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戀・端譚 『 空の子供 』

作者: 月

「ひどい有り様だ……」

 荘厳華麗な宮殿が立ち並んでいたその辺り。かろうじて残る基礎石に崩れ落ちた壁と焼け焦げた柱。破壊し尽くされたその様を改めて眺め、思わず協はそう漏らした。

 我が祖が打ち立て、四百年もの長きに渡り連綿と受け継がれて来た王朝は、この瓦礫の宮のようにその終わりを迎えようとしているのか。

 やはり朕が最後の天子かもしれぬ……。

 沸き出ずる不安を打ち消すように、協は小さく首を振った。

 なんの。宮殿はまた建て直せば良い。廃墟となったこの街も、天子が戻れば都だ。きっとまた蘇る。いや、蘇らせねば。

 ともすれば萎えそうになる心を自ら奮い立たせ、協は止めていた歩みを先へと踏み出した。

「陛下。この先も同じように、ただ瓦礫が転がり御脚おみあしけがすばかり」

 もうこれくらいで戻ろうと、付き従う董承が協を止めた。

 どうしてもこの目で確かめたくて無理を言って出て来たのだ。そんな言葉くらいでとどまるつもりはない。協はそれには(こた)えず、つかつかと脚を進めた。

 かつて暮らした宮殿には、それを懐かしむ面影さえ残っていない。協の傍らには、それを語り合う女官や宦官さえ、もう無かった。

 ふと瓦礫の中に小さな影を見た気がして、協は足を止めた。

「いかがなさいました?」

 後ろに従っていた董承が、(いぶか)しげに尋ねた。

「子供だ。このようなところでいかがしたのであろう」

 一瞬、野犬でもいるのかと目を凝らしたが、どうやら人の子であることが解って、協は小さく安堵する。

 が、そんな自分を少し可笑おかしくも思った。

 人も死に絶えようというこの廃都に、うろつく犬や猫の(たぐい)があるはずもない。そんな物があったらなら、とっくに誰ぞの胃袋に納まっていよう。

 一年余りも放浪し、辛酸を()めて来た協は、およそ天子らしからぬことを思い苦笑する。

 腹が減れば天子も乞食もない。餓えれば、犬も馬も、同輩の肉でさえ人は食べるのだ。

 権力を握った董卓に拉致されるように旧都長安へ移り、その死後を受け継いだ彼の子飼い達の争いから脱し、追撃され敗走しながらこの雒陽(らくよう)へと歩んだ日々は、自らが治めるこの国の疲弊を、民の貧しさを、身をもって()った旅でもあった。

 協の視線を追った董承が、はっとしたように息を呑んだ。

「あのような身分卑しき者は陛下のお目汚し。下がらせましょう」

「場違いな(ところ)におるのは朕のほうではないか。それにほれ、逃げて行ってしまった」

 協は残念に思いながら、瓦礫の(かげ)に消えた小さな背を見送る。

「いくつくらいの子かな? 伏寿と同じくらいだろうか」

「皇后陛下と並び立てるなど、恐れ多いことにございます」

「歳の話ではないか。そう堅く申すな」

 協は幾分気分を害し、歩みを再開した。

「既知の者か?」

「は?」

「先程の子供のことだ」

「とんでもございません」

「そうか。知らぬ者の身分をそのようにな」

「天子を御前に、身分卑しからぬ者などおりますまい」

 そう返し、深々と頭を垂れる男に、協はしばし視線を落とした。

 食えぬ男だ。

 内心思う。

 彼は、協を育てた祖母、董太后の遠縁と名乗った。長安を脱した協のもとに駆け付け、以来忠節を尽くして仕えてくれてはいるが、彼の全てを鵜呑みにして良いものなのかどうか、その真意を協は計りかねていた。

 漢王朝は帝の外戚が何かと権力を握り、一番信を置けるべき親族が災いの種となる歴史を繰り返して来た。それゆえ、つい穿(うが)って見てしまう己も嫌なものだが、彼が率いて来たのが亡き董卓の部曲(私兵)であったことも、協は気に掛かっていた。

