【閑話】ロザリア2
ロザリア・ヴァン=シェロンジェ=クリュヴェイエは、初めて見る帝都の広さに唖然としていた。
アキカール地方に上陸し、そこから舟で川を遡ること一週間。ようやくたどり着いた帝都カーディナルは、それまでの疲れを吹き飛ばすほどに広大であった。視界いっぱいに広がる城壁を初めて見たロザリアは興奮していた。
(これなら、王国を救えるかもしれない……!)
期待に胸を膨らませ、彼女は帝都の門をくぐった。
***
そんな期待はわずか数日で崩れ去った。
未だに、実権を握っている二人の大公と会うことは叶わない。それどころか両派閥の貴族への必死の訴えも、のらりくらりと躱される始末。
外交官たちも、暗い表情でうなだれるばかりだ。
「姫殿下、そろそろ次の国へ行きましょう。少し遠いですが、ヒスマッフェ王国なら話くらいは聞いてもらえるでしょう」
現状、話すら聞いてもらえないこの国よりかは確かにマシだろう。だが、帝国に並ぶ大国である『テイワ皇国』に虎視眈々と狙われているヒスマッフェ王国に、ベルベー王国を救える力があるのか疑問である。
ロザリアは一つだけ、考えていた案を実行することにした。
「わかりましたわ……ですがこの国を去る前に、皇帝陛下に一言ご挨拶をさせて頂けませんか?」
「陛下にですか?」
それに何の意味があると言いたげな表情の外交官に、ロザリアは続ける。
「同じ年頃で至高の座にいる方に興味がありますの……無理でしょうか」
(私より幼い陛下なら、私達の窮状に素直な反応を示してくれるかもしれない……)
その反応一つあれば、もしかすると帝国貴族たちとの交渉に利用出来るかもしれない。そのくらい、実権は無くとも皇帝の言葉には重みがある。
同時に、ロザリアは自身より幼い身を利用しようとするその行為に、心が痛むのを感じた。だが藁にもすがる思いとはまさにこの事だ。ロザリアもまた、外交官達と同じく焦っていた。
それに、言葉通り同じ年頃の皇帝に興味があるのも事実だった。
外交官たちは「王女が珍しく我侭を言っているぞ」と顔を見合わせた。
「殿下は陛下と同じくカーディナル帝を始祖とする家系ですから……謁見は願い出れば叶うと思いますが」
「良いのではないですか? 他国も帝国の幼帝には興味があるでしょう」
「何とか支援の一言を引き出せれば、宰相たちとの交渉にも使えるかもしれませんな」
たとえ皇帝が「助ける」と言っても実現しないであろう。交渉に使えるかも定かではない。だが試してみる価値はある。
幼い身に実権が無いことは誰もが承知の上で、二人の会談は実現することになる。
***
「お初にお目にかかります姫殿下。ヘルク・ル・ディッフェと申します」
そうにこやかに挨拶する家令。しかしその目は決して笑っていなかった。
「陛下の元へご案内いたします」
「ありがとうございます」
(そう、監視という訳ね……きっと私はほとんど話させてもらえないのでしょう)
やはり手詰まりか。そんな暗い気持ちでロザリアはカーマインと謁見することになる。
「お初にお目にかかります、陛下。ロザリア・ヴァン=シャロンジェ=クリュヴェイエにございます」
挨拶をして顔を上げると、そこには幼い男の子が座っていた。噂では子豚などと揶揄されていた皇帝だったが、決してそのようなことは無く、標準体型である。だがそんなことを気にする余裕は、ロザリアには無かった。
(我が国の現状を話せば、すぐに追い出されるわよね……どうすれば……そもそもこの年齢だとどこまで理解できるのかしら?)
そんなことを考えていたロザリアは、幼い皇帝と目が合った。そしてロザリアは驚いた。興味深そうに自身を見つめる黄金の瞳が、まるで父王や長老たちのように、深い思慮の色を帯びていたからだ。
(これが、何も知らない幼子の瞳だというの……?)
そんな時だった。カーマインが言葉を発したのは。
「おぬし、気にいった! 余のつまとなれ!」
その瞬間、世界の時が止まったかのような錯覚をロザリアは感じた。
(弱小国の王女と、陛下が……?)
