旅の困難にぶつかる Ⅱ
「ヤーコブ様、危ない!」
すぐにカールがヤーコブを引き戻したおかげで、標的を失った嘴は馬車の地面に突き刺さった。
しかし、安心するわけにはいかなかった。
大きめの馬車とはいえ、それよりも大きな怪物の攻撃を受けては堪らない。嘴に穿たれた床に大穴が空き、車輪が一つ外れ、部屋全体が斜めにがくん、と傾いた。
「きゃあああああっ!」
後ろでアリエッタが悲鳴を上げた。見ると、壊れた壁から放り出されそうになりながら、必死に床にしがみついている。彼女が持っていた毛布や荷物は哀れにも、一足早く猛スピードの馬車から投げ出されてしまった。
「今、いく!」
「わかった、頼む! 僕たちはあいつを抑える!」
ヤーコブは素早く矢をつがえ、流れるような動きで連射する。戦いの音を背に、レイシーは這いながら斜めになった床を進んだ。
アリエッタに近付くにつれて、びゅうびゅうと風が顔に吹き付ける。気を抜くと吹き飛ばされてしまいそうだ。しかしレイシーは物ともせず、彼女に向かって手を伸ばした。
「アリエッタ! 掴んで!」
「わ、わかったわ……!」
アリエッタの伸ばした腕は、無事にこちらまで届いてくれた。
「しっかり掴まって! せーのっ!」
レイシーは全身の力をもって引き上げた。
「た、助かった……ありがとう、レイシー」
「気を付けてアリエッタ。まだあいつが来る。今はヤーコブたちが何とかしてくれているけど……」
そこで振り向いたレイシーとアリエッタは背筋が凍った。
「もう矢が……ない!?」
「……そうなんだ。すまない」
空っぽの矢筒を手に、ヤーコブは力なく言った。
アリエッタを助けるための牽制に、矢を使いすぎてしまったのだ。こうなってしまっては、飛べない人間に打つ手はなかった。
クギャモ型は抵抗が止んだことを知ると、じっくりと値踏みするようにこちらを見始めた。
残った二つの眼がぎょろぎょろ動く。誰を殺そうか、どういたぶってやろうか。舐め回すような視線で、小さく無力な人々を眺める。
まず怪鳥は、これ以上獲物が逃げないようにしようと考えた。大きなかぎづめのついた足で、先刻天井を壊したように、馬の頭をまとめてもぎ取った。
けたたましい断末魔の鳴き声と共に、噴水のように赤い血が噴き上がった。大きい馬車であったので数頭の馬が引いていたが、全ての出力を失った馬車ではもはや逃げることもかなわなかった。
次に怪鳥は御者を狙った。彼が自らの馬の死に呆然とする間も与えず、嘴で御者の胸を貫き、大口を開けた。こじ開けられた御者の身体は空中で真っ二つになり、べしゃり、と言う音と共に落ちた。草原が真っ赤に染まった。
乗客の顔が引きつった。レイシーは氷で冷やされたような恐怖が臓腑に満ちるのを感じた。
「キィッキッキッキッキッキッ!」
虐殺を繰り返し、邪悪な怪物は空中で笑い声に似た叫びをあげる。
「ヤーコブ様、アリエッタ様、ここは私が。私が囮になっている隙に、早くお逃げください」
「……それは、できない。馬ももう残っていない。逃げたところで、すぐに追いつかれて殺されるだろう。だったら、最後まで君と共に戦わせてくれ」
「……私も、お供するわ。どこまでも」
「旅のお方、私も手伝いますな。この酒臭い方は気絶してしまいましたけども……少しでも抵抗して、意地汚さを見せてやりますな」
ヤーコブとアリエッタ、カールに商人風の男が加わった。各々が剣や盾を取る。全員が次は自分と覚悟を決めたようだった。
「……わたしも戦う。最後まで諦めたくない!」
レイシーも彼らに身を寄せた。
恐怖なんかに負けるものか。自分には力がある。拳さえ届けば。しかしそんなレイシーを嘲笑うかのように、怪鳥は空に翼をはためかせている。
それに抵抗しようにも、半端な攻撃では弾かれてしまうだろう。そうなれば死は免れない。自分の傷は治りが早いとはいえ、首をもがれても生き返れるのだろうか。
その時だった。レイシーの足に、転がってきた何かが当たる。酔っぱらいの持っていた酒瓶だった。栓は開けられた後で、中身は空らしい。
それを見たとたん、レイシーに考えが閃いた。
「みんな、待ってて!」
「レイシー!? 何してるんだ!」
「じょ、嬢ちゃん!やめろ!」
レイシーは酒瓶を手に崩れた壁の一番高いところに登ると、モンスターを迎え入れるように両手を広げた。
「キィエァァァァァ!」
怪鳥は目の前に躍り出た少女を見て喜びの声を上げる。舌なめずりをすると獲物にありつくように、一直線に嘴を突き入れてきた。
「馬鹿な真似はよすんだ! レイシー!」
「やめてえええええええ!!!」
「レイシー様っ!」
「うわああああああああああああ!!!」
馬車の全員が悲鳴を上げた。
巨大な死が、レイシーの目前に迫る。
死には黄色い眼がある。無数の細く赤い血管が網のように張り巡らされた、血走った眼。あふれ出んばかりの殺意。そして、死には鋭い槍のような嘴がある。無慈悲に命を壊すそれが、レイシーの心臓を抉り取ろうとしたまさにその時。
「……今だ!」
至近距離まで近づいてきた怪鳥の眼を狙い、力任せに酒瓶を投げつけた。
すると、酒瓶は怪物の眼に突き刺さった。どす黒い血が栓を抜いたワイン樽のように吹き出し、自分と馬車を汚した。
「キィヤアアアアアアアアアアアアアア! キィィィィィィィィィィィ!!!!!!!」
思わぬ反撃を受けたクギャモ型は苦痛の悲鳴を上げ、空で身をよじり始めた。