 そして、戦に大敗し、命からがら渡河した際に見せた、この男の残忍さ。

 敵はすぐそこまで迫り、切羽詰まった状況であったとはいえ、すがりつく者達を斬り捨て、(へり)にかけられた指を片端から薙ぎ払い、彼は対岸へと舟を進めた。

 全ては協を(まも)るためだったのは解る。忠義だと言われれば、やはりそうなのだろう。

 だが、協の耳に届いた悲鳴と怨嗟の声は、今も記憶の中に生々しく響いていた。

 それでも、今はひとりでも多くの味方が欲しかった。

 頼みとしていた楊奉も、彼の旧知だという盗賊の頭目達も、次々と協の(そば)を離れて行った。

 少々荒っぽいが、おもしろき者達であったのに。

 礼節をわきまえぬ振る舞いに眉をひそめた事もある。それでも、あの頃の賑わいだ空気が今では懐かしかった。

「陽も傾いて参りました。お危のうございますれば、どうか殿舎に」

 時とともに深みを増して行く陰影は、いつの間にか足元を長く覆っていた。

 再び(うなが)された帰殿に、仕方なく協はその(きびす)を返した。


「おお、やはりおった。昨日の子供であろう?」

 協が瓦礫の中を(のぞ)き込むと、少年は小さく(からだ)を丸めた。

 近付く気配に身を隠していたのだろう。華奢な肩先が(おび)えていた。

「怖がらずとも良い。昨日はあのように騒がせてすまなかった。今日は朕ひとりだ。そなたに逢いとうて抜け出して来たのだよ」

 協の言葉に、ようやく少年は(かお)を上げた。

 吸い込まれそうだな。

 向けられた瞳に協は思う。

 小さく少年が口を開いた。

 その端正な貌を少ししかめる。

 愛らしい口元が切れて、頬が青黒く染まっていた。

「誰ぞに殴られたのか? ひどいことをする」

 思わず差し出した協の指を避けるように、少年は貌を背けた。

 まっしろなうなじが、折れそうに協には映った。

「そなた、ここで何をしておる。さほど身分卑しき様子には見えぬが、誰ぞ朝臣の子か?」

 少年が応えぬので、協は(かたわ)らに腰を降ろし、両膝を抱えた。

「朕はな、そなたがこの廃墟の宮殿におったゆえ、朕と同じように在りし日の都を懐かしんでおるのかと思うたのだ。朕の周りには昔話をする者もおらぬ。このような様に成り果てようと、雒陽は朕の故郷だ。この宮が朕の過ごした場所だ。懐かしうてならぬ」

 協は膝に顔を埋め、泣いた。

 幼くして帝として祭り上げられ、歳より背伸びするようにして務めて来たが、協はかぞえでようよう十六だった。時には心細く思うことも、泣きたい時もある。

 だが、すがりついて泣く胸は天子にはなく、心から頼れる臣さえない。

 やっとの思いで雒陽までたどり着いたというのに、この荒れようは協の心を打ちのめした。

 臣下の前で己の弱さは(こぼ)せない。瓦礫の中でただ独り、膝を抱えて泣くことしか許されぬ。天子とは、なんと孤独なのだろうと協は思った。

 そこに、そっと小さな手が添えられた。

 少年は黙ったまま、ただ静かに協に寄り添っていた。

「うん。泣いているだけでは何も始まらぬな」

 ようやく顔を上げ、照れ隠しに笑ってみせる。協の頬に残る涙に、細い指がそっと触れた。

「冷たい手をしてるなあ」

 餓えているのだと、やつれた頬に思い至る。満足に食べることが出来ぬから、まだ夏の名残を留めるこの季節にさえ、躰が冷えているのだと。

 協は少年の手を掌に包み込むと、息を吹きかけそれをさすった。

「すまぬな。朕にはこんなことしかしてやれぬ。大勢の者達が餓え、毎日死んで行くというのに、たすけてやることが出来ぬ。雒陽を再建するどころか、明日の(かて)のあてさえない。なんと無力なのだろう……」

