暗雲 Ⅱ
オルガは屋敷の裏庭に回り、洗濯物を干し始めた。
かつてサンディがうさぎのマリーを葬った屋敷の裏手は、洗濯物を干すのにちょうど良い日当たりと広さを備えていた。寝間着、従者服、ドレス。4人が生活しているので、それなりに洗濯物の数は多い。一つ一つ丁寧に広げ、物干し竿にかけていく。
ふと、オルガは動きを止めた。誰かの気配がする。それがこちらに近づいてきていることに気付いたのだ。
「……誰です?」
「あーあ、バレたか。やっぱり隠れるのって苦手だな」
茂みから禿げ上がった大男が姿を現した。
見上げるほど大きい鍛え上げられた体躯に、激戦を物語る傷だらけの軽鎧。手甲にあしらわれた宝石は彼の荒々しい見た目とは合わない妖艶な輝きを放っていた。
「俺は傭兵さ。巷じゃ『剛拳』って呼ばれてる。よろしく頼むよ」
貴族の真似事か、剛拳を名乗る男は恭しく頭を下げた。
「傭兵……この屋敷の誰かを狙ってきたと?」
「俺の狙いはあんたじゃあない。できるだけ気付かないうちに本命だけ始末して帰りたかったんだけどな。大人しくすれば、見逃すぜ?」
剛拳がこちらを睨んだ瞬間、得体の知れない圧力が発せられる。
大男の台詞は消極的だったが、発せられる威圧感は本物だった。しかしオルガは臆せず、真顔を崩さず応対した。
「本命というのが誰かは存じ上げませんが、この屋敷にあなたが害して良い者などございません。速やかにお引き取り頂いても?」
「……仕方がないな。あんたにも死んでもらうか」
剛拳が手甲で覆われた巨大な拳を握りしめた瞬間、空気が震えた。
オルガは殺気を感じ、とっさに跳ぶ。その直後、顔のあったところを暴風と共に凄まじい質量が通過した。
「なるほど、お話はここで終わりですね!」
拳を躱したオルガは素早く体勢を立て直すと、男の足を払うように蹴りを繰り出した。
「ぐっ」
脛に蹴りを受け、巨体が揺らぐ。すかさずもう一撃を繰り出す。しかし、これは届かなかった。
「……あんまり調子に乗るんじゃねえぞ?」
蹴り出したオルガの足が男に掴まれていた。彼が握る手に力を込めると、みしみしと骨が軋んだ。
彼女の顔が苦痛に染まった。
「ぐぁっ……」
「大人しくしていてもらおうか!」
彼女の身体は片腕で軽々と振り回され、放り投げられ、屋敷の壁に激突した。
壁が砕け、ぱらぱらと落ちる欠片を浴びる彼女は力なくうなだれている。頭からは真っ赤な血が垂れてきた。
「そこで動くな。もうやめとけ」
「……お嬢、さまに、手出しは、させない」
握り潰された足を引きずりながらも、オルガは剛拳へとにじり寄る。彼女の覚束ない足取りは、投げられたダメージの大きさを物語っていた。男はそれを、憐みの目で見つめていた。
「……そうか」
剛拳は悲しそうにつぶやくと、よろめくオルガの胸を拳で打った。
空中でワイン瓶が砕けたように、真っ赤な血がそこら中に飛び散った。オルガは突風に吹かれたように吹き飛ばされ、地面に倒れる。辺りに血沼が広がる。その中でもなお彼女はぴくぴくしていたが、とうとう動かなくなった。
「……死んだかな。まったく、無駄な殺しは嫌いだってのに。仕方がないな」
どうするか、と男は考える。焦ったように足をパタパタさせている。
「……火でもつけりゃあ出て来てくれっかな。散り散りに逃げるだろうし、そこで本命を殺して終わりにするとしようか」
男はオルガが干したばかりの洗濯物に近づく。何も知らない服たちはぱたぱたと風になびき、乾く時を待っている。
「解放。燃え広がれ」
男が唱えると手甲の妖しい宝石がさらに艶やかに輝き、紅色の炎が飛び出した。炎は容赦なく洗濯物を覆う。まだ少し湿っていたそれは、瞬く間に燃え盛る火の玉と化した。
剛拳が腕を振るうと再び宝石が輝く。どこからか風が吹き、火の玉が意志を持ったように操られ、屋敷のあちこちに襲いかかった。
瞬く間に屋敷を業火が包み込んでいく。
居間も食堂も寝室も、ソファも机もベッドも、レイシーが作った兎の刺繍も、みんなで作った商品も、図書室にある本たちも、すべて炎に舐め回され、燃え上がり始める。
「火事!? い、いったい何が!?」
「外にはオルガもいます! お嬢様、私が確認して参ります」
「わたくしも行きますわ! 外から消火します!」
住人達はすぐに火事に反応した。
しかし外に飛び出したサンディと爺やは襲い来る炎ではなく、仁王立ちしていた男に目をとめる。
「……あなたは……」
「……お嬢様、あの手は」
血に染まった剛拳の手を見た瞬間、二人は彼に敵意を向けた。
熱風の中、男と二人はにらみ合った。
「……オルガに何をしましたの?」
「俺だって嫌だったが、逆らってきたんでな、仕方なくだ。俺の本命はお前だ」
男は血に塗れた手で、サンディを指さした。
「サンドリヨン=ヴィルヘルム。お前の命を貰いに来た」
辛い展開になってしまってごめんなさい。
どうかよろしくお願いします。