3
「両家の盟に祝福を」
どの国の使節も使うその言葉は、意味としては「結婚おめでとう」ということだろう。こういうところからも、結婚が家と家の同盟契約であるのがよく分かる。
そして祝意を述べるだけで終わる使節はいない。向こうから帝国の事情や俺の考えを知ろうと探ってきたり、俺からも探ったりするからだ。
まぁ、俺としてもかなりの収穫になった。というのも……挨拶に来るのは、君主の代理として来ている人間だ。その人選は国によって異なるが、基本的には外交能力とかではなく、その者の爵位などで選ばれているようだ。もちろん、それとは別に外交官も送られてきているが、晩餐会のような格式が優先される場で皇帝に挨拶するのは、あくまで使節の方。外交官は会場の外で他国の外交官と会っている。
だから俺としても予想外なことに、挨拶に来る使節の反応はかなり分かりやすく、楽な相手が多かった。単純に最初の一人が面倒なだけだったらしい。
今まで俺は、外務卿も兼任し、諸国の外交官とも交渉したり、交流したりしてきたんだが……そのイメージで相手してたら全然違った。平和な時代の外交官とは違い、この時代の外交官はちゃんと命がけだ。相手の気分次第では、捕らえられそのまま獄死なんていうのもよくあることだし、自国からも敵国からも内通者扱いされる危険がある。
だから外交官は口が達者だったり、腹の探り合いが上手かったりは当たり前で、その上で命を懸けるってくらい、覚悟の決まってるやつが結構いる。
そんな連中ばかり相手してた時は分からなかったが、こうして比較するとだいぶ違うな。使節らの反応から、その国の事情とか考えがうっすらと読める気がする。
例えば皇国。今回来た使節は高齢で、恐らくほとんど政治のことが分からない人間だ。お陰で皇国が何考えているのかは全然読めないが、他国の使節とも積極的に交友しようとしないあたり、おそらく国内に問題があり「外」の話どころじゃないように見える。
天届山脈以東の諸国が皇国の使節とあまり交流してないのがその証拠だ。本来、山脈以東でリーダーシップを発揮する国が、これだけ静かなのは流石におかしい。
カルナーンとサマ王国はリカリヤに相当追い込まれているようだ。もはや両国が協力するくらいしか生き残る道は無さそうだが、過去の歴史に致命的な問題を抱えており両王家の関係は絶望的。
彼らを支援するべきかは、微妙なところで判断に迷う……帝国の助力を仰ぐ割に具体的な見返りがないのはちょっとね。今はリカリヤと事を構える余力なんてないし。
もうすぐ帝国が交戦するロコート王国から見て南に位置するダウロット王国、東に位置するゴディニョン王国の二国は、ロコート王国と敵対しているが余力はないって感じらしい。
ゴディニョンは小国ながら多くの国に囲まれてるから分かる。俺も彼らとは仲良くしたいから、友好的に接するし、無理にロコート王国と戦えとは言わない。
問題はダウロット王国……彼らはつい最近ロコート王国相手に大敗して、その立て直しがまだ終わってないようだ。じつは俺の父親であるジャン皇太子の妹の一人が、このダウロット王家に嫁いでいたりする。だから帝国に対し友好的だし、万全の状態ならロコート王国を挟撃できたはずなんだが……まぁ、かなりの大敗を喫し、将軍とかかなり討ち取られたらしいからなぁ。無理に兵を動かせと言えるほどの影響力はないし。
というか、このタイミング……むしろ順序は逆か? ロコート王国はダウロット王国に大勝して、背後の憂いが無くなったから帝国に仕掛けてきたんじゃなかろうか。
ダウロット王国を叩いて余裕が生まれたロコート王国としては、ガーフル共和国や反乱軍相手に忙殺されてるように見える帝国が隙だらけに見えたはずだ。
あとベルベー王国とエーリ王国の使節とは、ヴェラ=シルヴィの結婚も終わった後に、改めて会談の場を設けることを決めた。ちなみにベルベー王国の使節はサロモンだった……お前ずっと帝国にいたけどそれでいいのか……?
