミーノか。彼女はゴティロワ族のイメージを改善するために連れてきた、なるべく社交の場に出してほしい……ニュンバル侯、世話を頼めるか」
「承知いたしました」
とはいえ、宮廷内の案内をニュンバル侯に頼むのは気が引けるなぁ。俺がかなりの仕事押し付けてる訳だし。
「今日はもうロザリアの所にずっといるつもりだから……ちょうどいい。ティモナ、案内してやれ」
「……なぜ私が?」
最近、ティモナは仕事によっては不満を露わにするようになってきた。まぁ、そういう時は全部、俺の傍から離そうとする時なんだけど。
俺はそんなティモナに肩をすくめて答える。
「お前がいるとなんかロザリアの機嫌が悪い気がするし、イルミーノも近づけたくないからな」
「……あぁ、なるほど」
何か心当たりがある、と言わんばかりの反応だった。やっぱそうか……薄々感じてたけど、なんか二人の間には壁というか、妙な距離感があるんだよなぁ。
***
ロザリアは妃として、間違いなく完璧に近い人物だ。というか、俺個人としての不満は全くない。一人の女性として完璧だと思う。彼女のお陰で、俺は今ここにいるし。
妃として見ても、私利私欲を満たそうとせず、政治には俺から意見を求めない限りほとんど口を出さない。そして何より、側室たちと友好的な関係であろうと常に努力している。いやもう、本当に頭が上がらない。
だがそんな彼女に、妃として唯一不足しているものがある。それは……実家の権威である。
彼女の母国ベルベー王国は、どうしても小国の扱いを受ける。正妻の後ろ盾としてはどう頑張っても力不足だ。
俺としてはむしろ、正妻の実家にデカい顔される方が嫌だからありがたい……というか、ベルベー王国が小国だからこそロザリアを正妻に選んだ部分もある。だが、周囲はそうは思わない。特に、俺の考えに詳しくない貴族なんかはな。
ましてや今回みたいな……帝国領内であって帝国の支配下ではないとも言える、ゴティロワ族長の孫娘イルミーノのような存在が出てくると、「そちらを正妻にするべきでは」と言い出す連中が一定数いるのだ。
全ての貴族が聖一教を篤く信仰している訳ではないってことだな。西方派の聖職者は反対するだろうが、連中、今は内部抗争中だし。
なまじ前例が無い訳ではないからなぁ。四代皇帝とか、ゴティロワ族と婚姻で結びついてるし。
そう言った声が一部の貴族から出るくらいには、ゴティロワ族は帝国にとって特殊な存在である。だって天届山脈付近の一部を支配下に置く彼らの領地は、帝国内において希少な鉱物資源が多く採れる数少ない土地だ。
ゴティロワ族を支援することで恩恵にあずかろうとする貴族は意外と多い。
まぁ、もちろんそんなことは絶対にしない。だって、聖一教の教えを受けている民衆にとって、ゴティロワ族は嫌悪の対象だ。しかもロザリアは民衆からの評判も良い。民衆の評価を気にする俺が、イルミーノを後宮に迎えるなんてするはずがないのだ。
そういった事情もあり、俺はイルミーノをロザリアたちには近づけすらしないと決めていた。そういう憶測が立った時点で民衆に反発されそうだしな。
正式に妃となった三人には、宮廷内にそれぞれ個室が与えられている。いや、正確には宮殿の一画か。寝室、客間、そしてお付きの侍女が控える部屋など色々と備わっているからな。
ちなみに俺の寝室や執務室などは比較するとかなり小さい。だって広いと調度品とか揃えなきゃいけないから怠いし。
中でも最も広い、正妻の部屋に行くと……そこにはロザリアの他にナディーヌもいた。そして二人揃って、俺の後ろに誰か付いてきていないのかと、一瞬視線が動いたのを俺は見逃さなかった。
