第五話 壊れた歯車
難しいよね><
「おい、お前。何してんの?」
一人の気の強そうな女が若菜さんにきつい口調で声をかける。彼女の名前は赤松キリ。髪を赤く染めており、相手を威圧するかのような見た目をした彼女はクラスの女子の中でも特に攻撃的で、彼女に逆らえる者はこの場には誰一人としていない。それに呼応する形で彼女の連れの女たちが何人かぞろぞろと集まってきた。
「なになに~!? いいもの持ってんじゃんかよぉ!!」
「あはは!! ねえ、うちらお弁当忘れちゃってさ~。良かったらその弁当くれない?」
こいつらは若菜さんに対して毎日毎日飽きもせず嫌がらせを続けてきた奴らだ。他のみんなは誰もこちらに目を向けず、自分は関係ないと言わんばかりに各々の昼休みを満喫していた。僕は気になって若菜さんのほうをちらりと確認する。若菜さんは下を向いたまま微動だにせず、顔を確認することはできなかった。赤松は若菜さんの弁当を強引に奪うと、一瞬にやりと笑ってわざとらしく弁当を床に落とす。中に入っていた具材はすべてひっくり返り、とても食べられる状態ではなくなってしまった。すると周りにいた女たちは、
「ぎゃははは!! 弁当落ちちゃったね~! ほら、床に落ちたもの犬みたいに食べてみろよ」
と囃し立てる。その様子を見て胸が痛んだ。同時に怒りがこみ上げてくる……。でも僕は自分の人生を変えるためにここに来たんだ。ここで口を出すわけにはいかない。僕は心の中で感じる怒りを何とか押し殺しながら心の中で何度も若菜さんに謝り続けた。過去の自分と対比して、今の、心の中でしか謝ることのできない自分がとても醜い存在に感じられた。
すると突然若菜さんが音もなくゆっくりと立ち上がる。若菜さんがお人好しで自分から何かを起こそうとするタイプではないためか、周りにいた女たちが急に静かになる。独特の緊張感に包まれ、僕は息が詰まりそうになる。
……若菜さんは泣いていた。
彼女は赤松を鋭い目で睨みつけ、途端に教室から走って出て行ってしまった。僕は若菜さんのあんなに切羽詰まったような表情は見たことがなかったため離れて見ていただけでかなり緊張した。赤松は蛇に睨まれた蛙のようにその場に立ち尽くしていたが、ふと我に返ったように
「ちっ。詰まんねーの」
と吐き捨てると、近くにいた連れと共に教室から出て行った。僕は泣いた若菜さんの顔が忘れられず、妙な胸騒ぎを感じながらその後の授業に臨んだ。
その後は特に何事もなく時間が過ぎていった。不思議なことに他の生徒はおろか先生でさえも若菜さんのことについて触れようとする者はいなかった。
学校の帰り道を久しぶりに平和に帰ることができている。普段の僕であれば今頃誰かに絡まれているところなので、こんなに早い時間に何事もなく帰ることができて嬉しく思った。ただ、どうしても頭の隅で若菜さんのことが引っ掛かり続けている。この小さな日常の綻びがやがて大きな変化を生む原因になり得ることを僕は知っているからだ。
* * *
(もうこんな時間か……)
この日は他に何かをする気力が起きず、ベッドの上でだらだらと過ごした。僕は改めて今日起きた出来事を思い返してみることにした。突然別の世界に飛ばされたと思いきや、新しく人生をやり直すことになるなんて……。こんな濃い時間を過ごした記憶はなかった。そして明日からは今までにない生活が始まろうとしており、少し興奮している。やっと平穏な日々を過ごしていけるのではないかという期待に胸を膨らませた。おそらく生まれて初めて早く明日が来てほしいと思ったのではないだろうか。
ただ一つ、若菜さんのとった行動に関してはまだモヤが晴れないでいた。何より、彼女が最後に見せた並々ならぬ決意に満ち溢れた表情がくっきりと目に焼き付いていた。
(明日、若菜さんは学校に来るんだろうか? できればこれ以上状況が悪化してほしくない。だって、これでもし若菜さんの身に何かが起きてしまったら、まるで僕が若菜さんを追い込んでしまったみたいじゃないか……)
以前僕が若菜さんを助けた時は若菜さんは学校には来なくなってしまったものの、嫌がらせの標的が僕に変わったこと以外は特に目立った変化はなかった(最もこれは僕にとっては大きすぎる変化だったわけだが)。それが、僕が黙って見過ごしたことにより別の何かが狂ってしまうようなことがあれば、それは僕の責任でもあるといえるだろう。
(……だめだだめだ! せっかく人生をやり直すチャンスじゃないか! 不安に怯えていた過去の自分とはもう決別したんだ!)
どうにか暗い妄想を頭から消そうと目を瞑っているうちに、意識は途切れた。
* * *
目覚まし時計のうるさい音に無理矢理起こされた。心底機嫌悪そうに音を止め、時間を確認した僕はその時刻に驚いて飛び起きた。時計の針が4時00分ちょうどを指していたのだ。
(おかしい。いくらなんでも早すぎる……)
昨日目覚まし時計の設定をいじった記憶もない。僕は不思議に思ったが、心当たりがない以上考えても仕方がなかった。学校まで後数時間はある。とはいえ、一度目が覚めた後再び寝るのは好きじゃない。たまには早く起きて散歩にでも出かけてみるのも悪くないかと思い立ち部屋を出ようとしたその時、突然スマートフォンが鳴り出した。こんな時間に何だ? と画面に目を移した時、思わずゾッとしてしまった。そこには“矢井田若菜”と表示されていたのだ。わざわざこんな時間に、それもまるで僕が目覚めたことを知っているかのようなドンピシャのタイミングだっただけに余計に警戒してしまうのだが、出ないわけにもいかないので恐る恐る電話に出ることにした。
「……もしもし。若菜さん……?」
わずかに声を震わせながら相手の出方を窺うのだが、一向に声は聞こえてこなかった。しばらく二人の間で沈黙が続いた後、間違い電話かと思い電話を切ろうとしたその時、弱々しく今にも消えてしまいそうな声で、
「……学校で待ってます」
と聞こえてきた。慌てて言葉を返そうとした僕だったが、その前に勝手に切られてしまった。声から察するに若菜さん本人からの電話であったと理解した。