 瞳から再び涙が溢れた。

 そんな協に少年が空を指し示す。

「なんだ? 空に何かあるというのか?」

 涙を拭いながら指の先を追った協は、はっとしてそれを見つめた。

「光だ。そなたの示す先から強い光が射している。確かに朕にも見えた気がするぞ」

 こくりと傍らで少年が(うなず)く。

「誰ぞ、強い光を持った者が来るのだな。その者は、真に朕の味方であろうか?」

 協は答えを待って、じっと少年を見つめた。

 その黒燿(こくよう)は濡れたように(きら)めき、己の姿を映していた。

「そうか。それを見定めるのが朕なのだな。この廃墟に真っ先に駆け付けて来る者は、真の忠義者か、最も帝位に野心を抱く者かのどちらかだな」

 恐ろしいと思った。

 どちらにしても、あれだけの光をまとう者を側に置けば、自らは霞んでしまうかもしれない。

 だけれども……。

 協は、傍らの少年の細い肩へと視線を落とした。

 急がねば、この子もやがて餓えて死ぬだろう。自分に仕える者達も、后も、ただ順を追って死を待つだけだった。

「そなた、名はなんと言うのだ? せめてそれくらい教えてくれぬか」

 協の問い掛けに、少年は(わず)かに唇を動かし、小さくかぶりを振った。

「もしや、口がきけぬのか?」

 先程からこの子が(こた)えぬわけを、ようやく協は()った。

 少年は、ただ恥じ入るように差し(うつむ)いていた。

「……そなた」

 協が口を開き掛けた時、少年の肩がぴくりと揺れた。

 何かを確かめるように首を巡らせたかと思うと、瓦礫の陰へと身を隠す。

「何を……」

 驚いて問う協の耳に、誰かの声が届いた気がした。

「誰ぞ来たのだな」

 また殴られでもするのだろうか。少年はカタカタと震えながら、小さく躰を丸めていた。

「大丈夫だ。朕が遠ざけてやるゆえそこに隠れておれ。朕は劉協だ。また逢えることを願っているぞ」

 にこりと協は笑顔を残し、すらりと立ち上がった。


「朕はここだ」

 瓦礫の中から現れた協に、董承はぎょっとしたように足を止めた。

「や、これは陛下」

「その驚きよう。朕を捜しに参ったのではないのか」

「お姿が見えずに案じておりました。思いも掛けぬ所からお出ましになりましたゆえ」

 付き従う者達を控えさせたその視線は、協の現れた瓦礫の奥をたどっていた。

「思いも掛けぬとな? おらぬと思って捜しに来る者もあるまいに」

「は」

 頭を垂れるその前を通り抜ける。

「戻る。供致せ」

 謹んで受けるその心がまだ瓦礫の奥に残っているのを感じ取りながら、協は楊安殿へと(くつ)を進めた。

 その仮初(かりそ)めの殿舎で、協はやがてひとりの男を迎える。

 光が示した先から雒陽へやって来たのは、曹操と()う男だった。



「司空は今日も来ぬのか」

 儀礼通りの執務がひととおり終わったところで、協はそう尚書令に声を掛けた。

 突然の言葉に、彼はただ拝を持って控えた。応えて良いものか、計りかねているのだろう。

「陛下。曹司空におかれましては、何分ご多忙にございますれば」

 その場を執り成すように、董承が口を挟んだ。

「多忙とな?」

 協は内心で、ふんと鼻を鳴らした。

 司空が参内しなくなったのは誰のせいだ。

 その冠に視線を投げる。

 彼が多忙なのは協とて承知している。この地が都として整うまではと、協も途切れる参内を(とが)めはしなかった。

 それでも、必要最小限顔を見せていた彼が、ぱったりと来なくなったのには、それなりの理由があるのだ。

「そちは、朕の意に先んずる事柄が、それほど多いと考えておるのか」

「滅相もございません。天子のご意向に勝るものがございましょうか」

「そういうことだ。儀礼が(わずら)わしいならかまわぬ。私的に参れと司空に申せ」

 公的にではなく、私的に招く。

 周囲が思わず儀礼を失念し、視線を上げるほどの型破りな物言いに、尚書令は困惑を浮かべながらも律儀に礼を取った。

 思案顔の能臣に、あらかたの策が成ったことを思い、協は内心にんまりと笑うのだった。