あと、外交官としてセルジュ=レウル・ドゥ・ヴァン=シャロンジェも来ている。恐らく会談の際はこの男も出てくるだろう。個人的に評価の高い外交官だし、帝国に雇われる気はないかもう一度聞いてみようかな。
北の中堅国、ヒスマッフェ王国には過剰なくらい丁寧に対応した。ヒスマッフェ王国は皇国と対立してるし、北方大陸とも繋がりが深い。彼らと強固な同盟が結べれば、ガーフル共和国を南北で挟撃できる……帝国的にはメリットが多い。だが彼らの方はあまり乗り気ではなかった。対皇国では協力するが、対共和国には賛同してくれ無さそうだった。地理的に、ガーフル共和国を片付けないとヒスマッフェ王国と帝国は連携を取りづらいんだがな。
まぁ、これまで帝国とヒスマッフェ王国はあまり交流が無かったからな。そのせいでハードルが高いのかもしれない。今後も使節を頻繁に行き来させることで合意した……彼らとは今後に期待だな。どっかにちょうどいい縁は転がってないもんかね。
その他、山脈以東の国については、ほとんど交流もなく軽く探って終わりだ。だがここでも、皇国の影響力の低下は見て取れる。それで皇国が弱体化するのは今のところ良いが、この感じ……嫌な予感がする。嵐の前の静けさってやつだ。
反皇国の立場にいるプルブンシュバーク王国とメザーネ王国、リンブタット王国が積極的に交流の場を求めてたのも、たぶんこの隙に皇国を攻撃できるようにってことなんだろうけど……そこまでの余裕は帝国にないしなぁ。
彼らとはこれからも外交官を行き来させることで合意した。
あぁ、でも確かフィクマ大公国の使節は俺と一対一で話したがっていた。皇国をはじめとする他国の使節の前では話したくないとのこと。
狙いは定かではないが、フィクマ大公国は長年、皇国と結びつきの強い国だ。皇国の事情をより深く知れるチャンスかと思い、今日の深夜か明け方頃に部屋で会うことになった。晩餐会の後はワルン公らと会議して、その後に彼らと会うことになる。
流石に罠とか暗殺の危険性もあるから、近衛と密偵で固めないとなぁ。……これは寝る暇が無さそうだ。
そして問題の南方三国、それと交戦中のガーフル共和国の使節について。
帝国が南方三国とまとめて呼ぶことの多いアプラーダ王国、ベニマ王国、ロコート王国の三国は、攻防共に機能する軍事同盟を結んでいる。つまり、どこか一国が同盟以外の国家と開戦した場合、どちらから仕掛けたかなど関係無しに無条件で同盟国として参戦する。
だから俺はこの同盟を切り崩そうと揺さぶってみたりしていたんだが、足並みを乱すことには成功したものの、同盟を解消させることはできなかった。
そして南方三国の徴兵状況から、皇帝の結婚関連の祝祭が終わり次第、ロコート王国が宣戦、同盟を理由に他二国が参戦って流れまでは読めている。だが同時に、あくまで現段階は開戦前だ。こちらは警戒して準備こそすれど、南方三国の使節を敵として扱う訳にはいかない。
その三国の使節は、特に目立った動きは無かった。だが、逆に言えばそれがおかしいとも言える。
今は開戦直前なのだ……もっと反帝国的なロビー活動、自分たちの正当性の主張、他国の使節に協力の打診や帝国貴族へ揺さぶり等々、できることもするべきこともたくさんある。
だが彼らは、一つのテーブルに集まってほとんど動きが無かった。あるいは、こちらの監視をそれほどまで警戒しているのだろうか。
個別で会話した印象もやはり変だ。こちらの様子を探るまでもなく、儀礼的な挨拶に終始している。これから戦う相手に対してあまりに消極的過ぎる動きだ。そのくせ、こちらの会話に簡単に乗ってくるから、彼らの言葉や態度から三国の姿勢が少しだけだが読み取ることができる。
