大帝が生まれた日
ある意味、ここまでがプロローグ。
ただ生きた。
――――ただ生きた。
何の面白みもない人生だった。
人より優れたところなど無い、特徴のない人間。特別な生まれでもなければ、格別の不幸も無かった。親に愛され育てられ、学校に通い卒業し、就職して働いた。ただそれだけだった。
叶えたい夢もなく、最愛の人もなく、死ねない理由も死にたくない理由も……死にたい理由も持ち合わせてはいなかった。
だからきっと、そんな前世の最期も、きっとよくある終わり方だったのだろう。
……そんな人生が、本当は嫌だった。
何の才能も何の力もなかったけれど、それでも俺は特別な人間になりたかった。
そしてなれなかった。なるための努力もしなかった。そんな度胸もなく、ただ漠然とした諦めの中で生きていた。
ただ、生きていた。そんな前世だった。
だから俺は、いつ暗殺されるかも分からない今世を、案外楽しめているのかもしれない。
死にたくない。これはひとつの真実だ。人として……いや、生物として、当たり前の生存本能。だから皇帝という「特別」な身分を捨てても構わないと思っている。
けれど……それと同じくらい、こうも思うのだ。
――前世のようなつまらない人生を送るくらいならば、いっそ……
***
嫌な夢を見た。
……正確にはそれほど嫌という訳では無いのだが、少なくとも気分の良いものでは無かった。
目を覚まし身体を起こす。どうやら普段起きる時間より少し早いようだ。
いつもならこういう時、侍女は決まった時間になるまで動かない。
だが今日は都合が良いとばかりに、テキパキと身支度を整えられていく。
それもそのはず。今日は五十年に一度の、国家の一大行事。建国記念祭の日なのだから。
俺はされるがまま、侍女たちに身を任せながら、今日の式典について聞いた話を思い出す。
始まりは今から150年前。後に『祖帝』と呼ばれるブングダルト帝国初代皇帝カーディナルは、この帝都近郊にある「建国の丘」で、滅亡したロタール帝国の遺志を継ぎ「帝国」を再建することを決意したと言われている。
そして彼は皇帝に即位し、自身の領国を隅々まで巡り、民にこれを知らせた。ロタール帝国の永きに渡る平和と安寧を懐かしむ民たちは、この知らせを歓喜の声で迎えたという。
それから50年後、名君で知られる4代皇帝エドワード2世は、大々的に建国記念式典を行った。本来、貴族が通れば頭を下げるように言われる民衆たちも、「歓喜の声で迎えた」とされるこの日だけは、顔を上げて歓声を上げることを許された。
建国から100年後にも同じくこの式典は行われ、今日が建国からちょうど150年後という訳だ。
ようはパレードってことらしい。貴族ってのは「伝統」とかに弱いからね。今日は宰相も式部卿も顔を合わせて、この式典に臨むらしい。
そのまま俺は豪華な馬車に乗せられる。
豪華っていうのは外見だけじゃない。相当強固な防壁魔法が張られている特注品らしい。その上、周囲には護衛の騎兵が大量につく。彼らも今日はパレード仕様なのか、鎧を着てがっつり武装している。
……これ、パレード的に彼らがメインじゃないか? 傀儡の幼帝より。
まぁ、個人的には馬車の中が俺一人っきりなおかげで気楽でいい。久しぶりの一人だ。なんでも許せる。
話によると、この式典用の馬車は皇帝とその妃しか乗れない決まりらしい。婚約者でもいいらしいがな。
ちなみに我が婚約者のロザリアはベルべー王国に帰ったよ。王女なんだから当たり前だ。……下手したらもう会うことは無いかもしれんな……
さて、緊張して乗り込んだは良いものの、民衆たちの前を通るのはもう少し先らしい。まずは「建国の丘」に建てられた教会で祈りを捧げ、パレードはその帰りだそうだ。
そんな訳で今は、馬車の中で気楽に揺られている。
ちょうどいいからベルべー王国について、ロザリアから教えてもらった話をまとめよう。
ベルべー王国はこの大陸の端、帝国から見て北西にある半島に位置する国だ。農作地が少なく、産業は鉱物資源の輸出が主。経済的に帝国に依存しているが、直接国境が接している訳では無い。一言でいえば貧しい小国だ。
だが歴史は古く、建国は新暦163年らしい。今年が新暦460年だから、300年近く続いていることになる。
ちなみに新暦とは、聖一教の「授聖者アイン」がこの大陸に渡ってきた年を「新暦1年」とする暦だ。この大陸のほとんどの国家が聖一教国家である現在、この新暦で数えるのが一般的である。
まぁともかく、ベルべー王国は伝統のある国家であり、しかも今のベルべー王家は初代皇帝カーディナル帝の血を継いでいるらしい。
つまり俺とも遠い親戚というわけだ。
だが小国な上、帝国の従属国という訳でもない。その上、現在は隣国に領土奥深くまで攻め込まれ危機的状況らしい。