さて、今気にしたのはティモナの方かイルミーノの方か。
……いや、こちらからわざわざ「イルミーノは妻にしないよ」と言うのは、却って妙な勘繰りをされかねないか? ……よし、今日は存在ごと忘れてしまおう。
「留守の間、何か変わったことは?」
俺が訊ねると、ナディーヌがすぐに返答する。
「涼しかったわね」
即答だった。今年の夏は比較的涼しかったらしい。
まぁ、分かるよ。クーラーとかないから、夏暑いと苦しいよな。だから普通は気温とか気になるだろう。誰だって快適に過ごしたい。……俺は魔法でズルしてるからあまり気にならないが。熱の操作は得意なんだよね。
というか、俺の聞きたいことはそういうことではない。
「ちなみに皇王一行は?」
「何も変わらないわ。変わらず、辟易するわ」
その言葉には、積もりに積もった鬱憤が感じられた。明らかに、皇王一行の振る舞いについて言っていることが分かる。すまんなナディーヌ、お前は皇王とか元皇太子とかかなり嫌いなタイプだよな。
「昔の俺相手みたいに、突っかかったらダメだぞ」
部屋には侍女は控えていない。恐らく別室にいて、呼べば来るんだろうが……最近、ロザリアやナディーヌのところへ行くといつもこんな感じだ。なるべく、侍女を遠ざける。
たぶん、俺がリラックスできるよう気を利かせてくれているのだと思う。そういう気づかいが俺にはありがたい。
「しないわよ。期待してないもの」
心外だと言わんばかりにナディーヌが反論する。
幼帝時代の俺に対する態度は純粋な嫌悪からくるものでは無く、まともな皇帝になってほしいと期待していたかららしい。あと、ナディーヌも大人になった……まだ十四だけど。
「陛下、何かお飲みになられますか?」
「……ワインで」
ロザリアに訊ねられた俺は、今日はもう仕事しないという決意と共に答える。すると少し驚いた様子で、だが何も言わずに彼女は部屋から出ていった。部屋の外で控える侍女に、頼みにいったようだ……俺が来る前に頼んどけばよかったな。
こういう時、普通は貴族が侍女や執事を呼んで用意させる。だが俺の場合、彼らがいると皇帝として振舞わなくてはいけないから窮屈だ。それを理解しているロザリアたちは、俺がいるときはなるべく侍女を部屋の外に控えさせる。つまり、俺にとって数少ないプライベートな時間という訳だ。
まぁ、最近は外でも緩んでる自覚はあるけどね。あと、ロザリアやナディーヌのところに仕えている侍女は、それなりに信用はできる人たちだ。口の軽い人間は最初から排除されている。
ただこればっかりは幼帝時代に染み付いた癖でなぁ。軍隊の中にいる時より、宮廷にいる時の方が皇帝として振舞わなければって気がするんだよね。
「珍しいわね、お酒飲むの。あまり好きじゃないと思ってたわ」
ナディーヌが驚いている。実際、俺は必要ない時はあまり飲まないからな。この世界では規制がないとはいえ、二十歳未満の飲酒はあまり良くないだろうという意識があるし。
「むしろ、こういう時じゃないと飲めないからな」
あと人前で飲まないようにしているのは、単純に暗殺が怖いからだ。前世では、人前で飲むのも平気だったし、むしろ好きな方だったと思う。だが十五年も暗殺を警戒し続けていれば、人間変わってしまうものなのだろう。
特に今は、外部の人間が宮廷内にいる。警戒するに越したことは無い……というか、毎日酔いつぶれていられる皇王たちが異常だと思う。
……いや、もしかして怯え続けて、もう正気でいられないから酒に逃げているのか?
