笑顔を、あなたに Ⅲ
真っ暗な袋の中は窮屈で、外の熱気と体の痛み以外は何も感じられない。
暗闇の中でレイシーは思う。
どうしてこんな仕打ちを受けなくてはならないのだろう?
サンディは死んでない。そうだ、死んでなんかない。ありえない。あいつは嘘つきだ。
だけど、あいつに食われた。傷つけられた。それも生きるためには当然?必要?そうかもしれない。しかし。だが。でも。どうしてあいつは大事な人を傷つけたのに、あんなにへらへらしているんだ?
レイシーの中に、どろどろした感情が湧き上がった。
盗賊に対して抱いた怒りとは比べ物にならないほど熱く、深い感情。
あふれ出るその感情は、憎しみだった。溶岩のように煮えたぎる憎悪が、レイシーの痛覚を焼き切って消し去る。
そうだ、殺そう。
サンディは自分を狙う男を怖がっているに違いない。それで寝たふりをしているんだ。だったら殺せばいい。
殺したらきっと、サンディも起きてくれる。褒めてくれる。
殺す。
殺す。殺す。殺す!殺す!殺す!
あいつを、殺す!
頭の中が内なる声の反響で一杯になった。
「ああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!」
レイシーは雄叫びを上げると、口にかけられた縄を糸のように噛み切った。更に自分を包む暗闇に拳を打ちこむ。黒が穿たれ、外の真っ赤な景色が見えた。
「な、何だ!?」
剛拳の焦った声が聞こえる。
袋の穴を破り広げると、レイシーは外へ躍り出た。
「……」
すぐさま腕を振りかぶり、男の命を奪おうとした。
「まだ動けたのか……!」
破れかぶれの攻撃は、彼に簡単に躱される。反撃が身体にめり込む。しかし、そこに痛みはない。あるのは何か当たったという認識と、違和感だけだった。
「……」
レイシーはすぐに起き上がり、飛びかかる。彼はその度に回避と反撃を繰り返した。何度殴られても、何度倒れても。レイシーは男を殺すまで、永遠に攻撃を続けた。
やがて、男の顔に汗が浮かび始めた。戦い続けた疲労からではない。恐怖から来る冷や汗だった。
「な、なんだお前は……!?」
かつて剛拳は拳闘士だった。
闘技場で死力を尽くして戦い、勝利を収めてきた。その栄光を手に、傭兵稼業を始めたのだ。
傭兵になってからも人生は順風満帆だった。この剛腕と、魔法を吸い取るアーティファクトを備えた自分は敵無しだった。
しかし、歴戦の彼が何度打っても目の前の小さな少女は飛びかかってくることを止めない。
目に爛々と赤い光を灯しながら、何度も何度も飛びかかってくる。
「……来るな」
次第にそれは、屈強な傭兵の心すら揺るがし始めていた。
「来るな。来るな!」
生け捕りのために加減しているとはいえ、ここまで執念深く、殺意を持って襲ってきた相手はかつていない。今まではこれだけ殴られた相手は死ぬか、泣きわめいて許しを請うかのどちらかだった。
「来るな! 来るなァ!」
とうとう傭兵は持てるすべての力でレイシーを殴った。
うなる風をまとった拳が、少女の頭を直撃する。頭蓋骨が砕けてへこみ、中の柔らかい肉を揺らす感触。確かな手ごたえがあった。
「……ぁがッ」
レイシーは血飛沫をまき散らしながら紙くずのように吹き飛び、手ひどく地面に叩きつけられた。
「やれやれ、手こずらせやがって……」
彼女は生け捕りにする約束だったが、これ以上は自分が危険だ。もう、死んでしまっても構わない。サンディの分の報酬もこちらより少ないとはいえ、大金だ。それだけもらって、帰りたかった。
しかし、彼の願いは天には届かなかった。
「ひ……!」
レイシーはなおも立つ。
両腕はあらぬ方向を向き、折れた骨が飛び出している。足も関節でないところでぽっきり曲がっており、きちんと体重を支えられないのか、かくかくと小刻みに震えている。
解けかかったリボンの絡まる長い髪は滅茶苦茶に振り乱され、頭から流れる血で顔は染まり、エプロンドレスはぼろぼろの泥だらけの布きれと化していた。
しかし目に宿る、炎よりも、血よりも赤い光だけは変わっていなかった。その姿は彼が今までに見たどんなものよりも、おぞましく醜悪で恐ろしい怪物そのものだった。
乱れた髪を振り回し、またもレイシーは飛びかかってきた。
「やめろ……もうやめろ、やめてくれぇ!」
男は震えた叫びをあげた。そしてレイシーの振りかぶった拳を躱すのではなく、籠手を嵌めた右腕で防いでしまった。
それが歴戦の男が戦いにおいて下した最後の、そして最期の誤算になった。
「うぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああアァァァァァァァァァ!!!!!!!」
レイシーの怪力から繰り出された拳はアーティファクトの籠手を砕き、そのまま男の腕の骨を粉砕したのだ。
輝きを失った宝石の欠片が飛び散る。拳が腕にめり込み、肘から折れた骨が飛び出す。
男は悲鳴を上げて倒れ込んだ。今だ。殺してやる。
「そ、そんな……やめ……」
男が言い終わらないうちに、レイシーは折れた腕をしならせて彼の顎にぶつけた。
「ぁんが」
男の顎が砕けた。片方が外れて垂れ下がり、顔の輪郭が歪む。そのまま彼を蹴倒すと、レイシーは馬乗りになった。
男は歪んだ顔を動かしまだ何か言おうとしたが、容赦なく殴りつけた。最初の一撃で果実が潰れるように頭が割れ、動かなくなった。しかし、なおもレイシーは止まらない。
もう一発殴れば目じりが裂け、目玉が飛び出した。
もう二発殴れば鼻柱がへこみ、鼻から目から耳から血が噴き出した。
もう三発殴れば折れ砕けた歯の欠片がが血しぶきと共に飛び散った。
拳で殴り、肘で撃ち、足で踏みつけ、飛び出た骨で突き刺し、口で噛み千切る。
死ね! 死ね! 死ね! 死ね!
死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね!
内なる声に従って、ひたすら暴力の嵐を吹き荒らし続ける。レイシーが動くたび、血しぶきと砕けた肉が飛び散った。
気付けば男の筋骨隆々の身体は、広がる血沼に浮かぶ骨の小石と肉の小山と化していた。血の海に浮かぶ白っぽい桃色の塊はどこの肉だろうか。
もうそんなことはどうでもよかった。
やった。やった。殺した。
「……あはっ、アハッ、アハハハハハハハ……!」
残酷な快感と達成感がレイシーを酔わせていた。