レイシー、働く Ⅱ
「い、いえ、結構です」
「遠慮はしなくていいよ。ちょうど服が余っていて、どうしようか困って居たところなんだ。捨ててしまうのももったいないから、是非とも貰って行っておくれ」
「うーん……」
あまりに申し出が唐突過ぎる。
相手が善意で言ってくれているのであっても、ここですぐ付いていくのは軽率だろう。
「おばあさん、気持ちはありがたいのだけれど……ただで物だけ受け取るなんて、できません。わたしは、大丈夫です」
「そんな……本当にいいのかい…?」
老婆は寂しそうな、悲しそうな声をあげた。
それを聞いた途端、レイシーの心に憐れみが生まれた。こんな声を聞かされると、何かしてあげたくなるのが人情であった。
「わかりました。お話だけでも聞かせて下さい」
「そうかい! それじゃあお茶でもしながらゆっくり話そう。うちまで来ておくれ」
老婆は元気を取り戻したようにレイシーを家まで導いた。
老婆はオーマーと名乗った。市場では有名な人らしく、すれ違う人がたびたび挨拶をしてくる。
「オーマーおばさん、こんにちは! 今日はお店はお休みかい?」
「あらこんにちは。ええ、今日はお休みなの。ゆっくり休んでお仕事するわね」
慣れた様子で挨拶を返す横で、レイシーは小さく会釈していた。
彼女の家は市場の大通りの一角にあった。黄色いテントが張られており、その下に木箱がたくさん積まれている。店の奥に木の扉があり、そこから家に入ることが出来た。
「今お茶を入れるから、そこにかけて待っていておくれ」
レイシーは椅子に腰かけると、家の中を見回してみる。
夜の帳が降りつつある家の中は薄暗く、窓から僅かな夕暮れの光が差し込む以外に光源は無かった。
机の上には何も置かれておらず、整理整頓されているというよりは物が何もないというような印象だ。
そこで違和感を感じるのは食器棚だった。殺風景な机の上とは一転して、一人で使うにはやけに多い量の食器が収められている。
しかしそれらも今や埃をかぶっており、ほとんど生活感が感じられなかった。
「お前さん、お茶だよ」
香ばしい湯気を立てるカップが目の前に置かれる。それを飲みながら、レイシーはオーマーに質問してみた。
「どうしておばあさんはわたしに優しくしてくれるの? 会った事、なかったですよね?」
「……お前さんを見てるとね、放って置けなくなったんだよ。実は私にも、お前さんくらいの孫娘がいたことがあってね……」
老婆の表情が暗く陰ったのを見て、これ以上追及するのはやめておいた。
「わかりました。それで、どんな服があるんですか?」
「私の孫娘のお下がりさ。サイズも多分合うと思うから、好きなのを持ってお行き。そういえばお前さん、この市場の子じゃないね? 行くあてはあるのかい?」
レイシーは首を横に振った。
「それじゃあ、うちで働くというのはどうだい? うちは野菜を売っているんだ。ただでもらうのは嫌だと言っていたね。給金の代わりに服を出せばいいんだよ」
それはいい考えかもしれない、とレイシーは考える。
それに、今や自分は独りである。自分の面倒は自分で見なくてはならない以上、働かせてもらうというのも悪くない選択肢かもしれない。
「……わかりました。雇ってもらっていいですか?」
「そうかいそうかい! 私ももう歳だからね、手伝ってくれるのは助かるよ! それじゃあ、これからはこの家に泊まっておくれ!」
オーマーはまるで贈り物を貰った子どものように、今にも飛び跳ねそうなほど嬉しそうだった。
「それじゃあ、明日から早速働いてもらおうかね。お前さんはこれを着て、店番をしておくれ」
レイシーは着替えを始めた。
もと着ていた服は丁寧に畳む。ぼろぼろではあるが、大切なプレゼントだ。
そして渡された灰色のウールの服を、ベルトを使って腰のところで締める。長い髪はバンダナを巻いて頭でまとめた。
これらの服は少しだけ大きかったが、違和感を感じる程ではなかった。
「よく似合ってるよ。こんな婆が店番をやるより、よっぽど人が来てくれそうだね」
「ありがとうございます。頑張ります」
「そんなに固くならなくていいよ。ここを家だと思ってゆっくりしてくれればいいさ」
その晩、レイシーは始めて屋敷以外の場所に泊まった。
まずレイシーを驚かせたのは、当たり前のように使っていた風呂に入れない点だった。
普通の家庭での入浴と云えば桶にためた水で行水する程度であるらしい。それでも身体に残った汚れをきれいに洗い流すことが出来てレイシーは満足だった。
その家での食事はパンに野菜のシチューだった。
屋敷にいた時よりも質素な食事だったが、ほどよく煮込まれた野菜の素朴な味もまた、レイシーの舌を楽しませてくれた。
「おいしい!」
「たくさんお食べ……」
美味しそうにシチューを味わうレイシーを、老婆は愛おしそうな目で見つめていた。
眠るときは、大きなベッドで二人並んで眠った。寝間着はないらしく、寝るときは裸だと教えてもらった。
「……眠れない」
何も着ずに眠るのは、身体がさわさわしてどうも落ち着かない。
暗闇の中でぼんやりしていると、ふと屋敷のベッドが脳裏によみがえった。いつも隣で眠っていたサンディの体は柔らかくて、温かくて。その腕の中で眠れば、どんな不安だって消えてしまっていた。
「……」
早くも屋敷が恋しくなり、涙がこぼれそうになる。
そこで、自分の身体が急に誰かに抱かれた。
隣で眠るオーマーだ。こつこつした細い身体は冷たいながらも、確かな温もりが秘められているのがわかる。
「眠れないのかい?」
「……うん」
「じゃあ、子守唄を歌ってあげようか。それを聞いてゆっくりお休み」
オーマーは静かに、ゆっくりと歌い始めた。
眠れ、眠れ わが子よ眠れ
ゆりかごの中、守られながら
眠れ、眠れ ゆっくり眠れ
朝の光に起こされるまで
包み込むような、優しい彼女の声を聞いていると意識が溶けていく。
身体の感覚がふわふわして、レイシーは自分が眠りに落ちたことも気付かなかった。