 廃墟の雒陽で接見した曹操は、その地の荒れように、自らの領地へ協を迎えることを提案した。

 雒陽こそ我が故郷と、都としての再建を夢見ていた協は、理屈ではその必要性を理解しながらも、遷都には反対だった。

 どうかこの地を都と定め、再建して欲しい。

 異例ともいえる天子の懇願に、論理整然と許への遷都を説いたその冷たい印象から一転、男は快く雒陽の再建を請け負った。

 だが、それには時間が必要だと彼は続けた。

 許は、あくまでも仮の都にございます。

 その言葉で、ようやく協は所替えを決意した。

 もしかしたらそれは、一種の懐柔だったのかもしれない。

 もう雒陽を都として暮らす日は、来ないのかもしれない。

 そう思いながらも、協は生まれ故郷を離れるしかなかった。

 荒れ果てた雒陽での暮らしは苦しいものだった。それに疲れ果てた周りの者達が、豊かな地への遷都を切望していたのも、協は良く解っていたのだ。

 朕のわがままで皆を苦しめてはならぬ。

 協は詔を発し、輿に乗り込んだ。

 しかし、住めば都とは良く言ったもので、許という若々しいこの街は、協には大変好ましい場所だった。

 協が長らく失っていた天子としての暮らしは全て周りに整えられ、食べるものにさえ事欠いた日々が嘘のような安らぎがそこには在った。

 ただひとつ不満に感じていたのは、曹操と謂う男が思うように協の傍らに(はべ)らないことだった。

 協は彼と語り合う時間が欲しかった。

 彼は、天に一瞬見た光の如く、協には眩しいとさえ感じるほどの男だった。

 英雄と呼ばれるのはこういう者なのだろう。

 初見に協は思った。

 その時から協は、彼に深い関心を(いだ)いていた。

 自らを迎え入れた曹操に対し、協は当然のように高い位を授けた。大将軍という、押しも押されもせぬ官職を与えられても、別段彼は喜ばなかった。それどころか、あっさりとそれを別の者に譲ってしまい、自らはその下の官職でかまわないという。

 変わった男だと協は思った。

 協の周りに集まるのは、天子を手中に権勢を(はか)る者ばかりだった。協を御位(みくらい)()けた董卓も自らを太師と定めたし、その跡を受けた李(かく)も郭汜も官位や爵位を協に求めた。

 彼らの(もと)から脱し、大地をさ迷うようになってからは、その官職が臣に下せる唯一のモノとなった。

 食料を供した者に大司農の位を与え、兵を持って駆けつけた者に将軍の称号を授ける。

 協の側から人が離れるたびに、任官者もまた入れ替わった。

 言い換えればそれは、唯一協に残された天子としての権威であった。

 たとえ御輛くるまを失い、徒歩かちで大地を行こうとも、臣に官職を与えることが出来るのは天子である協だけなのだ。

 曹操が大将軍という位にさしたる執着を見せなかったことは、協に小さな失望を感じさせた。



 その招きに応じ、ようやく宮殿を訪れた曹操を、協は満面の笑みで迎えた。

「おお司空。久しいの。息災であったか」

「御天顔麗しく、何よりでございます」

「うん。久々にそちに逢えて朕は嬉しい。今日は煩わしい儀礼は抜きだ。参れ」

 協は先に立ち、奥庭へと彼を導いた。

「司空府の庭にも花はあろうが、たまには他所で眺めるのも悪くはあるまい。花の盛りを逃しとうのうて、無理を言うて来てもらったのだ」

 周りに無理を言ったとの自覚がある協は、少し茶目を含んでそんな言葉を口にした。

 言い訳めいたその真意が解ったのだろう。曹操は苦笑を含んだ表情を小さく浮かべた。

「短き花の命に(はや)るお気持ちも無理からぬこととは存じますが、臣下を困らせるやり方は感心出来かねますな」

「そうは申しても、こうでもせねば司空は来てくれぬではないか」

 協は小さく口を尖らせる。

 小さな子供のようなそれに、思わずといった様子で彼が微苦笑を漏らした。

 幼いころから御位にあることで、無理も我慢もして来た協は、時折誰かに甘えてみたい衝動に駆られる。曹操が子供じみたそれを咎めずに笑ってくれたことが、協には嬉しくてならなかった。

