安息が脆くも崩れ去る Ⅰ
時は少し遡る。「巨人の歯型」の近く、漁村の入り口の茂みに、二人の男が潜んでいた。
「なあ、いいのか? 領内で始末しろって言われたばかりだろう」
「それだと一度しか死合いは味わえぬ。味見くらいは良かろう? それともお前が拙者の相手をするか?」
「まったく……」
貴族の屋敷にも同行したこの男は周りに知られるような高名こそないが、コルベスの部下の中では一目置かれている。
周囲が怯えるほどの戦闘力と気迫を持つアクロの見張りを任されている所からもその信頼が伺えた。
「所詮は女子供、どこかで休みを挟まねば旅はできまい。まして我々との死合いを控えるとなればもっての外」
「それで、一番俺達の領地を攻めるのに良い休憩場所がここだと思ったわけか?」
「左様。……見ろ、奴らが来たぞ。的中だ」
坂を上ってやって来る、外套を羽織った三人の人影。遠目からは大人に見えるが、アクロの鋭い観察眼は狙いの少年少女であることを早くも見抜いていた。
「やれやれ……俺はあんたが恐ろしいよ」
男は呆れたように首を振った。
こう言いつつも、最初の時より恐怖は薄れている。アクロは確かに危険な男だが、戦いが絡まないことに関してはとことん何もしてこない。見張りを続けているうちに、そのことがわかってきたのだった。
「で、どうすればいいんだ? 少ないけど、兵は向こうに控えてるぞ?」
「今は時を待つがよかろう。少しばかり惰眠を貪るがいい。味見は今宵よ」
舌なめずりをするアクロに、男は少し考えて言った。
「じゃあ、俺もあいつらにメッセージを送るとしようか。少しでもあの方に有利になるようにしなくっちゃな。お前にもいい案があるぞ」
「ほう?」
「怒りは力だ。あいつらをもっと怒らせれば、いい『死合い』ができるんじゃないか? それでだな……」
その晩は楽しかった。
貸してもらった宿で、歓迎のパーティが行われた。スープにムニエルなど美味しい魚を使った料理や、野草で作ったシチューがレイシー達を出迎える。どれもとても美味で、ヘンデルとグレイルも新鮮な魚に舌鼓を打っていた。漁師や村人たちは笑いながら酒を飲んだり、冗談を言い合ったり。旅人という新しい風が吹き込んだ彼らの話の種は尽きることが無いようにも思えた。彼らは気前が良く、ごつごつした手で頭を何度も撫でてくれた。乗ってきた馬に餌をやりに行くと、彼らも嬉しそうにひひん、と嘶いた。
小さな宴が終わると、レイシーとグレイルは共に寝室にやって来た。
「ふぅー。おなか、いっぱい」
「おやすみ、レイシー。いい夢を見てね」
「おやすみ、グレイル」
これから戦いに行くとは思えないほど、幸せな一日だった。
魚をたらふく食べて膨れた腹を抱えながら、レイシーは目を閉じる。素朴ながら寝心地のいいベッドだった。
「……イシー! レイシー! 起きて!」
そんな心地良いまどろみは、グレイルの声によって終わりを告げた。
「グレイル……? なあに?」
「村が燃えているわ!」
「……なんだって!?」
後頭部を殴られたように眠気が吹き飛んだ。
慌てて服を纏い裸足で外に飛び出すと、熱風が顔に吹き付けた。真っ暗な夜闇の中、大きな炎があちこちから煌々と上がり、村を侵略している。
「畜生、何だってんだ!」
「火を消せ! 子供と年寄りを先に助けるんだ!」
「駄目だ、もう消すのは間に合わん!」
あれだけのどかだった村人達が、鬼気迫る声で叫びながら走り回っている。
「二人とも、無事か!」
「兄上! ええ、何とかこちらは無事です!」
「ヘンデル、いったいどうなってるの!? なんでこの村がこんなことに!」
「……考えたくないだろうけど、後をつけられたか、来ることを読まれていたかだろう。とにかく、この村の人たちを助けよう!」
「ええ、兄上。協力するわ!」
「わたしも行く!」
ヘンデルの考え通りだと、狙われているのは自分たち三人。混乱に乗じて一刻も早くここを離れるのが正解であったのかもしれない。
しかし今の三人には、村を放り出して逃げるなどということは考え付きもしなかった。
「僕は皆の避難を誘導する!」
「私は厩舎まで馬を迎えに行くわ!」
「わたしはグレイルについて行って、逃げ遅れた人を助ける!」
火の粉の降り注ぐ中、二人の少女は全力で走った。
レイシーは火事が嫌いだった。
火は人の手の制御を離れると、周り一帯を焼き尽くす恐ろしい怪物となる。そんな化け物に家が抱擁され、舐め回されているのを見ると、嫌でも大切なものを失ったあの時の事を思い出してしまう。
失ったからこそ、前を向いて生きると決めた。助けられなかったからこそ、この村を助けたいと思った。それでも似たような状況に置かれると、周りは炎で包まれているのにどこか体が冷え、震えているように感じるのだ。
しかし今回はその感情に気を取られていたおかげで、針のように裸の足を痛めつける地面の石の痛みに耐えることができたのかもしれない。
何人か倒れていた人を助け起こし、怪力で開かなくなったドアを破壊して村人を救出した。
そして、二人は厩舎にたどり着いた。幸い、ここまで火はかかっていないらしい。
「え」
「あっ……」
二人の少女は絶句し、冷や汗をこぼした。
馬の首が無い。乾燥した草を真っ赤に染めながら、二つの大きな肉の塊が力なく倒れ伏している。
これだけ分厚い首をすっぱり切断したという事は。
「ほうほうほうほう、これはこれはこれは。もう腕は戻ったか」
闇から現れたのは、刃のような冷たい男。レイシーの腕を斬り飛ばし、グリムの命を奪った、アクロだった。
「怪物の名に恥じぬ回復力だな。うぬが剣の使い手ならばよき死合いができたものを……」
アクロはくわ、と細い目を見開いて、レイシーの腕に鋭い視線を突き刺した。