「いっそ東の宮殿で隔離したら?」
俺が何を警戒しているのか察したらしいナディーヌに、俺は腕を組みながら唸るように答える。
「アイツ等のためにさらに金をかけるのはちょっと」
いやほんと、宮廷の維持費ってめっちゃ金かかるんだよね。だからナディーヌの言う東の宮殿ってやつは、完全に封鎖して手入れも碌にしていない。
帝都の宮廷は広大で、いくつもの宮殿から構成されている。ただまぁ、これは定義というか、数え方の問題ではある。最初から宮殿として建てられ、かつ渡り廊下などで繋がっていない「独立した建造物」を宮殿としてカウントするなら、実は帝国の宮廷には二つしかない。
一つは大宮殿とも呼ばれるもの。これは初代と二代目が建てた最初の宮殿『古宮殿』と、その西側に四代目以降の皇帝が増築した宮殿があり、それぞれ渡り廊下で繋がっている。
ただまぁ、これらは普段、別の宮殿として扱われている。校舎が二つあって、渡り廊下で繋がっていても「新校舎」「旧校舎」と呼び分ける……みたいな感覚だ。あと増築の結果、南側にある宮殿ではない建物、通称『貴族館』とも繋がっている。
これはまぁ、なんというか複雑な話なのだが……ようは初代皇帝の時代と今では、宮殿の定義もルールも変わっているのである。当初は、皇帝の住居を宮殿とし、貴族が政務を行う場所は宮殿と呼ばず、完全に分離して作らせていた。また、貴族の宮殿への立ち入りも基本的には禁止していた。
だからこの『貴族館』は、当時は外務卿や財務卿などの諸庁が入っていたのだ。だがその後の皇帝が新しい宮殿を造ったり、宮殿内に貴族を常駐させたりするようになった結果、今では用途が大きく変わっている。
現在の『貴族館』は、他国の使者が寝泊まりしたり、商談に来た商人を出迎えたり、あるいは貴族が勝手に社交パーティーを開いたりと、まぁそういう使われ方をしている訳だ。
そんな大宮殿からは完全に独立している『東の宮殿』というのは、俺が実権を握ってからは全く使われずに放置されている宮殿だ。三代目が造り、先代皇帝が増築した宮殿である。
先代皇帝の時代、宰相と式部卿が我が物顔で大宮殿内を闊歩していることに嫌気が差した先代は、『東の宮殿』を増築し、そこに移り住んだらしい。
まぁ即位の儀までは式部卿が自腹で綺麗にしてたらしい、清掃代はそんなにかからなそうだけど。
……式部卿が手入れしていた理由? そりゃ先代皇帝が殺された場所だからでしょう。何か見られたくないものがあったのか、あるいは精神的な理由か。
「それに、たぶん嫌がるだろ。特に元皇太子は貴族館と自分の部屋を毎日のように行き来しているみたいだし」
渡り廊下とかで繋がってない分、『東の宮殿』はアクセスも悪いからね。
ちなみに、今彼らが生活しているのは『古宮殿』だ。一方、ロザリアたちの部屋は四代皇帝が増築した宮殿の中にある。そしてニュンバル侯らが仕事をしているのは五代皇帝が増築した宮殿だ。いずれも渡り廊下で繋がっている。
つまり外を出歩くと、あの皇王や元皇太子と出くわす可能性がある訳で。
だから今日はもう出歩きたくない……あいつらの顔は見たくない。
そんなことを考えていると、部屋の外から戻ってきたロザリアから声をかけられる。
「夕食もこちらで、と伝えておきましたわ。それから、湯浴みも隣の小浴室を使えるよう手配しておきましたので」
「……なんと出来た奥さんなんでしょう」
戻ってきたロザリアの言葉に、俺は感動を覚える。まぁ、昔からそういう察しは良いから驚くことではないんだけど。
……っと、そんなこと言うとナディーヌが拗ねるか。
「ふふん」
と思ったらなぜかナディーヌがドヤ顔している。どうやらロザリアが褒められると嬉しいらしい。仲良きことは善きかな。
まぁ、二人の関係は俺の目には仲の良い姉妹にしか見えないが……正妻と側室だからな。多少は蟠りとかあるのが自然だろう。その辺りはちゃんと気を付けなければ。
「だからナディーヌ、今日は自分の部屋で寝て頂戴ね」
「えっ」
ロザリアの宣告に、ナディーヌが残念そうな声を上げる……いや、俺がいない間二人で寝てたんかい。
しかもこの反応、一度や二度どころではない……さてはナディーヌ、ロザリアの部屋に入り浸っているな?