「司空よ。この間のことはすまなかった。もうあのようなことはさせぬ。だから、時折には顔を見せてくれ」

 許へと移った協を奉じ、三公と呼ばれる高位に就いてからも、この男は忙しく戦場を駆け回った。

 出陣前の挨拶に訪れた彼を、朝廷は兵を配し、その首に(ほこ)を突き付けて迎えた。軍装する三公に対する古くからのしきたりなのだと、側に仕える者から()らされた。

 さすがの曹操も胆の冷える思いがしただろう。それ以来、いっさいの参内を拒むようになった。

「陛下。御位にある方が、そのように軽々しく頭を下げてはなりませぬ。儀礼は儀礼でございましょう」

「あのような儀礼が我が王朝にあることさえ知らなかったのだ。その無知も朕は恥じておる」

 素直に気持ちを述べる協に、僅かに彼が瞳を細めた。

 これで考え直してもらえるだろうか。

 その表情に、協は期待してしまう。

「それで、本日は端午節の(うたげ)のご相談とか。劉皇叔もおいでとなれば、下手なものはお目に掛けられませぬな」

 返って来た言葉に、協はぷうと頬を膨らませた。

「またそのように申す。司空はずいぶんと意地悪だ」

 立場もわきまえずに()ねる協に、彼はとうとう笑い出した。

「これは失礼致しました。これで相子にしてくだされ」

「アイコとな? そうか。では、先だってのことは水に流してくれるのだな」

 ぱっと顔が輝くのが自分でも解った。

「儀礼は儀礼だと申し上げました。それが定まり事なれば致し方のないこと。廃することもありませぬ。ただし、出陣前のご挨拶は、今後も遠慮させていただきますぞ」

「それ以外なら参内してくれると申すのだな。ならばかまわぬ。今後は朕が見送りに参ろう」

 にこにこと協は笑みを零した。

「これでひとつ心が晴れた。もうひとつ、心に掛かることがあるのだ。司空よ、聞いてはくれまいか」

「なんなりと」

 その応えを受けた協は、思いを巡らせながらぶらぶらと歩みを進めた。

「良い季節になった」

 咲き誇る花々に足を止め、(つぶや)く。

 何も言わずに後ろに従って来た曹操も、盛りと華やぐ草花に顔を向け、愛でるようにそれらを眺めた。

「朕はな、ずっとそなたに()きたいと思っていたことがあるのだ」

 花を見つめる横顔に協が切り出した。

 彼の視線が転じる。

「なんでございましょう」

「うん。司空よ、そなたのもとに楽上手の少年がいるそうだが、それは、口のきけぬ子供ではないか?」

「は?」

 思いも掛けない内容だったのだろう。

 思わず、という素振りで彼は問い返した。

「変なことを訊くと思っておろう。朕はな、ずっと逢いたいと思っている者があるのだ。それが……。(うま)く言えぬな。順を追って話すゆえ、聞いてたも」


「朕が長安で李傕のもとに捕らわれておった時にな、その(やしき)でそれは良い楽の音を聴いたのだ。李傕と郭汜の(いさか)いで市中は戦場と化し、明日はどうなと判らぬ日々に、朕にはそれだけが(なぐさ)めだった。時折聴こえるその楽のぬしが知りたくて、周りの者に尋ねたが、定かなことは判らなかった。まもなく朕は北塢に移され、それきりとなってしまった」

「それからしばらくのち、長安を脱し、長い旅の果てにようやくたどり着いた雒陽の瓦礫の宮で、朕はひとりの少年に()った。年の頃は朕より少し下であろうか。零れ落ちそうな黒曜の瞳の、例えるなら花のような子供だった」

「まだ司空の来てくれる前のことだ。楊奉も梁へと下がって心細く、餓えて毎日人が倒れた。朕はどうして良いか解らずに、己の非力を嘆くばかりだった。少年はそっと寄り添って、そんな朕を慰めてくれた。その時の朕の気持が解るだろうか。あれほど安らいだ思いは、この位に即いて久しくなかった」

 協はその時のことを思い起こし、束の間瞳を閉じた。

「李傕のもとで聴いた楽の主は結局判らなかったが、年かさの女官がこんな話をしてくれた。かの董卓が在りしころ、ひとりの美しい童を寵愛していた。その子は口がきけなかったが、楽上手で知られていたと。廃墟の雒陽で逢ったその子も、物言わぬ子供だったのだよ。どうだ司空。その子供に心当たりはないだろうか?」

 問い掛ける協の瞳を、彼は儀礼を忘れたようにしばし見つめていた。

「司空?」

「いや、これは。あまりに突然なお話で……」

 少し狼狽した様子で、その視線を逸らす。

「そなた、何か知っておるのであろう? 朕はその子に逢いたくて、次の日も殿舎を抜け出し瓦礫の中を捜して廻った。けれども、とうとうそれきり、その子に逢うことは叶わなかった。頼む司空。何か知っておるなら教えてたも。そうだ、一度そちのもとにいる子供に会わせてはくれまいか。人違いであれ、ひとめ見れば朕も気が済む」

