【閑話】バルタザール1
近衛兵……それはロタール帝国時代より続く、伝統的な役職であった。
兵の中でも精鋭中の精鋭が選ばれ、その任務は「皇帝の盾となり死ぬこと」と言われた彼らは、国民から尊敬と畏怖の目で見られた。名誉あるこの職を志す者は後を絶たず、その倍率は果てしなく高かった。
……それらは全て過去の話である。何故なら6代皇帝エドワード3世がこの役職を「金で売った」からだ。悪名高き『売官政策』である。
金を払えば、誰でもこの名誉ある職を名乗れるようになってしまった。それはもう、飛ぶように売れたという。
結果、貴族や商人の「箔付け」の道具と化してしまった。
7代皇帝エドワード4世はこの制度を廃止するも、あまりに多くの人間に売りすぎた。さらにエドワード3世の時代に『近衛兵の任命権』を宰相に握られており(販売はエドワード3世の手で行われた)、エドワード4世はこれを取り戻すことができなかった。
故に現在の近衛兵に、かつての「精強なる近衛」の姿は見る影もない。
だが腐っても近衛。戦えないものばかりでは「護衛」の役割を果たせない。故に数名、実力のある者が任命される。
バルタザール・シュヴィヤールはその一人だった。
平民出身の彼は貴族である上司らから疎んじられ、かつて所属していた部隊からは「貴族に媚びへつらっている」と嘲笑われる。
そんな彼にとっての唯一の癒し。それは行きつけの大衆酒場『グース』へ通うこと……正確にはそこの看板娘に会いに行くことであった。
***
「アイナちゃーん。聞いてくれよぉ」
「飲み過ぎですよバルタザールさん。明日もお仕事なんでしょ」
看板娘アイナ。19歳の彼女は、この辺りでは有名な看板娘だ。平民街でも屈指の美人だと言われている。もっとも、その父親である店主の見た目があまりに恐ろしいことから、客の入りは他の酒場とさほど変わらない。
そしてそんなアイナ嬢にあしらわれた酔っ払い。それがバルタザールである。
「ヒヒッ。そろそろ帰れってさ、近衛さん」
「うるせーぞシュヴァロフ。その呼び方すんな」
その歳24。まだ働き盛りのバルタザールだが、酒場で常連客や看板娘に管を巻く姿は、実年齢よりも老けて見える。
「何が嫌なんだよ。近衛は給料良いって言ってただろ?」
同じテーブルに座る常連客たちにそう聞かれたバルタザールは、顔をしかめながら答える。
「独り身じゃ使わねぇから貯まる一方なんだよ。しかもやってること貴族共の雑用だぞ。反吐が出る」
すると一人が空のジョッキを持ち上げた。
「つまり俺らに1杯くらい恵んでも財布は痛まねぇと! アイナちゃん、お代わり!!」
「おーおーいいさ。奢ってやるよ。アイナちゃん俺にも1杯!」
自棄になったバルタザールの声に、周りの人間たちは「おぉ!」と歓声を上げ、次々に酒を頼む。
「これで最後ですからねー!」
バルタザールから銀貨を受け取りながらそう注意したアイナ嬢は、取った注文を店主に手早く伝える。
その際、店の奥からちらりと見えた店主の目は、明らかに笑っていなかった。
そろそろお暇しなければ、怖い店主が出てくるだろう。妙に冷静な頭の一部がそう考え、バルタザールは溜息をついた。
近衛という貴族社会で今日まで生き残ってきただけのことはある。どんなに酔っていても、思考はある程度まとまるらしい。
「やり甲斐がねぇんだよなぁ、やり甲斐が」
バルタザールがそう独りごちたところで、ちょうど頼んだ酒が運ばれてきた。
「そういえばバルタザールさん、今度のパレード護衛に就くんですって?」
アイナ嬢に聞かれ、彼は「まあな」と答えた。
「それじゃあ、皇帝陛下にもお会いになるんですか!?」
「あぁ、噂の幼帝陛下か。先帝陛下やジャン殿下に似ていると良いな」
飲み仲間の言葉に、バルタザールは思わず顔をしかめた。
「5歳のガキだぞ。生まれながら甘やかされてきた坊やなんざ、ろくでもないに決まってる」
「もう、ダメですよ。そんな言い方したら」
アイナ嬢に「めっ!」と指をさされ、だらしなく口元が緩むバルタザールに、シュヴァロフと呼ぼれた男が引き気味に尋ねる。
「……んで、実際のところ見かける機会ありそうなのかよ?」