まずロコート王国の主目的は国内の元帝国貴族の反乱を完全に平定することだ。しかしいくら追い詰めようが帝国領に逃げ込まれたら負えないし、そもそも帝国がこの反乱を支援していそう……だから帝国に宣戦布告しようって流れだと思う。なんというか、彼らからは危機感みたいなものが全く感じられなかったし。
まぁ、ロコート王国に続いて参戦することになるベニマ王国、アプラーダ王国の使節からもそういうのは感じられなかったな。特にアプラーダ王国なんて、交渉の継続を訴えてたぞ。
あ、この交渉って俺が提示した『ベニマ王国を帝国含む三国で分割する』って案のことね。完全にブラフなんだけどまだ本気にしてるのか。しかもこれからそのベニマ王国と肩を並べ、帝国と戦おうって時に。
この三人は目立たずこの場をやり過ごそうとしているかのような、そんな印象を受けた。
これが熟練の政治家で、俺のことを騙したり罠にはめようとしたり、あるいは俺から情報を聞き出そうとしているなら分かる。だが、どうもそういう感じもしないんだよなぁ。こっちの揺さぶりにか簡単に引っかかるし、表情も分かりやすい、まるで本当に純粋な友好の使節として送られたような……いや、そうか。意外とそうなのかもしれない。
この三人の使節の身分は、来客の中でも優先されるべきものでは無かった。各王家の血は流れているがそれほど高位の貴族ではなく、自国で重要な役職に就いている訳でもない者たちだ。
ということは、この三人は捨て石みたいなものか。今回は帝国側の密偵が早い段階で掴んだが、もし掴めてなかったら何も知らない彼らに友好的に振る舞わせ、油断したところをって算段だったのかもしれない。
下手したらこの使節たちには、帝国と開戦することすら知らされてなかった可能性もある。
……あれ、でも全体に向けて俺が話した時、三人のリアクションは薄かったんだよな。あれは自国が兵を動員することを知っている感じだった……と思ったんだけどなぁ。
うーむ。これ以上は正直、分からん。リカリヤの王太子くらい目的がはっきりしていてもらわないと困るんだけどなぁ。足して二で割れない? 君たち。
ただ、そんな中途半端な彼らとは裏腹に、同じテーブルでも積極的に動いてる男がいた。
***
その男に抱いた第一印象は嫌悪だった。卑屈な笑みを、丸まった背、肥え太った体型、趣味の悪い宝飾品……中でも人差し指に付けられた指輪は、自分の富を主張するかのように巨大だった。「奸臣」と聞いて想像する典型的な男という感じだろうか。
だが同時に感じる強烈な違和感。それが何か考える前に、男が口を開いた。
「お初にお目にかかります皇帝陛下。私はステファン・フェルレイと申します」
その声に、思わず鳥肌が立つ。本能的な嫌悪と言っていい。どうしようもなく気持ち悪いと感じてしまう。
ガーフル共和国の使節は、先日は違う男だった。なぜロザリアと結婚した時の晩餐会にはいなかったのか……何か良からぬことを裏でやっていたのかもしれないと、そう思わされるこの男は……ガーフル共和国における実力者の一人だ。
「お久しゅうございます、ナディーヌ妃殿下」
湿っぽいというか、ねっとりとした声だ。自分の妻にその声で話しかけられたことが、不快に思えて仕方がない。
「えぇ、久しぶり」
消え入りそうなナディーヌの声……それは嫌悪で震えていた。たぶん、この男を見た人間は全員同じ感情を抱くんじゃないだろうか。