そんなナディーヌを、ロザリアは揶揄うことにしたらしい。
「その……さすがにそれはまだ恥ずかしいですわ」
ロザリアが頬を赤らめながらナディーヌに向けてそう言うと、ちょうど部屋のドアがノックされた。
入ってきた侍女が慣れた手つきでワインのボトルを開け、毒味も済ませ、そして出ていく。本当に無駄のない、素早くも丁寧な所作である。
そしてロザリアがボトルを持ち上げグラスに……というタイミングでナディーヌが声を上げる。
「なっ!?」
そこには顔を真っ赤にした少女がいた。年相応で大変可愛らしいと思います。
……まぁ、妃の部屋で食事して酒飲んでってことはそういうことですよ。宮中伯もニュンバル侯も、俺に見てもらいたい書類なんて山ほどあるだろうに、俺がロザリアのところ行くって言ったら「明日以降に回します」だもんなぁ。無言の圧を感じる……早く後継者をっていう圧だ。
俺が思わず遠い目をしていると、ロザリアがナディーヌの傍に行き、赤くなった耳元に何やら囁いた。
「ぴゃっ!?」
今度は聞いたことのない悲鳴の様なものがナディーヌの口から漏れていた。それから勢いよく立ち上がると、ナディーヌは部屋のドアへと駆けていった。
「そそ、そ、それでは私、お、お部屋に戻らせていただきますわ。ご、ごきげんよう……」
そのままナディーヌは、一度もこちらに目を合わせずに出て行ってしまった。別に今すぐに何か始まるって訳じゃないのに、慌て過ぎではなかろうか。
「ふふっ。可愛らしいでしょう?」
なるほど、これが正妻の余裕ですか。
「あれ、ナディーヌの分は?」
さっきロザリアは食事もここでとれるよう用意させたと言っていた。だからてっきり、ナディーヌの食事もここに用意させて、それから部屋に帰す算段だと思ったのだが。
「その、今日はせっかくでしたので、独り占めしたくて……」
ロザリアは恥じらい混じりの可愛らしい表情で、とても恐ろしいことを言っている。
つまり最初から食事の用意は二人分、ナディーヌが部屋を飛び出すところまで計算内だったということだ。
……なるほど、格が違う。全て掌の上でしたか。
「というか、まだってなんだ。まだって」
俺にその予定はないぞ。半年前の初々しさはどこへ行った。
「うふふ」
口に手を当て、ロザリアが楽しそうに笑っている。え、否定しないの? ……あれ、男としては喜ぶべきか?
ちょっとどういう反応すればいいか自分でも分からなくなってきた。あと個人的には、耳元で何言ったかも気になる。
「でも、明日はナディーヌに時間を作ってあげてくださいね。あの子も寂しがっていましたわ」
……ロザリアは本当に、こういうところも抜け目ない。今日の分の埋め合わせってことなんだろう。ナディーヌがロザリアのことを姉のように慕う訳だ。
「あの逃げ出し方したナディーヌと、明日会うのか」
これから何が行われるか知られてるわけだし、俺も少し恥ずかしいんだけど。
……というかさっきのナディーヌの反応、今思うとオーバーリアクションが過ぎないか。
初夜は来年にってナディーヌに伝えた時、確かに恥ずかしがってはいたが、ここまでではなかった。そもそも、貴族の子女としてそういう知識はある程度教えられているはず。
ということは……この半年で知識がアップデートされたのか、あるいは何かはっきりと想像できるようになってしまう出来事があったのか。
……連日一緒に寝ていて? あの子も寂しがっていた?
「……寂しさを紛らわせるために……いや、何でもない」
こういうの、邪推で聞くのは良くない気がする。
だが、ロザリアは本当に聡い。すぐに俺が何を想像したか感づいてしまったらしい。
「陛下もそういう……? これは本格的に知識を仕入れないと、置いて行かれそうですわ」
「いや、誤解……えっ」
あれ、置いて行かれる? つまり、ロザリアがナディーヌに何かしたわけでなく、ナディーヌがロザリアを……? お姉さまってそういう……それは流石に意外だ。
まぁ、妃の間で仲悪いよりはずっといいし、宮廷の外に漏れなければ平気か……?
その翌日、「完全に誤解よ!!」と顔を真っ赤にしたナディーヌから猛抗議を受けた。話によると、別に百合系の話ではないらしい。
ただこの半年で、急にロザリアから色気が出てきて、それを見るたびに何があったのか、色々と想像……妄想してしまうようになったと。そしてその様子が、若干ロザリアに誤解され気味だということらしい。
……つまり、ナディーヌが単純に思春期ってだけの話だった。いや、この場合ロザリアも俺もか?
忘れがちだが、十五歳って前世ではまだ中学生か。むしろナディーヌの反応の方がまともなのかもしれない。