「あー。あるんじゃねぇか? 『皇帝馬車』の護衛に入る予定だしよ」
いかにも面倒くさそうな口調のバルタザールは、つまみに出された炒り豆を口に放り込むと、酒をその喉に流し込む。
「それじゃあ、直接お話することもあるかもしれないんですね!! バルタザールさんて、意外に凄いんですねぇ」
アイナ嬢の素直な感想に「意外にって……」と傷ついた表情をした彼は、小さく咳払いをすると言った。
「じゃあ、何か面白いことあったらアイナちゃんに教えてあげるよ」
「ホントですか! やった!!」
「お、いいなそれ。じゃあ次来る時の肴はそれだな」
シュヴァロフの言葉に「お前らに言ってねぇ!!」と怒鳴ったところで、店主が店の奥から姿を見せた。
「他の客に迷惑だ」
元兵士の店主の腕から繰り出されるゲンコツを今日も食らったバルタザールは、残った酒を飲み干すと「また来るよ」と言い残し、店を出た。
その背中は典型的な独身男性の哀愁を漂わせていた。
***
バルタザール・シュヴィヤールは平民の出身である。だがその家系は農民だった訳ではなく、とある子爵家に代々使える従士家系であった。
父が戦死したため代わりに従士として戦場に出たのが15歳の時で、子爵……当時将軍になっていた主に推薦され、単身帝都へとやってきたのが21歳の時。警備隊の一員として、帝都の治安維持に携わってきた彼が、その実力を買われ近衛兵になったのがちょうど今年のことだった。
当初は高給料取りである近衛に満足していたバルタザールだが、一月もすれば嫌気に変わっていた。
貴族から平民であることを見下され、やっかまれ、そのくせ彼らは面倒ごとを押し付けてくる。そんな新しい上司に嫌悪感を抱くのも、無理からぬことであった。
何より、バルタザールの知る「貴族」が戦場で軍勢の指揮を執る「良識的な」貴族であったことも災いした。それと比べて、帝都に巣くう腐敗貴族共の意地汚さと言ったら……
それほど苦痛を感じながらも近衛を辞めずにいるのは、天性の強かさもあるだろう。だがそれ以上に古巣に戻れないというのが大きい。
去年まで在籍していた警備隊の元同僚たちは「近衛に取り入った」バルタザールを本気で嫌悪している。それほどまでに帝都の市民は貴族嫌いな人間が多い。なぜなら……
「先帝と皇太子殿下は、貴族の誰かに殺された……か」
帝都の市民なら誰もが知っている「うわさ」であり、そしてその多くがこれを信じている。
バルタザールもこの説を信じている。さらに言えば二人の大公が怪しいとまで睨んでいる。
「だがあまりに広がりすぎている……誰かが故意に広めているとしか思えねぇな」
おお怖い、と首を竦めたところで、バルタザールは貴族街にある自宅にようやくたどり着いた。
貴族街とはいっても、貴族しか住んでいない訳ではない。
貴族というのは基本的に他の貴族家と距離を置く。無論、中には「親密」と言われる貴族家同士もあるが、世代が替わればこの関係は大いに変わりうる。
故に貴族の家と家の間には、かなりの距離が開いている。この空いている土地に、貴族に仕える者や宮廷に仕える者たちが住む家がある。バルタザールが住んでいる家は正しくこれに当たる。
ようやく着いた我が家……小さいながら庭までついた一人で住むには大きすぎる家の、装飾された扉を彼は開けた。大した家具も置かれていない閑散とした家に、バルタザールは一人で暮らしている。
バルタザールの家系が子爵家に仕えていたように、一つの家に一家代々仕えるのが普通である。故に、貴族街に独身向けの家はない。
バルタザールもメイドの一人でも雇えば良いのだが、「一人が気楽」と言い張り、誰も雇わなかった。
……その癖、人との関わりを欲してわざわざ平民街の酒場まで行くのがバルタザールという男である。無論、自炊などしないためどこかで食事しなければいけないというのもあるのだが。
彼がほろ酔いで入った部屋は、閑散としている他の部屋とは対照的に散らかっていた。むしろこの部屋以外使っていないというのが正しいのだろう。
「あーあ。明日も仕事とかめんどくせぇなぁ」
