ピクニック Ⅱ
「そろそろお弁当をいただきましょうか。歌ったらお腹が空いたでしょう?」
サンディは木にもたれるように座るとバスケットを開け、布に包まれたサンドイッチを二つ取りだした。
オルガお手製の、肉と野菜だけ挟んだ簡単なものだ。
少女は彼女の横に座ってそれを受け取ると大きく口を開けて頬張った。
オルガの料理は爺やと違い素朴で薄味だがその分素材のもつ味がよく判る。
パンの香ばしい味や肉の旨み、瑞々しい野菜。こんな味がしたのだな、と少女は思った。
「もうひとついかが? あなたは痩せておりますし、たくさん食べて力をつけてもらわないと、ですわ」
少女が食べきったのを見て、サンディは新たなサンドイッチを差し出してくる。
「……ん」
食べたりない少女は受け取ると、眼下の森を眺めながらぱくっ、と一口かじる。
口の中に広がる素朴な味に日陰の涼しさ、心地よい風が歌い疲れた身体を癒してくれた。
その時、地面から何かが少女の手に飛んできた。
「わっ!?」
「あぶないですわ!」
驚いた少女が落としたサンドイッチをサンディは慌てて受け止める。
「いったいどうしましたの?」
「……ん」
少女が指さした先には小さな緑色の昆虫がいた。細長い胴にさらに細い触覚のついた頭、くの字に曲がった脚を持つその虫は今は動かず、草の間でじっとしている。
あんなマリーや森の小鳥よりも小さな物でも生きて、動いていたのか。少女の表情は驚愕を隠せない。
「ああ、あれはバッタと言うのですわ」
「ばった?」
「ええ、バッタ。私達とは違う、昆虫という種類の生き物ですの。あの何本もついてる細長いのはわたくし達でいう脚にあたりますのよ」
そう言いながら、彼女は少女の脚をぽんぽんと示すように叩いた。
脚が沢山ついた生き物であるらしい。もし自分もあんな風に脚が沢山あると動きにくそうだ、と少女は密かに思う。
「それで、あの脚だけが他とは違って大きいでしょう? あの脚で跳ねて移動しますのよ。それに驚かされたみたいですわね」
確かに一組の脚だけが他よりも大きく、長い。小さいながらも強さが感じられた。
「よく見えなかったでしょうし、もう一回見せてあげますわ」
サンディは救ったサンドイッチを一旦置くと動かないバッタの後ろにそっと近づき、手で包むようにして閉じ込めた。
一瞬の静寂ののち、彼女が閉じた手を開く。その中から、ぴょんっ、とバッタが勢いよく飛んできた。
その高さは小さな体に秘められた力を証明するかのように、座っている少女を軽々と飛び越している。
「おおーっ!」
「ふふっ、すごいでしょう。ほかにもいろんな生き物がいますわよ。今度、紹介してあげますわ……って、あら?」
サンディの話が終わらないうちに少女は自分もやってみようと、着地したばかりのバッタを捕まえるべく手を伸ばした。
背後から捕まえられたバッタはあっさりと少女の手に挟み込まれる。少女はわくわくしながら手を開いた。
そこからはバッタは飛び出てこなかった。
おかしい、と少女が手の中をのぞくとバッタは少女の手の中で、黒い体液に塗れて動かなくなっていた。
あの力強かった大きい脚もちぎれており、少女の手の隙間からぽろり、と地面に落ちた。
「……?」
いったいこのバッタはどうしたというのだろう?その少女の疑問に答えを与えるかのようにサンディが話しかけてくる。
「……そのバッタ、死んでしまいましたわ。あなた、加減ができなかったようですわね」
その声色は楽しげなものではなく、冷静に、少女を諭すかのようだった。
「シンデ? カゲン?」
「いいこと? あなたが手で潰してしまったから、バッタは死んでしまったの。死ぬ、というのは命が終わって、動かなくなること」
サンディのいつもとは違う真剣な表情に、少女は思わず身を固くする。
「爺やの人形劇を覚えているかしら? 死んだ命は冥界に送られて生まれ変わる、と言ってましたけど、それは誰も確認したことのない不確かな事。死んだ命は生まれ変わっても元どおりにはならないのですわ。このバッタが同じバッタとして生きることは、もうないの」
自分が知らぬうちに命を奪っていたと気づいた少女は、もう一度、手の中で平たくなった足のない虫の死骸を見る。
このバッタはもう跳ばない。力強く跳んで、こちらを驚かせることはもうない。
そう思うと胸にぽっかり穴が空いたような、胃袋がじんじんして沈んでいくような、不快な感覚が湧き上がる。少女は顔をしかめた。
「その気持ちは『悲しい』と言うのですわ」
「カナ……シイ?」
少女の表情から心の中を察したサンディが、この気持ちの名前を教えてくれた。
「心の動きにも名前がありますの。あなたはきっと、自分を楽しませてくれたバッタにもう会えないことが寂しくて、悲しいのでしょう?」
悲しい。このもやもやした感覚は悲しいというのか。しかし、それを知ったからといって感情が収まるはずはない。
「んんぅ……」
小さな虫に対してとはいえ、取り返しのつかないことをしてしまったという自覚がちくちくと胸を苛む。
がっくりとうなだれ、自分の影を見ているとふと、優しく自分の身体が抱きしめられた。
「あなたは優しいのですわね。大丈夫ですわ、顔をあげてくださいな」
顔をあげるとサンディの穏やかな笑顔が少女に向けられていた。
「そんな顔をしないで。誰でも、知らぬうちに過ちを犯すことはあるものですわ。だからこそ、その経験を次に活かしていけばよいのです。そうして人間は強くなっていくのですわ」
出会った時と変わらないサンディの笑顔は、青空の中の太陽よりも眩しく見えた。
その輝きが胸の中の雲を消し去っていく。少女は顔をあげた。
このバッタの命を無駄にしないように、次こそは気を付けよう、と心に誓った。