ガーフル共和国は、彼ら自身は「ガーフル王国」と名乗っている。その王は血統により選ばれるのではなく、ガーフル人の大貴族の中で選挙が行われ、選ばれた者が王となる。その特徴は、この選ばれた王に全く何の権限も与えられないこと。
形だけの王を置き、あらゆる法、外交、内政が大貴族による選挙で決定される。その実態は貴族共和制である。
故に、周辺国はこの国を王国とは認めず、共和国と呼ぶ。そのガーフル共和国において、ステファン・フェルレイは選挙権を持つ大貴族の一つ、しかもその当主である。話によると、反帝国を掲げる「主戦派」に対し、帝国との協調を訴える「穏健派」ともいえる派閥、その中核の一人であるとのこと。
しかしその評判は帝国貴族の間でも最悪だ。自己の利益のみを優先し、祖国すら売るような売国奴。帝国の貴族にはお抱えの商人のように媚びへつらい、豪遊を好む俗物らしい。
それでもガーフル共和国の中では帝国に近しい立場とみられる彼は、これまでも何度も帝国に出入りしていたらしい。残念ながらその時期の俺は傀儡であり、会ったことは一度もない。しかしナディーヌはワルン公と共に会ったことがあるらしく、この男が会いに来る前に耳打ちしてくれた。
ナディーヌ曰く、何故かは分からないが嫌悪感を抱くらしい。
「此度は偉大な両家の盟に祝意を述べさせていただきます」
そう言って頭を下げるステファン・フェルレイ。ふと、その異様に大きい指輪が何かに似ていると思った。
「よくも俺の前に顔を出せたな。あのようなあくどい手を使い、我が国に奇襲を仕掛けておいて」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。正直、この男との会話を早く終わらせたくて仕方がない。
「えっ」
隣から、ナディーヌの声がした。いったい、何に驚いて……。
……ちょっと待て、今「俺」って言ったか!?
「ははあっ。申し訳ありません、アレは一部の過激派の暴走でございまして」
そのまま土下座でもするのではないかと思うほど、頭を深々と下げるステファン・フェルレイ。その指が一瞬、指輪に付いた巨大な宝石に触れる。
その瞬間、俺は目の前の男がどうしようもなく情けないような、取るに足らないような人間に思えた。こんな俗物に時間をかけるとかどうかしている。適当に聞き流して次の客を呼ぼう。そんな感情が湧き上がると同時に、俺は体内の魔力に全力で意識を向けた。
焼け石に水程度だろうが、意識を目の前の男から少しでも逸らすことで、オーパーツの影響を弱める。
「どうだかな……貴様の噂は聞いているぞ」
こいつ、他国の宮廷に堂々とオーパーツを持ち込みやがった! 既にオーパーツの影響範囲にいる以上、洗脳系のオーパーツなら完全に影響を排除することはたぶん無理だ。
古代の、今よりもはるかに進んだ魔法文明時代の産物……それがオーパーツだ。その存在を知っていても、分かっていても、これは躱せない。
あるいは魔法を使えばどうにかできるのかもしれないが、これだけ人の目がある状態でそのリスクは冒せない。
それでも、意識を逸らしただけで大分マシになった。目のピントをずらし、男の外見的特徴から意識を外す。だが声はどうしようもない。
「そのような! あくまで噂に過ぎません」
オーパーツの存在と、それが思考能力に影響を与えるものが多いという事前知識。
ナディーヌの気づき、そして同じくオーパーツの一種と思われる、『シャプリエの耳飾り』の存在……あれも魔道具になっているのは宝玉の部分だ。それら全てを知っていなければ、何も分からずに乗せられていた。