床に散らばる服を布団代わりにし、寝転がったバルタザールはそう独り言ちた。
「今度ベッドでも買うか……」
多くの平民には、ベッドはとても手の届かないほど高価なものだ。それが買えてしまうくらい、この男は稼いでいた。
***
建国記念式典がある朝も、バルタザールは決められた時間にきっちりと出勤した。いくらやりがいを感じず、モチベーションが上がらなくとも、根は真面目なのである。
だが早朝から機嫌の悪い上司を見たバルタザールは、「いっそ遅れてくればよかった」と後悔した。
「あー。どうなさいました」
バルタザールに声をかけられた男は、彼を見て「フン」と鼻で笑ってから答えた。
「衛士隊の連中が無理やり割り込んできたのだ! 奴ら伝統も知らんのか」
下級貴族である上司の、いつも通り自身を見下した態度に内心イラっとしながらも、気になったバルタザールは聞き返す。
「衛士隊が? ではパレード警護は彼らが?」
衛士隊とは新設されたばかりの部隊だ。ちなみに職務の内容は近衛と全く同じである。
いわゆる「派閥争い」の産物であった。近衛長が宰相派貴族であったため、摂政派が新たに勝手に作った部隊。故に「形骸化」した近衛と比べても粗末としか言いようのない連中である。
(やつらに警備などできないだろ……)
皇帝の警護をめんどくさいと思うバルタザールだったが、それはそれ。やるからにはきっちりとやるつもりだった。
「半分な。あぁ、皇帝の馬車は我々の管轄だ。頑張り給え」
(……ちゃんと陛下と呼べよ豚野郎)
ずんぐりと太った上司を内心罵倒するバルタザール。幼い君主に何かを期待している訳ではないが、それを駒としてしか見ていない貴族は、彼の感性とは相いれない存在だった。
「ふん。分かったらとっとと行け。貴様は貴様で、貴族でない癖に騎士とはな。伝統を何だと思っている」
そんなバルタザールの内心を察知したのか、追い出すようにシッシッと手を振る。
「失礼いたします」
(騎士なんて身分押し付けてきたのは宰相だっつーの)
部屋を辞し、自身の愛馬に向かう彼の内心は大いに荒れていた。
騎士が貴族の身分に含まれる国もあるが、帝国では微妙な扱いを受けている。
これは『売官政策』の影響である。それまで貴族の子弟が名乗っていた「帝国騎士」を、エドワード3世は新たに「官職」として、売りに出したのだ。『売官政策』において最も売れた官職でもある。
その結果、今や傭兵から中堅商人、そして野盗に至るまで、「帝国騎士」を名乗る者は数知れない。
もっとも、バルタザールが任じられたのはそれ以前から存在する「近衛騎士」であり、売る目的で作られた「帝国騎士」とは全く別物なのだが、残念ながら民衆にその差は分からない。
「騎士」という不名誉なレッテルを貼られたのも、バルタザールの嫌気がさす理由の一つであった。だがバルタザールが騎士で無くただの平民であれば、先ほどの上司は口すら利かなかっただろう。それが身分社会というものである。
……バルタザールにとっては口を利かずに済む方が嬉しいのだが。
結局、バルタザールの心が平穏を取り戻したのは、貴族たちが「建国の丘」でのミサを終えた頃であった。
皇帝が専用の馬車に乗り込んだところで、バルタザールも自身の愛馬に跨る。
(それにしてもちっこいな、陛下……あれがこの国の皇帝かよ)
バルタザールは「この国も終わりかもしれない」と密かに思った。実際、平民街に良く出入りするバルタザールは帝都市民の一部から、そんな雰囲気を感じ取っていた。
騎乗したバルタザールは、皇帝の馬車が動き出すとその隣についた。先ほど遠目でしか見ていない子供がどんな容姿なのか、気にならないと言えば嘘になる。とはいえ、皇帝をまじまじと見つめるのはあまりに不敬だ。バルタザールは正面を向いたまま馬を歩かせる。それに、あくまで職務は皇帝の警護である。
(まぁ、本当は必要ないんだろうけどな)
何せ皇帝が乗るこの馬車は、あらゆる防御術式を兼ね備えている。その性能は凄まじく、魔法は勿論、実弾すら弾くと言われている。
この馬車に乗った皇帝を暗殺したいなら、近頃ラウル公領で実用化され始めているという大砲でも持ってこなければならないだろう。
