新章プロローグ
「陛下、喜んでくれるかな」
一人の少女が、軽やかに駆ける愛馬の上で、大事そうに木箱を抱えていた。まるで大切な人へのプレゼントかのように、絶対に落とさないよう強く抱きしめた少女は、自分より一足先に成人した憧れの主君に思いを馳せる。
彼は喜んでくれるだろうか、驚いてくれるだろうか。もしかしたら、褒めてくれるかもしれない。期待に胸を膨らます少女は、護衛として彼女に付き従う兵たちに問いかける。
「なぁお前たち、どう思う」
少女の問いかけに返事は無かった。ただ後続の馬が駆ける足音だけが響く。それが残念でならない少女は、小さく頬を膨らませて抗議する。
「返事くらいしてくれてもいいじゃないか」
自身の後を付いてくる部下たちに不満を述べるその様子は、年相応のあどけないものだった。
「随分と減ってるし。少し鍛錬が足りないんじゃないか」
自身の護衛である兵たちにそう注文を付ける少女の様は、少なくとも由緒正しき帝国貴族の当主には到底見えなかった。
東方大陸最大の国家はどこかと問われれば、ブングダルト帝国の名が挙がるだろう。ロタール帝国の長い歴史を継いだこの後継国は、その伝統と格式もまた受け継ぎ、大陸における文化の中心地でもあった。
だが、東方大陸最強の国家はどこかと問われた時、帝国の名はまず挙がらなかった。なぜなら帝国は、衰退の歴史を歩みつつあったからだ。
権力を掌握した大貴族による専横が続き、帝国という国家は分断されていた。皇帝の権力は弱まり、幼帝の即位によってそれは決定的なものとなった。そしてお飾りの皇帝のもと、貴族たちは宰相派と摂政派に分かれ、己の利益のために国内で政争を続けていた。
それは周辺国にとって、とても都合のいい状況だった。不安定な帝国の情勢に反比例するように、周辺諸国は平和と安寧を享受した。
放っておいても大国が勝手に内部で争ってくれるのだ。それはもう、笑いが止まらなかっただろうし、枕を高くして眠れるというものだ。
だが傀儡だと思われていた皇帝が大貴族を粛清したことで事態は一変した。愚帝とまで言われていた幼帝は、強兵と言われたラウル公の軍勢をたった一度の会戦で壊滅させ、あっという間に帝国の実権を握ってしまった。さらに味方の敗走により敵地で孤立した際も、そのまま敵中で暴れまわり、要害となる都市を陥落させ悠々と帰還した。
「どんな方かなぁ陛下。肖像画も出回ってないんだもん」
突如として帝国に現れた若き皇帝、カーマイン。そんな彼を、少女は心から尊敬していた。
自分にはない忍耐力と知謀。主君にふさわしいカリスマ性……騎士物語や英雄譚に憧れる少女にとって、カーマインは理想の主君だった。
そんな方にお仕えできるのだからと、この数か月少女は張り切っていたのだ。
……張り切り過ぎていたのだった。
「陛下がご結婚なさるから、相応の手土産を探していたんだけど……ぎりぎりになっちゃった」
少女は、確かにカーマインに憧れていた。だがそれは異性としての憧れではなかった。
正確には、まだ十四歳の……それも恋愛とは無縁な育てられ方をした彼女には、恋というものが何か分からなかったのだ。
だから少女は心から主君の結婚を祝福していたし、そんな相手と初めて会えることを楽しみにしていた。
「でもこの格好でお会いするのはマズいよね。せっかくおめでたい日なんだから、一番上等な服でお会いしないと」
そう言って少女は、着ている騎士服をつまみ上げる。湿ったこの服では、とてもではないが、憧れの人の前には出られない。
「確か新品の騎士服が帝都の屋敷にあるって聞いたけど……トリスタンはちゃんと用意してるかな」
少女はドレスを一着も持っていなかった。というより、生まれてから一度もドレスなど着たことが無かった。それはこの時代の貴族の女性にとって、本来はあり得ないことである。それでも、そのことを気にした様子もなく、少女は馬で駆け続ける。
少女はふと気になり、自分の服に鼻を近づけ匂いを嗅いだ。意識するまで気が付かなかったが、鋭い匂いが鼻をつく。
「汗もかいてるし、血の匂いもする。めでたい日には似つかわしくないな……」
