かつて夢見た道が開く Ⅲ
「そうそう、これを渡しておかないと。屋敷の跡から見つけたのよ」
「それは……!」
アリエッタがおもむろに取り出したのは、レイシーの日記と金色の懐中時計だった。
あの日自分が市場に持って行った、サンディの時計だ。汚れも傷もあまりついていない所からすると、どうやら殴られた時にどこかに落ちていたらしい。草花の刻まれた時計はちくたくと、変わらずに時を刻んでいた。
手づくりの日記は雨で濡れたせいかぱさぱさに乾いており、ページのところどころに赤茶けた染みが付いていた。インクもにじんでしまっていたが、かろうじて何が書いてあるかは読みとれた。
「ごめんなさい。この日記、勝手に中を見てしまったわ。……だけどサンディとレイシーは、本当の家族だったのね」
人形劇、料理、遊び、勉強、日々の感動。本を書きたいという夢。大切な、自分が家族とともに生きた証がそこにあった。
「これは、君が持っておくべきだよ」
「ありがとう……」
レイシーは二つの品を受け取ると、大切に胸に抱いた。ほんの僅かだが、失ってしまったものが帰ってきたようだった。
その夜の事だった。
「わたし、王都に行ってみたいなって思う」
「……王都だって!?」
オーマーは甲高い驚きの声を上げる。
「うん。わたし、そこで勉強して、本を書きたいんだ。思い出したんだ。昔、やりたかったこと」
「そんないきなり言われてもねえ……?服はどうするんだい?」
「今まで働いた分だけでいいよ」
「……なんでいきなりそんな事を言うかねえ。ここの仕事にはもう飽きたのかい?」
オーマーはふぅ、と大きな息を吐き顔をしかめる。いつもにこにこ笑いかけてくれていた彼女だっただけに、このような否定的な顔は始めて見た。
「ごめんなさい。野菜を売るのは楽しいし、お客さんも優しいから大好きだよ。だけどこれは、どうしてもやりたい事なんだ」
「まったく、あんたはいい跡継ぎになってくれそうだったのに……見込み違いだったのかねえ。どうして王都になんか……あんなところ、ちょっと町が大きいだけじゃないか……」
驚きが怒りに変わったようで、オーマーは不愉快さを隠そうともしない。しかしレイシーも退く気はなく、彼女の漏らす文句に割り込んだ。
「本を書いたら一番に読ませてあげるって、亡くなったわたしの家族と約束してたんだ。だからせめて、それだけはやり遂げたいんだ」
「そうかいそうかい! 今目の前にいる私より、その亡くなった家族の方があんたは大事なんだね。よくわかったよ」
突き放すように彼女は言うと、席を立った。
「そ、そうじゃなくて……わたし、どっちも大好きで……」
「さあ、もう寝る支度も済んでるだろう。早くお休み!」
「でも」
「早く!」
これ以上は無駄だった。レイシーは追い立てられるように寝室へ行くと、服を脱いでベッドに横たわった。
静かになった部屋の中、オーマーはもう一度ため息をついていた。
「……やってしまったよ……」
先ほどまで怒っていたとは思えないほど、今の彼女の顔には悲哀が深く刻まれていた。ふと、キッチンの下の棚を一瞥する。しかしすぐに、顔を手で覆い隠すようにうずくまった。
「私は、馬鹿だよ……大馬鹿だ……」
よろよろとおぼつかない足取りで歩くと服も脱がずにベッドに倒れ込んだ。久しぶりに激昂したせいか、疲れていたオーマーはすぐに眠りに落ちた。
「おばあちゃんが教えてくれた、豆のスープだよ」
オーマーの目の前には、栗毛の小さな少女がいた。
「うん、上手にできてるね。将来はきっといい料理人になれるよ」
「料理よりも、おばあちゃんのお店を手伝いたいな! お野菜、売りたい!」
少女はにこにこと、眩しさすら感じるほどの穢れの無い笑顔を見せる。彼女はほかでもない、オーマーの孫娘だ。
「ありがとう。そう言ってもらえるなんて嬉しいねえ。でも、無理はしないでね。何かあったら、娘に顔向けができないよ」
「おばあちゃんの娘ってことは、私のおかあさん? どこにいるの?」
「……遠いところさ。だけど、大丈夫だよ。そこからきっと、あんたを見てるから」
「そっか。おばあちゃんと一緒に居れば、いつか会えるかな?」
「きっと会えるさ」
それからしばらくして、孫娘は重い病にかかった。
原因不明の病魔は日に日に彼女を蝕み、今ではベッドから動けないほどまで悪化していた。市場の医者どころか、寄付を集めて呼んだ王都の医者すらもお手上げだった。もはや彼女にできるのは、ただ死を待つだけだった。
それでも、オーマーは諦めなかった。老骨に鞭打って毎朝開店前に出かけると、ほど近い野原から効きそうな薬草を摘むのだった。
帰ると、いつも孫娘は言っていた。
「おばあちゃん。もう無理しなくてもいいんだよ」
「諦めてはだめだよ。さあ、薬草だ。これできっと良くなるから」
「私に無理しちゃだめだっていったの、おばあちゃんでしょ? だから、もう…」
「だからといってあんたを見捨てるなんてできないよ!」
助けを固辞され、オーマーは次第に苛立ち始める。
「もういいから。だから、休んでよ!」
「うるさいねえ……あんたに何かあったら、死んだ娘に顔向けできないじゃないか!」
言ってからはっとした。激情に流され、ついうっかり死んだことを言ってしまったのだ。
しかし驚き悲しむだろうというオーマーの予想に反し、孫娘は冷静だった。
「いいんだよ。私のために嘘ついてたんでしょ? おばあちゃん、優しいんだね」
「……あんた……」
「今まで育ててくれて、ありがとう。おばあちゃんに育ててもらえて、幸せだったよ。私もまた、遠いところからおばあちゃんを見てるから。おかあさんといっしょに、見てるから」
私が死んじゃっても……元気でいてね。おばあちゃん。
彼女が離れていく。手が届かなくなる。走っても追い付かなくなる。目で見えないほど小さくなる。彼女が、消える。
「いやだ……おばあちゃんを一人にしないでおくれ……どこにもいかないでおくれ……」
オーマーは大粒の涙を流していた。老婆の慟哭が寝室を満たす。
「……」
隣で横たわるレイシーは、それを黙って聞いていた。