(そんなもの撃ち込まれたら人ひとりでは盾にすらならないが)
そんなことを考えながら、行列は進んでいく。
やがてゼクウェ門が見えてきた。現在は拡張しているが、本来の『帝都カーディナル』はこの「内壁」から先である。故に、建国記念祭の今日は当時を踏襲し「内壁」の外に住む帝都市民もこの中に集まってくる。
門をくぐると、それまでの歓声とは比べものにならないほどの声が上がった。
「「皇帝陛下万歳!!」」
「「我らが希望!! 我らが光!!」」
「うおっと」
あまりの音に、バルタザールの乗る馬が驚く。慌てて宥めるも、少しだけ馬車に近づいてしまった。
「なぜ、彼らは喜んでいる……」
すると呟くような小さな声が聞こえた。男の子の声だった。
(陛下ってこんな声してたんだな……)
バルタザールは初めて皇帝の声を聞いた。それがこんな形で叶うとはと、少しだけ不思議な気持ちになった。
(そーいや皇帝陛下に直接御言葉を賜るのは名誉なんだっけか)
そして自身のような半平民に、そんな機会はまず訪れないことも知っていた。
(ん? でも今のって独り言なのか? ……そうじゃないなら答えても問題ないな)
バルタザールが皇帝に答えようと思ったのは、「酒場で話すネタになるな」という軽い考えであった。アイナ嬢に話した内容を教えてあげれば、きっと喜ぶに違いない。
そもそも5歳の子供が顔を覚えられるとは思えないし、最悪「話しかけられたと思い、答えを返さない方が無礼だと思った」と言えば、不敬罪になることも無いだろう。そう思ったバルタザールは、ゆっくりと馬車に馬をよせた。
(なんで喜んでいる……か。そりゃやっぱりみんな「王様」とかが好きだからじゃねぇか?)
それに「子供」であることも人気の一つかもしれない。緩やかに生活が苦しくなっている市民だが、その矛先を幼い子供に向けるほど落ちぶれた人間は少ない。
だがそれを答えるのもな……と悩んだバルタザールは、口を開く。
「そりゃ陛下に期待してるからですよ。先帝陛下も、陛下のお父上も、民に人気でしたからね」
言った後に、我ながらもう少しマシな答えがあったかも、とバルタザールは後悔した。
幼い皇帝は呆然としたまま小さく「そう……か……」と呟いた。
バルタザールはその時初めて、皇帝の目を見たと言っていい。
金色の瞳は、初め歓喜の色を帯びていた。やはり子供だ。自身に向けられた声だと知って嬉しいらしい。そう思っていた。
だが一度瞑った後、再び開かれた双眸は子供の目とは思えなかった。
(うおっ!?)
それは戦場に向かう兵のような、命を捨てる覚悟をした瞳だった。それも、生半可な覚悟ではない。
かつて仕えた子爵……将軍にまで昇りつめた彼が、決戦を前にこんな目をしていた。
(いや、俺の気のせいか……そうに違いない)
まだ5歳の坊ちゃんが、そんな目をするはずがない。そう自らに言い聞かせるバルタザールに、その皇帝が再び話しかけてきた。
「善きことを教えてくれた。名を何という」
とっさに本名を答えなかったのは、バルタザールの勘が警鐘を鳴らしていたからだ。戦場で敵の罠にはまりつつある、あの感覚。
(すまんシュヴァロフ、名を借りる……そういえばアイツの苗字知らねぇや)
「シュヴァロフ・ル・グースであります、陛下」
先ほどアイナ嬢のことを考えたせいだろうか、とっさに飲み仲間と酒場の名前から偽名を作る。
「そうか、覚えておこう」
幼帝にそう返され、バルタザールは頭を下げるといそいそと馬を馬車から離した。
(うわ、やっべー。話しかけるんじゃなかった)
後悔しても後の祭り。しかし偽名を答えたのだ。話したのが自分だということはバレないだろうし、きっとすぐ忘れるだろう。時間が解決すると思ったバルタザールは、深く考えないことにした。
だがさすがにビビったのか、バルタザールは行きつけの酒場に行っても、この事は話さなかった。
だが既に、彼の命運は決まったと言っていい。
結論から言えばカーマインは、この日のことを生涯忘れなかったのである。
その日、幼帝は自ら国を統べると決意したのだから。