はっきり言って関わってもそれほど旨味のある国では無さそうだ。だから宰相や式部卿は静観の構えだったのだろう。
しかし皇帝が婚約すると言ってしまった。そのため宰相たちはベルべー王国と敵対している国家から猛抗議を食らい、色々と大変なようだ。だが傾きつつあるとはいえ、帝国は帝国。国力差に鑑みれば、帝国が戦争に巻き込まれることは無いだろう。
政治に関われない傀儡に分かることはこのくらいだ。
***
建国の丘にある教会は、前に葬儀に出た教会と比べてかなり小さめで質素だったが、その雰囲気が俺は気にいった。帝都の外にあるし、なかなか来ることは叶わないだろうが、また来たくなるような所だった。
さて、教会での祈りも終わり再び馬車に乗り込む。宰相を始めとする貴族たちも各々の馬車に乗り込み、先頭の方は既に出発しているようだ。
この行列はこれから帝都へ入り、宮廷へと向かう。その間、市民たちは顔を上げ、声を上げることを許される。
はっきりと言おう。俺は今、怖気づいている。
市民たちに比べ、かなり裕福な生活をしている自覚がある。そして大貴族たちが政争を繰り返し、政治が停滞した国家の民衆が、豊かな暮らしをしているとは思えない。それを改善すべき皇帝は大貴族たちの言いなりである。
だから民衆には、俺を憎む権利がある。いや、むしろそれが自然なことだろう。
俺はその怒りが、怨恨が、正当なものであると分かっていながら、それが自分に向けられるのが怖いのだ。
市民たちが蜂起すれば、俺は断頭台の露と消えるだろう。それはずっと前から……皇帝として転生したと気づいた時から、覚悟していたことだ。だがその感情を直接ぶつけられることに、言ってしまえばビビっているのだ、俺は。
それでも行列は進んでいく。
前の方から歓声が聞こえる。果たしてそれは彼らが望んだものなのだろうか。歓声を上げるよう、貴族に強制されているのではないのか。
そしてついに、俺の乗る馬車が帝都の門を越えた。
空気が震えるほどの、歓声が聴こえた。
「「皇帝陛下万歳!!」」
「「我らが希望!! 我らが光!!」」
帝都の市民達は、俺に向かってそう叫んでいた。汚れた顔、痩せ細った者、そういった人々が眩しいほどの笑顔で幼君に向けて歓声をあげていた。
「なぜ、彼らは喜んでいる……」
「そりゃ陛下に期待してるからですよ。先帝陛下も、陛下のお父上も、民に人気でしたからね」
護衛の一人が俺の呟きを拾い、答えてくる。
「そう……か……」
俺はしばらく呆然とした後、身体が震え出したのを感じた。
可笑しな事だ。自分たちの生活が苦しいのは皇帝のせいだと、俺に憎しみの目を向けても不思議ではないのに、彼らは無力な皇帝を讃える。
彼らが幼帝に対し、どんな感情を持ち、どんな思いを抱いているのか俺は知らない。
だが前世の俺は、あれほどまで希望に満ちた笑顔を、誰かに向けたことがあっただろうか。
溢れんばかりの民衆……それ自体は前世で見ていたし、その一部だった。しかし彼らの目は、今俺にのみ向けられている。
それは本来、恐ろしいことだ。彼らの目が憎しみや怒りを帯びたら、彼らの歓声が怨嗟の声に変わったら。俺は惨たらしい殺され方をするだろう。
けれどこの震えは、きっと恐怖ではない。
前世では、これ程まで必要とされたことは無かった。
いくらでも替えの利く、平凡だった俺が。
この感情はきっと、人に期待されただけで舞い上がっている、愚かな歓喜だ。
だが……そこに一生をかける価値を、俺は見出した。
国はいつか滅ぶ。人はやがて死ぬ。全ては無駄なことかもしれない。
それでも俺は精一杯、皇帝として生きていこう。
地をも揺るがす歓声の中、俺は一人、そう誓った。
【設定補足(いわゆる蛇足)】
本来、侍女は「後宮」で世話をする係で、男性の家令等が世話するのは皇帝の仕事場である「宮廷」です。つまり夜~朝は侍女が、昼は家令や侍従・従者が世話をします。この「後宮」で生活できる男性は、皇帝と10歳未満の皇子のみと決まっています。
しかしカーマインは後宮で生活するべき年齢でありながら、宮廷で執り行う皇帝としての仕事が(形式上は)あり、さらに年齢的にも立場的にも後宮に自由に出入りできる状態です。そのため、侍女が「どこまで世話するのか」「カーマインの居住区を宮廷と呼ぶか後宮と呼ぶか」は二転三転しています。「前日までの政争の結果で変わる」とも。
あとカーマインは「建国の丘」が城壁の外にある為「帝都の外」だと思っていますが、これは人によって考えが異なります。『帝都カーディナル』は成立から物語の時代まで拡張を続けており、最初の城壁とは別に、新たに築かれた(正確には今も建設中)外側の城壁も存在します。本編で通ったのは内側の城壁です。
つまりカーマインは、未だ帝都の正確な形状すら知りません。