「…………」

「司空?」

 協に促され、彼はようやく吐息をつくように口を開いた。

「その子は、この冬に身罷(みまか)りました」

「なんだと? 病でも患っておったか?」

「心の臓を悪くしてはおりましたが、これほど早く逝ってしまうとは……」

 絶句する協から顔を背けると、彼は小さく笑った。

「これは、思いも掛けぬところから、あの子の話を聞きましたな」

 込み上げるものをこらえるように、男はしばし青青と茂る樹木を見上げた。

「では、やはり司空のもとに在ったのが……」

「陛下のお話からしてあの子でしょう。董卓のもとに居たのも本当です」

「……なぜ司空が?」

「そうですね。やはり縁があったのでしょう。私達は都だった雒陽で出逢っているのですよ」

 思いを馳せるように、その瞳が遠くなる。

「そうか。あの子は司空のもとにおったのか。それなれば……。朕はずっとあの子のことが気掛かりだった。どこぞで餓えているのではないか。凍えているのではないか。誰ぞ、頼る者があるのだろうかと。司空が見てくれていたのであれば、あの子も幸せだったのだろう」

「……幸せに、したいと思っていました。辛い思いをして来たあの子に、溢れるほどの幸せを与えてやりたいと……。けれど、あの子が本当に望んでいたのは、ただ傍にいて最期を看取ってやることだったと、今は思っています」

「死に目には会えなかったのか」

「呂布との戦の最中のことでした」

「そうか。この冬はずっと戦に出ていたのだったな」

「本当は、それは言い訳なのかもしれません。私はあの子の最期を見たくはなかった。今でも、心のどこかで、それを認められずにいるのでしょう」

「……その子を、大切に想っていたのだな」

 協が問うと、彼は静かに微笑(わら)った。

 透き通るようなその笑みが、協の心に()みる。

「司空。その子の名を教えてはくれまいか」

「はい。あの子は蓮と呼ばれていました」

 蓮……。

 ああ、なんとぴったりな名前だろう。

 水の中からすらりと立ち上がり、清らかな花をひらくその姿は、まさにかの少年キミそのものだった。

 夏が来て、水芙蓉(ハ ス)(あざ)やかに咲き誇るたびに、自分はあの子のことを思わずにはいられまい。

 そして、傍らに立つこの人もまた……。

「司空。朕はやはり、蓮は幸せだったと思うよ」

 この人は、来る夏をどんなふうに過ごすのだろうか。

 眩いばかりの光をまとい、凛然と立つこの男にも、やはり痛みや哀しみがある。そんな極当たり前のことを、今更ながらに識った思いだった。

 彼は、何も言わずにただ笑った。

 その笑みが、少し寂しそうだと協は思った。



 その日の出来事が、後に大きな波紋を呼んだ。

 親しく語らうふたりの姿に何を思ったのか、車騎将軍の董承が曹司空の暗殺を企てたのである。

 だが、それはすぐに公の知るところとなり、首謀者は捕えられ、三族の処刑の判が下された。

 その中には、協の妃のひとりである董承の娘も含まれていた。彼女は子を宿しており、その誕生を待ちわびていた協は泣いて助命を請うた。

 しかし曹操は、法に照らされた刑罰だと、表情のひとつも変えずにそれを退けた。

「朕も妃も何も知らぬのだ。ましてや腹の子に、何の罪があろう」

「陛下の真意はどうであれ、勅は発せられたのです。それが偽の物であったなどと断じて許されぬ。陛下の御威光にかかわります」

「だからそちは、自らが矢面に立つと申すのであろう? ただの私怨とそしられようと、彼らに刑を下すと」

 娘を妃に上げた董承は国舅と呼ばれ、協の最も身近に侍る者である。勅まで発せられながら、協が知らなかったなどと誰が信じようか。

 だが、曹操は黙ってそれを受け入れた。

 協のもとに届いた話では、司空は烈火の如く怒り狂い、董承の一族を根絶やしにしてやると息巻いているという。

 しかし、目の前にいる男は(こと)の外冷静だった。

 その静けさが、協には逆に恐ろしい。

「陛下。(わたくし)を殺そうとの企てと、偽の勅を発する罪。どちらが重いとお考えですか」

「解っておる。そちの言いたいことは良く解っておる。だがな、司空。この勅が朕の真意であったなら、其の方はいかが致す」

「もとより(わたくし)は臣下の身。陛下が要らぬと仰せなれば、それまでにございましょう」

「そうであろうか? 朕は天子でありながら、何ひとつ持ってはおらぬ。この宮殿も、身に着けている衣服も、天子としての体面も、何もかもそちの与えてくれたものだ。そなたを廃して朕がこのままいられるなどと、誰が考えよう」

