Time Is Like A River
「目を覚ましたかい?」
不意に声が聞こえて、僕は閉じていた目をゆっくりと開いた。
僕の目の前で、珈琲を飲んでいた女性が、柔らかくほほ笑んでいた。
気がつくと、僕はテントの中にいた。頭上では、大粒の雨が絶え間無くテントの屋根を叩いていた。黄色く覆われた布の中には、天井からぶら下がった洋燈と、銀色に輝くパーコレーターがあるのみだった。テントの中央で、グツグツと煮え立つパーコレーターの煙の向こうに、見知らぬ女性の顔があった。
僕はその女性に注目する前に、珈琲の香りを漂わせる銀色のパーコレーターを凝視した。パーコレーターとは、キャンプなどで珈琲を淹れるために使うヤカンのようなものだ。通常はパーコレーターを直火で熱するのだが……テントの中には、ガスコンロも電気コンロもなかった。代わりに床には、いかにも子供がクレヨンで書いたような、火の『絵』が描かれた紙が置いてある。そしてその上にあるパーコレーターが、白い煙を漂わせ、熱く煮え滾っていた。
僕は眉をひそめて、再び目の前の女性に焦点を合わせた。その女性は、夏だと言うのに登山着のようなものをたくさん着込んでいて、頭には白いニット帽を被っていた。僕は首をかしげた。
「あなたは?」
「ちょうど、ここでキャンプをしていてね。ボクがもう寝ようとしていた時に、たまたま君が流されて行くのが見えたんだよ。君は運が良かった」
僕が目の前の人物を女性と判断したのは、その整った顔立ちと、ニット帽の下から伸びる長い髪の毛の為だった。しかし薄暗い洋燈の灯りを頼りに目を凝らすと、なるほど男性と言われても違和感はない。同い年のようにも見えるし、年上にも年下にも見える。要するに何も分からなかった。その正体不明の謎の人物は、自らを『ハリ』と名乗った。
「ハリ?」
「そう。時計の長針とかの、針。尤も、僕は短針の方なんだけどね」
何が尤もなのか、笑いのポイントがイマイチ良く分からないが、とにかくそう言ってハリは笑った。
「流されて、って……」
「君は、溺れていたんだよ。最悪の時の流れの中でね」
ハリは口元に笑みを携えたまま、美味しそうに珈琲を啜った。僕はその匂いに擽られ、どうにも鼻の奥がむず痒くなってしまった。
「ここは……」
「ここは、時の流れとは少し離れた場所。流れ疲れたモノたちの休憩地点」
「夢か、空想の世界ですか?」
雨音は相変わらずで、止む気配もなかった。僕は思いついたことをそのまま言ってみた。火がないパーコレーターといい、ハリの言い草といい、ここはどうも妙なことが多すぎる。もしかしたら自分は夢の中にいるんじゃないかと思ったのだ。ハリは表情を変えないまま、否定も肯定もしなかった。ただ優雅に珈琲を啜り、その間、僕は黙ってハリを見つめていた。テントの外では、激しい雨が休む暇もないほど降り続いていた。
「あぁ、ほら」
「え?」
すると、不意にハリが僕の方に右手を伸ばしてきた。ハリは僕のシャツの胸ポケットに手を突っ込むと、そこから一枚の紙を取り出して見せた。僕は目を丸くした。Tシャツの胸ポケットには、何にも入れた記憶がなかったからだ。
「あった。良かったね、どうやら助かるかもしれないよ」
「それ、何ですか?」
「何って、『絵』だよ。君が昔、描いたんだろう?」
ハリは笑って僕に取り出した紙を広げて見せた。そこには、クレヨンで飛行機の絵が描かれていた。
「僕が?」
僕はぽかんと口を開けた。へったくそな線で描かれたその絵を、あいにく僕は覚えていなかった。ハリは取り出した絵をポンポンと左手で二回叩いた。すると、絵の中から小さな飛行機が飛び出してきて、黄色いテントの中をぐるぐると回り始めた。
「その飛行機について行くといい。川は流れが早いから、気をつけて」
「川?」
「時の流れの川だよ」
ハリが珈琲を啜りながら笑った。僕はまだ、夢でも見ているような気分だった。
「ついて行くって、どこに?」
「君の行きたいところだよ。過去でも、未来でも、現在でも」
僕の頭の上を飛び回っていた飛行機が、テントの出口へと近づいた。すると、出口が一人でに開き、向こうから大雨の景色が飛び込んできた。振り返ると、跳ねた水しぶきが顔にかかって、僕は思わず目を閉じた。
「さぁ、行ってらっしゃい。君みたいな人間が、もうこんなところに来てはいけないよ」
いつの間にかそばに近づいていたハリが、僕の耳元でそっと囁いた。
「それと、川には人食いザメもいるから、気をつけて」
「え? え??」
「じゃあね〜」
ハリが最後に陽気な声を上げた。次の瞬間、僕の体は引っ張られるようにテントの外に飛び出した。滝のような雨が、たちまち僕の全身を包み込む。まるで水の中にでもいるような感じだった。テントの入り口が、再び一人でに閉じて行く。必死に辺りに目を凝らすと、先ほどの飛行機が、機体を赤く光らせているのが微かに見えた。飛行機は僕を急かすように、ぐるぐると前方を飛び回っていた。
大雨の中を、僕は飛行機の光を頼りに、ゆっくりと歩き始めた。