「まぁよい。それで貴様、ガーフルの代表として来たのであろう。敵と話すほど余は暇ではないのだが?」
それだけの要素が重なっても、気づいた時には遅かった。それでも、完全に無防備になった訳ではない。
演じろ、演じろ……。横暴な皇帝を演じろ。これは演技だ。
俺は自己暗示をするように、自分に言い聞かせる。これで抵抗できてるかは分からないが、少なくとも素で話して良い状況ではない。せめてそのくらいは抵抗しろ。
「いえいえ。私は帝国恭順派でございますから……反帝国などと畏れ多いことを言って聞かない連中とは違うのです」
その声に、俺は哀れみのような感情を抱く。さっきまでは生理的な嫌悪だったのに、今は酷く情けない存在、取るに足らない存在の言葉だと思えてしまう。
「ほう、恭順派ね。口では何とでも言える」
「もちろん、可能な限り陛下にご協力させていただきますとも。しかし、私の力は貴族の中でもあまり強くなく」
おそらく、あの指輪に触れた時にチャンネルが変わったのだろう。
最初に嫌悪感を抱かせ軽度の緊張状態にし、次に侮りの感情を抱かせ緊張を緩ませる。対象は相手を取るに足らない存在だと思い、油断する。自分が圧倒的優位にいると勘違いした対象は、貧しい物乞いに食べ物を恵む感覚で、相手が望む言葉を吐いてしまう……そんなところだろうか。
「貴様ならばそうだろうな」
というか封魔結界の中なのに普通に発動するのかよ。出鱈目な性能だなオーパーツってのは。
「はい……それに、このことがバレでもしたら……」
封魔結界の魔道具の内部構造は、元はオーパーツだったものがたまたま量産できているって感じらしく、実のところよく分かっていない。だがその仕様は予想がつく。
恐らく、この世界の空気中に存在する魔力の強制固定。だから脳内でイメージし、空気中の魔力を使って魔法を発動する一般的な方法では魔法が使えなくなる。そしてこれは魔道具だろうが同じはずだ。だから暗殺対策で、宮廷では常にこの魔道具が起動している。
「ふん、この期に及んで保身か」
ただし、魔力を通さない材質によって密閉された空間内では、魔力は固定化されず魔法も使える。俺が帯剣している『聖剣未満』の鞘もそういう材質らしい。
ではこの場合は? あの指輪で発動した魔法が、俺の脳に飛んでくるというのなら、封魔結界の干渉を受けるはず。もちろん、俺の知らない理論で抜け道があるなら分からないが……むしろあり得る可能性としては、あの魔道具の発動対象が俺ではなく相手の方だった場合か。
「なにとぞ、ご慈悲を」
「……まぁいいだろう」
よく考えると、相手を直視しないようにしただけで少し効果が弱まっているっていうのは、俺の脳に直接影響を与えているならおかしい。それなら視覚情報に効果は左右されないはずだ。
「ありがとうございます。今帝国と戦っているのは全ガーフル貴族ではなく、過激派……あくまで一部の、暴走した主戦派のみ」
ならあり得そうな効果は……ステファン・フェルレイの特徴の一部を抽出して強調する、みたいな効果か。最初は外見や声の「嫌悪感を抱く部分」だけを強調していて、今は「侮蔑や哀れみを抱く部分」を強調している……そういう魔道具ならまだあり得そうだ。
「それをお認め頂ければ、私も陛下のお役に立てます」
「いいだろう、認めよう」
……しかし、それはそれで疑問が生まれる。全ての人間が嫌悪を抱く声、全ての人間が哀れみを抱く声なんて。果たしてそんなものが存在するのだろうか。嫌悪はあり得るかもしれないが、哀れみって……全ての人間が一律に感じられるものなのか?