「陛下。この許は陛下がおられるから都なのです。今は乱世にて、諸侯は各地にそれぞれ勢力を持ってはおりますが、ことごとく陛下には朝貢を奉ります。それが帝の威光でなくてなんでございましょう。私がいなくなっても、陛下が帝であることに変わりはございません。ただ私の代わりに誰かがお仕えするだけにございましょう」

「司空。だがそれは、朕でなくとも良いのだ。ただ天子という肩書を持った傀儡だ。愚鈍なほうが都合が良いから、董卓は兄を廃して幼い私を位に即けた。朕にはそれだけの価値しかないのだ」

 ずっとこらえていた思いが堰を切った。

 皆、協のことを貴い生まれだと言う。

 だが、幼くして母を殺され、自らも命の危機を何度もくぐり抜け、裸足で荒野をさ迷うほどの辛苦を味わった。

 これでも自分は最も高い位にあるのだろうか?

 疑問は深く胸を潰した。

 幼子のように泣く協の背に、儀礼を越えた掌が添えられた。

「陛下。なぜこの曹操が貴方を奉じていると思われます。確かに乱世の今、自ら国を打ち立て帝を名乗ることは、あるいは容易(たやす)いのかもしれません。しかし私はそれをしようとは思わない。貴方が御位にあるからです。貴方ならば。廃墟の雒陽で拝謁して私は思った。自身に価値がないなどと、どうして思われます」

「朕だから?」

「そうです。貴方だからこそ、董卓も御位に即け奉ったのです。他の者では決して叶わぬことでしょう」

「……司空よ。朕はそなたに逢った時、なんと眩い男かと思った。このように煌めく人間がこの世にあるのかと。この男の前ではきっと全てが霞んでしまう。朕もまた、例外ではなかろうと」

 協は躰を起こすと、ゆっくりと玉座に坐り直した。

「朕が雒陽に着いた時、そこには何もなかった。ひどく心細く、世の中の全てに打ち捨てられたかのような心持ちであった。そちが来てくれたことを心底嬉しく思った」

「だが、同時に恐ろしくも思った。朕のもとに駆けつけて来る者は、真の忠義者か帝位に野心を抱く者かのどちらかだ。朕はそれを見定められるのであろうかと」

「陛下は、私をどちらとご覧になりました」

「解らぬ。朕にはそなたを見定めることなど出来ぬのかもしれぬ。だがな、司空。朕はひとつ解ったことがある。そなたは社稷(しゃしょく)(まつ)って豊穣を祈るより、大地に(くわ)を入れ耕す。そういう男ではないのか?」

「臣下の者が大地に鍬を入れて、なんの不思議がありましょう」

「そなたはいつもそうだ。冷たい顔で整然と物を言う。正論だから何も返せぬが、取りつく島がないようで朕は寂しい……」

 協がその瞳を伏せた。

 沈黙が降りる。

 それを破るように立ち上がり、協は(ひさし)の下へと脚を進めた。

「空の子供か……」

 見上げて呟く協に、問い返すような気配が届いた。

「いや。幼いころ、母を求めて泣くと祖母殿が良く申されたのだ。御身は人の腹から産まれたにあらず。天が産み賜うたのだと。その意味は良く解らなかったが、何やら恐ろしう思った」