それはありえない話だった。カーマインが言葉にするまでは。
「婚約……ですか?」
ロザリアは夢を見ている気分だった。
「おお、そうじゃ。おぬし、あたまも良さそうじゃの」
その引き込まれるような瞳から、ロザリアはカーマインの気遣いを感じた。外交官たちが聞けば「気のせいだ」と言うだろう。だがロザリアは同じ年頃であるがゆえ、カーマインの異質さを感じ取っていたのだ。
それから家令を追い出すカーマインは、傍から見れば駄々をこねる幼児である。
「それで、ベルべーおうこくとはどんなとこじゃ」
だが、ただの幼子が、こうもあっさりと感情を切り替えられるだろうか。
そしてロザリアが悩んでいた自国を説明する機会が、皇帝のたった一言で巡ってきたのだ。
ロザリアは状況が一変していることに気づいた。たとえ皇帝に実権が無くとも、いや、無いからこそ「皇帝の望み」には重みがある。
きっと貴族たちは、皇帝の望みを叶えるべく……正確には対立している派閥に先を越されないように、婚約の話を進め、そしてベルベー王国を援助するだろう。
(婚約……そう、私はこの方と婚約するのね)
「はい、陛下。私の祖国は……」
それはカーマインにとってもロザリアにとっても、初めて同世代とゆっくり話す機会であった。
(私は、帝国の妃になって、この方を支えたい)
カーマインはこの時、駆け引きなしの会話を純粋に楽しんでいた。故に、彼女の頬に僅かながら赤みが差していることに、カーマインは気づかなかった。
ロザリア……後の皇后とカーマイン帝の初対面は、実に和やかな会談であったと、帝国史記に記されている。
***
また、帝国史記にはこうも記される。このときの帝国の宮廷は「狂騒の中にあった」と。
はじめ帝国宰相、カール・ドゥ・ヴァン=ラウル公はこの婚約に難色を示した。ベルべー王国の王女とカーマイン帝が婚約すれば、ベルべー王国に侵攻中のトミス=アシナクィと対立することになるだろう。帝国とトミス=アシナクィの間には圧倒的国力差があるとはいえ、トミス=アシナクィは宗教国家である。これと敵対することは、そのまま宗教対立に発展しかねないからだ。公の心情は「面倒事は避けたい」の一言に尽きた。
だがそれに対し、式部卿フィリップ・ドゥ・ガーデ=アキカールはこの婚約を大々的に支持。領地が海に面している公は、貿易保護を名目に所有する軍艦(アキカール公の私物であり、帝国のものでは無い)を商船の護衛として送り出した。
護衛とはいえ軍艦は軍艦。それまで大々的に行われていたトミス=アシナクィ軍の海賊行為が停止した。
これに対し、カーマインはこう言った。
「さすがはしきぶきょうじゃ」
この一言で更に動きは加速する。
まず、アキカール公はベルべー王国に対し、食料を格安で販売。その上で、皇帝の「望み」を蔑ろにする宰相を大々的に批判したのだ。
これを受け、ラウル公は方針を変更する。
まず、この婚約を承認し、各国に通達。その上でラウル公領で生産された武器・弾薬などをベルべー王国に無償で提供した。
アキカール公も対抗して食料を無償で提供。
この動きを受け、トミス=アシナクィはベルべー王国に対する軍事行動を停止。撤退した。
ちなみに、この食料や武器・弾薬は表向きには帝国に存在しないものである。
つまり、宰相と式部卿は堂々と納税の義務や申告の義務を無視していたのである。
この頃から、皇帝直轄領の農民は徐々に貧困傾向にあったし、武器弾薬も不足していた。
にもかかわらず、それを納めるべき国に納めず、他国に送った一連の動きに、中立派の諸侯は密かに不満を募らせる。もっとも、両派閥に対抗できるほどの勢力では無いため、あくまで水面下の話である。
とはいえ、二つの派閥がまるで競い合うかのように物資を放出したため、わずかながら両派閥の力は低下することになる。
***
ロザリアたちは帝国を発った後、周辺国を巡り支援を求めた。船団がベルベー王国に帰国する頃には、すでに季節が変わって冬になっていた。
既にベルベー王国を取り巻く状況は一変していた。ベルべー王国の民はこの冬を越せそうであったし、奪われた都市をいくつか奪還することに成功していたのだ。
帝国とは比べ物にならないほど質素な宮殿の、謁見の間……正確には城塞の一部を改造しただけの大部屋にて、一組の親子が数ヶ月ぶりの対面を果たしていた。
「しかし、こうも容易く覆されるとはな……」
ベルベー王国第26代国王にしてロザリアの父、アレクセイ王は帰国した娘にそう零した。
「陛下。そのお陰で我が国は救われそうなのです。そのような不満を持ってはいけませんわ」
「二人きりなのだ。陛下はやめておくれ、ロザリア……別に不満という訳では無い。我が国は救われた……これには感謝している」
しかしなぁ……と、釈然としない態度のアレクセイ王。実際、今まで死力を尽くしてきた自身の努力を、幼子の一声が上回ったのだ。不満を持ったとしても、無理はない。
「すまぬ、ロザリア。婚約はもう少し続けることになりそうじゃ」
一部では「愚鈍」と評価される幼帝との婚約だ。きっとロザリアにとって本意ではないのだろうと彼は考えていた。
「まぁ。いけませんわ、お父様。一度結んだ婚約を破るだなんて、我が国の信用問題に関わりますもの。それにいくら物資や食料があっても戦に勝てなければ、いずれまた同じことになりますわ」
「確かに、奴らが退いたのは帝国の軍事力への警戒故だが……」
政治的には婚約を切るべきではない。少なくとも、国力を立て直すまでは。
それが正しい判断だと分かっていても、彼も人の親。娘には愚鈍な傀儡帝より、優秀な者へと嫁いでほしい。そう考えていた。
「いいのです、父上。私はこの国の王女であることに誇りを持っておりますの。この役目は全うしなくては」
その言葉が娘の照れ隠しと気づかない国王は、感極まり涙ぐむ。
だがその娘の心は、既に別のところにあった。
(私があの方を支える……そのために、もっとたくさん学ばなくては)
親の心子知らずと言うべきか、あるいはその逆か。
そんな王宮での親子の会話は、数ヶ月前には有り得ないほど平和で和やかなものだった。
ちなみに、ロザリアの母は全てを察し、恋に落ちた娘を大いに揶揄ったという。