まぁ、仕組みを簡単に理解できれば「オーパーツ」なんて呼ばれないか。
「ありがとうございます」
ふと、急に俺は目の前の人間がどうでもよくなった。喋る価値もない……って、またチャンネルが変わったのか。
「では失礼いたします」
そう言い残すと、ステファン・フェルレイはそそくさと逃げるように去っていく。
俺は、男に言葉をかける気にもならなかった。その為に、声を発するのすら勿体ない。
……というか、俺のこの異常な態度を見ても、近くの貴族も他国の使節も、だれも驚いたり不審な目で見たりしていない。まるでステファン・フェルレイが嫌われるのは当たり前だというように、このやり取りを眺めている。どんだけ効果範囲広いんだ、そのオーパーツ。
男がある程度離れたところで、ナディーヌが俺に対して、小さな声で謝った。
「ごめんなさい。なんだか私、おかしくて」
俺はそこで、ようやくオーパーツの影響下から離れたことに気が付く。
全身が粟立つ。だが良かった、あのオーパーツの効果は永続ではないらしい。
「いや、ファインプレ—だ。自分では分かってないと思うけど、本当に助かった。ナディーヌのお陰で気が付けた」
最後のは無関心か? これで俺の興味を失わせ、追撃を封じるのか。
……気持ち悪い。これはあれだ、泥酔して起きたら知らない街にいた……みたいな。記憶は何となく残っているけど、なんでそんなことしたのか覚えていないみたいな……そういう感覚に近い。
あの野郎、人の宮廷に堂々とオーパーツ持ち込むんじゃねぇよクソが。
というか俺は今、何を約束した?
――今帝国と戦っているのは全ガーフル貴族ではなく、過激派……あくまで一部の、暴走した主戦派のみ。
……うわ、交戦相手がガーフル共和国からガーフル共和国の一部にすり替わってやがる。
これであの男は、ガーフル人でありながら帝国と過激派の間を取り持てる中立派の立場を取れるようになった。穏健派は安全圏になってしまったのだから。
「ふぁいん……?」
俺は思わず、ナディーヌの頭を撫でる。気づけなかったら、もっと酷い言質を取られていたかもしれない。
一部の過激派の暴走ってことになっても、ガーフル貴族と帝国が交戦していることには変わらない。少なくとも、帝国の戦略を見直す必要のある約束はしないで済んだ。
それでも今の一連の会話、何人もの貴族や外国の使節が聞いてしまっている。今更撤回はできないし、それを分かっててこの場で仕掛けてきたんだろうし。
普通、催眠状態みたいな相手の言葉を言質にするのはおかしいと思うんだけどな。
……そうか、だからロザリアの晩餐会の時はいなかったのか。挨拶しかできないと大したことできないし、初見殺しに近いオーパーツだったから今回まで隠しておきたかったと。
「衛兵っ!」
ともかく、気分は悪いが最悪ではない。講和の際に開戦の責任を追及できる相手が制限された……少なくとも穏健派のステファン・フェルレイの責任は追及できなくなったが、別に今回の戦争でガーフル共和国を滅ぼすつもりはない。許容の範囲内だ。
「はっ」
呼びかけに応じて近づいてくるバルタザールに、俺は試しに命じた。
「奴の後を追え」
「はぁ、必要ですか?」
近衛のトップを任せている男の、気の抜けた声……あんな奴に時間を割く必要があるのかと、ステファン・フェルレイを如何にも軽視しているのが分かるその声色を聞き、俺はため息をついた。
「いや……そうだな。たぶん無駄だ」
バルタザールの位置まで効果範囲だったか。そしてオーパーツの影響を受けていた自覚のないバルタザールには、それが都合よく植え付けられた印象だと判断できない。
「少し疲れた。休憩を挟もう」
それに俺の勘では、ステファン・フェルレイはその足でもう、この宮廷から離れている。
というか、もしかして南方三国の使節に、自分たちの国が帝国相手に戦争を興そうとしているって教えたのもステファン・フェルレイか。
テーブル配置や彼らといた時間的にその線が濃厚。ただその時点での俺はオーパーツの対象にはなっていなそう。
発動したのは外見的特徴に注視したタイミング、挨拶をされたあの瞬間だろうな。
ただ、ステファン・フェルレイの狙いはこれだけか? なんでわざわざそんな言質を取る必要があった……いや、考えるのは後か。
オーパーツ対策の方も真剣に考えないとマズいな……どうすっかなぁ。