影が蠢く Ⅰ
「くさい……」
純白の部屋の中で、レイシーは悪臭に顔をしかめていた。
モンスターの襲撃からしばらく過ぎていた。王都への旅を続ける一行は白の教団の馬車に乗り換えたものの、荷物の大半を失ってしまっていた。
レイシーは至近距離でモンスターに瓶を投げつけ、撃退した。その時に浴びた黒ずんだ返り血が時間が経つにつれ徐々に臭みを増していき、今では生肉が腐ったような酷い臭いを放つようになってしまったのだ。
自分が身に付けているのはたからもののエプロンドレスだ。しかし血の染みが黒いまだら模様のようについたこの服は今や、酷い臭いの大元となってしまっている。レイシーは始めてこれを脱ぎたいと思ってしまった。
「困ったわ……あの荷物の中に着替えも入っていたのよ…」
「じょ、嬢ちゃん……俺達は我慢するから、次の馬車までには着替えような」
「ですな……服を取り扱っていなくてよかったですな……こんな臭いが付いたらどこも買ってくれなくなりますな……」
悪臭は時間と共に馬車の部屋中に充満してしまい、逃げ場はない。周りの人々も青い顔をしていた。自分がモンスター撃退に一役買っていなければ、何か文句を言われていたかもしれない。
「乗継所に着きました」
そんな中、真っ白な服の御者が無機質な声で客に呼び掛ける。この部屋から早く逃れられることを思うと、この報せは天の救いにも聞こえた。
馬車から降りると、外の空気がすぅっと肺に満たされた。臭いは幾分かましになった。
馬の乗継所は丸太で作った小さな小屋のような建物だった。目立つ矢印型の看板と休むための椅子があり、旅人がくつろげるように設えられている。
小屋の近くには、平原を横切るように小さな川が流れていた。水底の石の数が数えられるほど澄み切った水は陽光の中で水晶と見紛うばかりの輝きを放ちながら、茂みまで続いている。風が水面を撫で、魚が水中で活発に泳ぐ度、涼しさを感じさせる波紋が広がっていく。
「んぁ~、やっぱり外の空気は美味しいな」
「ですな。何とかここまで来られた記念に一杯どうです? お酒好きなのでしょう?」
「悪いな、いただこうか! 真昼間の酒はうめえ!」
悪臭から解放された酔っ払いや商人が羽を伸ばしている。その大元を身に纏ったままのレイシーは、早くこれを何とかしなくてはならない。
アリエッタは何やらきょろきょろしていたが、川を目に留めると何か思いついたようだった。
「その服、川で洗わないといけないわね。せっかくだから水浴びもして汚れを落としましょうか」
アリエッタがこちらを見たので、レイシーはこくりと頷く。
「決まりね。お兄様、カール、行ってくるわね!」
「わかった。次の馬車まではしばらく時間があるから、のんびりしていていいよ」
小屋に入っていくヤーコブとカールに背を向けると、二人は川の茂みへと歩いて行った。生い茂った茂みはちょうどいい大きさで、少女たちの身体をすっぽりと覆い隠してくれる。
「ここなら大丈夫でしょう。レイシー、服を貰えるかしら? それから、川に入ってね」
「うん」
レイシーは服をすっかり取り払い裸になると、アリエッタに手渡した。彼女はじゃぶじゃぶと服を水につけ、揉むように洗い始めた。
川はへその下あたりの深さだったので、身を浸すにはちょうど良かった。水温はやや冷たく、ほどよい涼しさが身体の芯まで染み渡る。
「はあぁ~……」
そういえば森の中で水浴びをしたこともあったなあ、とレイシーは水中で思いを馳せる。あの時もモンスターが現れて、大変な目にあった。
「それにしても、すごい働きだったわ。レイシー」
服を洗う手を止めず、アリエッタが話してきた。
