一夜明けて Ⅰ
その後、もう一度脱衣所を訪れた二人。
少女は小さな、棒の先端に毛のついた道具をサンディから渡された。
「歯ブラシ」というその道具の使い方を、サンディはじっくり少女に教えていく。
鏡を見ながら、親が子にするように少女の手を持って動かす。
歯の一本一本を丁寧に磨き、少女のきれいな歯が取り戻されたのを見てから手慣れた手つきで彼女も歯を磨いた。
それが済むと彼女はオルガに手伝わせて再び着替えを行った。今度はドレスではなく、灰色の寝間着に袖を通した。
少女もお揃いの灰色の寝間着を着せてもらう。ゆったりした着心地は少女の身体を拘束せず、羽を伸ばせるような感覚を与える。
「この子はわたくしのベッドで寝てもらうことにしますわ」
少女の世話の仕方を一番知っているのはサンディ自身である。加えて彼女にはまるで友達と娘を同時に持ったような感覚、もっとこの少女と一緒にいたいという欲求もあった。
「しかしお嬢様、まだこの子の素性は知れません。お嬢様を探りに来たスパイでしたら、いかがなさいます?」
「大丈夫、わたくしは人を見る目はあると思っていますの。この子はそんな子じゃありませんわ。それに、わたくしはもう本家とは関係がないもの。わたくしを探るだけ無駄ですのよ」
「しかし、用心は怠らぬよう。何かあればすぐにお呼びください」
「はいはい、わかりましたわ。オルガのお堅いところは本当に治りませんわね」
オルガは怪訝な表情を崩さなかったが、それ以上は逆らわずに退出した。
サンディは少女の手を取り、にっこりと微笑む。今日何度目かの彼女の笑顔は相変わらず花が咲いたかのように綺麗で、それを向けられる少女は胸の中がほのかに温まるのを感じていた。
もっと、彼女の笑顔が見たい。少女はいつの間にか、そう思うようになっていた。
屋敷の階段を上り、廊下を通ってサンディと少女は寝室に入る。
脇に置かれた小さなランプが照らす薄暗い寝室にはサンディが快眠の助けとする香が焚かれている。
その心が落ち着く香りは今日一日、たくさん新しいものを見て昂ぶった少女の心をゆっくりと落ちつけていった。
ベッドはいつもサンディが使う一つしかないが、サンディ一人で使うにはかなり大きいので二人で入っても問題はない。
寝具の名前を教えてから、蔦の柄がついた分厚くやわらかい布団をめくりサンディはその中に納まる。そのまま少女を自分の横に来るよう手招きした。
少女はまだ睡眠と言う行為を知らなかったが、脳はしっかり眠りの信号を送っている。すでに少しうとうとし始めていた。
少女はサンディの隣、彼女と同じ大きな枕に頭を乗せる。
サンディは少女が横になったのを確認してから体を起こして、ランプの中の明かりを吹き消した。
部屋は暗くなった。少女は自分に布団が掛けられたのを知る。ふかふかしたそれの中に納まると、優しく抱きしめられるように心と体が安らいでいく。
すぐ隣からすうすうと静かな寝息が聞こえる。少女にたくさんの事を教えた疲れで、サンディは既に眠りについていた。
そんな心地良い闇の中、少女の意識もまた、ゆっくりと沈んでいくのだった。
日が昇り、森が明るく照らされてゆく。
屋敷の窓からの光と小鳥のさえずりで、二人は目を覚ました。
身体を起こし、微笑みで朝のあいさつをする。ぐっすりと眠った二人はすっきりした活力が全身に満ちているような気がした。
起きたらまず、朝食を済ませる。
食堂ではオルガが待ち受けており、二人の到着に頭を下げた。
「今日の当番は私でございます。どうぞご賞味あそばせ」
オルガの作ったシンプルなチーズオムレツに野菜のサラダ、スティックパンを二人でほおばった。前日の爺やの料理とはまた違った、シンプルな味付けが寝起きの舌を目覚めさせる。
そして朝の歯磨きと着替えを終え、同じ緑のドレスに身を包んだサンディと少女は再び居間へと向かった。
「歩く」
すたすた、サンディは腕を振って歩く。
「走る」
たったったっ、サンディは腕を振りかぶって走る。
「座る」
すっ、とサンディは走った先にあった椅子に座る。
今日は物の名前だけでなく、動作の名前も教えることにしたサンディ。少女の前で歩いたり走ったり、 動作の名前を言いながら何度も何度も繰り返した。
最初、少女はまたも彼女が誰もいないところに話し始めたと思ったが、何も指さしてはいないものの目線はずっとこちらに向いている。話しかけているのはこちらであることは間違いなかった。
やがて、彼女が繰り返しているこの動作自体に名前がついているのだ、指をさせないものにも名前があるのだ、ということに少女は気付いた。
「アルク。ハシル。スワル」
サンディと同じ動きをしながら、少女は口に出した。
自分は常に色々な言葉で表される動作をしているのだと気付いたときは少し不思議な気分だった。何もしていなくても、「何もしていない」という動作になるのだという。
自分は日々、色々な名前に囲まれて生活をしているのだな、と少女は感じる。
そう思えば、たくさんのものの名前をもっと知りたいという気持ちも同時に起きるのだった。
しかし何よりも、名前を正解すればサンディは少女を褒めるように、微笑みながら少女の頭を撫でてくれた。
やわらかいサンディの笑顔と手のひらの感触はいつまでも味わっていたいもので、少女にとってはこの上ないご褒美だった。
早くちゃんと言葉を覚えて、もっとたくさんサンディとお話しして、もっとたくさん笑顔が見たい。それが少女の望みだった。
そんなやる気もあり、サンディにとっては少女は優秀な生徒だった。言った言葉は一回でほとんど覚えていたため、短時間でも沢山のことを教えることができたのだった。
昼までにたくさんの言葉を吸収した少女。これなら公用語が話せるようになる日もそう遠くないだろう、とサンディも確信した。