由緒正しきエタエク家の者が、陛下の前で礼を失するわけにはいかない。いくら臣下に「馬鹿」と言われる少女でも、これくらいのことは分かるのである。
少女のそんな、常識的な発言を聞いた男……彼女の護衛である一人はこう思った。そもそもそのプレゼントがおかしいぞ、と。
「お前たち、ボクは念入りに湯あみしたいから先行くよ」
「おま、ち、ください!」
別の護衛が必死に叫んだ。しかしその声は、少女にはよく聞き取れなかった。
「え、なんて?」
「お待ちください!!」
それもそのはず、彼らはかなりの速度で馬を駆けさせ続けているのだ。最大速度ではないとは言え、気軽に会話ができる速度ではない。それどころか、多くの護衛はその身が受ける空気抵抗を避け身を屈める必要があった。少なくとも、少女のように後ろを振り返りながら悠々と会話する余裕はない。
……にもかかわらず、彼女は集団の最前を駆けていた。まるで一切の空気抵抗を受けていないかのように悠々と、護衛の騎馬兵たちの誰よりも速く馬を駆けさせる。
「しかしこのペースでは遅くなってしまう。あまり夜遅くになっては、陛下にご迷惑だろう」
そもそも、本来は晩餐会の夜に皇帝に会うことは叶わないのだが……戦関係のこと以外は箱入り娘同然に育てられた彼女には知る由もないことである。
「今日は無理ですって!」
そんな配下の声はもう届かない。一暴れして上機嫌な少女は愛馬に合図を送ると、彼らにこう言い残した。
「わははは、付いて来たければ付いて来い。これも鍛錬だぞお前たち」
さらに速度を上げた主人に対し、護衛の反応は二種類に分かれた。一つは己の職務を全うする為、必死で付いていこうとする者。もう一つは、早々に諦める者たち……こちらは古参の人間が多かった。彼らは知っているのだ、少女が全力で愛馬を駆けさせれば、誰も追いつくことなどできないということを。
「なんであの人、あんな出鱈目な魔法を使いながら平然としゃべってるんですか」
自分たちはあまりの空気抵抗に顔を上げることすらままならなかったというのに。返事を求められても、無理なものは無理だ。下手したら舌を噛み切ってしまう。
そんな理不尽に対し、少し怒りすら滲ませた若い騎兵に、最古参の護衛の一人が答える。
「聞くな。今更だろう……あの人は騎兵になるために生まれてきたような人だぞ」
空気抵抗すら遮断する防壁、自身どころか騎馬にすら適応できる身体強化。そしてその二つの魔法を同時に使いながら、平然と会話すら楽しめる。それを十四歳の少女が可能としているのだ。末恐ろしいなんてものでは無い。現段階ですら、誰も付いていけないのだから。
実際、一時間と経たずに今必死に付いていっている兵士も振り切られるだろう。本気出した彼女には誰もかなわないのだから。
「てか、結婚祝いに生首って……どういう発想をしたらそうなるんでしょうか」
生首の入った木箱を、「陛下にお見せするんだ」と言って大事そうに抱える十四歳。それがおかしいってことくらい、誰にだって分かる……本人を除いては。
「仕方ないだろう。常識がないのだから」
古参兵はそうあっけらかんと言い切った。さすがは、頭のおかしな集団として伝わる伯爵家に、長年仕えていただけはある。もはや慣れているのだ。
「しかし常識がないから、敵将を討てたのだ」
傀儡だと思われていた皇帝は大貴族を粛清し、内乱は兵力劣勢とみられた皇帝軍が鮮やかな勝利を飾った。さらに敵中で孤立するというピンチも、敵都市の攻略という成果を持って帰還した。
ただ国土が広いだけの弱い国……『瀕死の病人』のはずだった帝国が、若い皇帝の下で強国に生まれ変わろうとしている……そう感じ取った周辺国は、帝国が強国になる前に潰そうと、一斉に動き始めた。
だがその流れに呼応するように、後に英傑と呼ばれる者たちも、この若き皇帝の下へ集い始めていた。
エタエク伯アルメル・ド・セヴェール……まだ十四歳の少女もまた、後に英傑の一人と評される一人である。
「でも初夜だって時にあんなもの陛下にお見せして、無礼で刎ねられたりしませんかね」
「……知らん。その時はフールドラン子爵がきっと何とかしてくれるだろう」
強さと引き換えに常識を捨て去った少女が、ついに皇帝と対面する。