「いずれ御位に着かれる皇子(みこ)と思えばこそでしょう」

「ふふ。意外とありきたりなことを申すのだな。そなたなら、祖母殿の真意が解ろうかと思うたが」

 それとも、解っていてはぐらかすのか。

 おそらくは後者なのだろうと協は瞳を伏せた。

 祖母の董太后は気位の高い人だった。

 寒門の娘から位を極めた何皇后を(さげす)み、彼女が産んだ協の兄の事も悪し様にしか言わなかった。

 しかし、協の母とてただの宮女である。なるほど、母など借り腹に過ぎぬと言われたはずだった。

「司空はあの高い空から生まれたと言われて何を思う。自らは特別な子供と喜べようか?」

 指で蒼い空を指し示し、問う。その視線は彼方をたどった。

「普通の子供がどういったものかは知らぬ。あるいは、素直にそれを信じるのかもしれぬな。だが朕はな、自らはあの高い空から放り投げられた、捨てられた子供だと思うたのだ」

「……陛下」

「良い。何も申すな。天子とはまさに天の子。天意を持ってこの地を()べる者だ。この大地で社稷を祀り祈るのは、天子にしか許されぬ。良う解っておる」

 協は彼の言葉を押しとどめ、何度か小さく(うなず)いた。

 慰めも励ましも、ましてや苦言など、全てにおいて協より優れるこの男から聞きたくもなかった。

 天子は豊穣を願い、空と大地に祈りを(ささ)げる。

 では、顔も見ずに失う我が子のために祈ることは、この身に許されるのだろうか……

「天子とは、不自由なものだな」

 誰に言うでもなく呟くと、協は遠い空を見上げた。

 風に流され、ゆっくりと雲が行く。

 それをぼんやりと眺めていた協は、不意に何もかもが解った気がして笑い出した。

 そうか。だからこの男は帝位を望まぬのか。

 訝しげな視線を感じながら、くつくつと手の(なか)に笑いを落とす。

 めんどうなのが解っているから望まぬのか、価値がないと思っているからどうでも良いのか。

 どちらにしろ、この男は、天子などというモノにさしたる興味がないのだ。

 これを言葉にしたのなら、なんと応えてみせるだろう。

 顔色ひとつ変えずに取り(つくろ)うだろうか?

 もしかしたら、平然と肯定するかもしれぬ。

 だが、それは恐ろしい。己を否定されるようで恐ろしい。

「いや。卿は天子にとって、最大の不敬者であり、真の忠義者なのだということだよ」

 流された協の視線を受け止めたその瞳は、冷たく怜悧(れいり)に輝いていた。

 それが不意に笑う。

「さすがに陛下は賢くてあらせられる」

 その物言いには、さすがの協も腹正しさを感じずにはいられなかった。

「不敬ついでにお教えしましょう。陛下のお見立ては、いささか的外れにございますな」

 あっけにとられる協の瞳を、にやりと覗き込む。

「私怨ですよ」

「え?」

「董承と謂う男の件です。私はこの日を待っていたのですよ」

 にこりと笑う。

「陛下。次をお考えでしたら、もう少し組む相手を選ばれたがよろしい。ご忠告申し上げますよ」

 忠義者と言われたことへの皮肉なのか、不遜な笑みを残し、男は慇懃に前を辞した。

 初春の風は冷たく、僅かなぬくもりまで連れて、協の傍らを吹き抜けるようだった。


 三国志。

 特に曹一族のことを思う時、キーワードのひとつとして「父と子」というのが私の中にあります。

 後継者争いも絡んだ、曹操と子供達のもろもろ。

 そして、操と父との関係。

 さらには、祖父騰とその父や兄弟との葛藤。

 全ては想像に過ぎませんが、MY設定がありまして、『戀』の世界の根底を成しています。

 蓮と協。ふたりの少年にとって強烈な光である操ですが、展開する物語は当然ですが異なります。それが本編と今回の短編です。

 劉協が産まれたのは光和四年。西暦だと181年。189年即位。許へ遷都した建安元年は196年。董承の乱が200年。

 少々内輪話をしますと、この短編で協は蓮の事を少し年下と語っていますが、体格のためで、むしろ数か月早く光和三年の内に蓮誕生の設定です。(協は二月生まれなので西暦では同年)

 ご訪問ありがとうございました。   碧海 月

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― 新着の感想 ―
[一言] 献帝かあ めずらしーかもと思って読みました。 曹操コワイですぅ(笑) また短編書いて欲しいデス。
[一言] 月(ユエ)さん、はじめまして。 ちらっと覗いたら、おお! と感激するくらい文章が流麗だったんで、勉強のため読ませていただきました。 文章がとっても美しいですネ。一見、重厚な感じがするのに引っ…
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