「お兄様はもちろん、女の子の力でもあんな怪物をやっつけられるなんて。私、とてもあなたが頼もしく見えてきたわ」
「……ん? 女の子の力?」
彼女は自分の秘密に気付いてはいないらしい。あくまで自分はモンスターの弱点をついて倒したと思っているようだ。
言わない方がいいだろうか。
正直自分もこの力についてはよくわからない。それに、旅をしている以上は彼等とは一蓮托生だ。不要な事は口走らない方がいいかもしれない。
喋っていないのだから、嘘もついていない。だからいいだろう。わざわざ火種を撒くほどの事でもない。
だけど。
「アリエッタ、聞いてくれる?」
「なあに?」
「わたしね、変な力があるんだ。モンスターもやっつけられるくらいの、ものすごく強い力なんだ。見て、ほら」
レイシーは水底の石を一つ掴むと、彼女の目の前でぐしゃりと握りつぶして見せた。石は瞬時に砂粒のような粉になり、灰色の濁りになって水の中に広がる。確かに固い石のはずであるのに、手には泥団子を握りつぶしたような感覚だけがあった。
「え……!?」
「……ごめんなさい。怖がらせてしまって」
レイシーは溜め息をついた。やはり言わない方が良かっただろうか。
そう思っていると、肩に優しく、温かい手が置かれた。
「落ち込まないで。怖がってなんかないわ、ちょっとびっくりしただけよ。どんな力があっても、レイシーはレイシーだもの」
アリエッタはにっこり笑った。水面が反射する光に照らされた笑顔はどこか神々しく、神様というのはこんな感じかもしれない、とレイシーは思った。
「その力は鍛錬で身に付けたわけではないのでしょう? いつの間にか備わっていた、という事かしら」
「うん、そうだよ。わたしもよくわからない」
「だとしたら仕方ないわ。私ね、人間は何かを背負わされて生まれてくるものだって思ってるの。仕事だったり、身分だったり、使命だったりね。だからレイシーはたまたま、変な力を背負ってしまっただけだと思うわ。話してくれてありがとう」
「……アリエッタ」
「そう言ってるうちにね、ほーら、できたわよ!」
彼女はエプロンドレスについた汚れを落とし終えた。臭いも返り血も水に流れていってしまったらしく、元の白い色を取り戻していた。
「よーし、洗濯終わり、後は干すだけ! 気持ちよさそうなレイシーを見てると私も水浴びしたくなったわ! 私も入る!」
アリエッタは岩の上にエプロンドレスを置き、がばっと立ち上がる。素早く服を脱ぎ捨てしなやかな身体を露わにすると、元気よく川に飛び込んできた。
「それっ!」
「わわっ!」
そのままアリエッタに水をかけられた。きらめく飛沫が顔に当たると、すぅっとして目が覚める。
「負けない!」
レイシーもすぐに水をかけ返した。
「きゃっ、やったわね!」
「えいっ!」
「ほらほら、もっと来なさい!」
ばしゃばしゃ、宝石のような水しぶきが飛び交った。二人の少女は時間を忘れたように、川の中で笑い合う。
ひとしきりはしゃいだ後は心地良く疲れた身体を河原に横たえて、ゆったりした空気を楽しんだ。そよ風が濡れた身体を撫でる。
「ああ、楽しかったわ」
「わたしも!」
「ふふ、いい旅の思い出になったわね。王都についてもこんな風に、レイシーと遊べたら嬉しいわ」
「わたしもわたしも! アリエッタと、もっと遊びたいな!」
その時、茂みががさりと揺れた。
「この川はいい魚がいるね……っと、あれ」
釣竿と桶を抱えたヤーコブが現れる。
「……あ」
「ん˝」
「あ、ヤーコブ。どうしたの?」
アリエッタはひきつったような呻き声を上げ一瞬固まったが、すぐに顔を真っ赤にして彼に飛びついた。
「お、お、お、お、お兄様!? 私達、裸なのよ!? なんてモラルのない!」