プロローグ
「んだよこれ……。」
朝、七時五十分。一軒家の二階にある俺の部屋。キャッチコピーは「人と人との対話術」。
「もうやめだ。無駄な買い物をしちまった。」
苛立ちに身を任せ思いのままに本をゴミ箱に投げ捨てる。捨てた後で本はしっかり纏めて捨てるんだったと後悔する。ただただ単純に人と仲良く話せるコツが知りたかっただけなのに。それとも本一つで人間が変わると信じていた俺がバカだったってことか。
「お兄ちゃん。もう五十分だよ!」
ドッタンバッタンと音を立てながら階段を登り、俺の部屋の扉を開けたのは妹。今正しくゴミをゴミ箱に捨てた後で心底良かったと思う。こんな本を買ったのが知られたら俺が人と会話するのが苦手だって心配されてしまう。それほど良い妹なのだ。
しかし、まぁ。もう中学生だ。それが何時まで続くことやら。どうやら思春期という時期は家族との繋がりとやらを無視したい年頃のようなのでな。
「あぁ。分かってる。ってか髪ボサボサじゃねぇか。」
妹のサラサラな髪を一撫でしドライヤーと良いお店で買ったちょっと高いピンクの櫛を使うため妹を洗面所へ連れていく。鏡を見ながら軽くセットしてやる。
「このまえねぇ。このみちゃんにゆなって可愛い髪型してるよねって言われた!」
そうだなそうだな。お兄ちゃんは嬉しいぞ。
「うし。セット終わり。」
ポニーテールに結び終わり妹を解放してやる。
「ね!早く~!」
もう既に玄関まで行った妹はどうやら俺を待っているようだ。急いで制服のボタンを閉じた俺は玄関に向かった。
両親は共働きのせいでこいつの世話は俺がしなきゃいけない。しかしそれのお陰で裕福に暮らせているわけだし。
それにこうして可愛い妹と戯れることができるしな。
俺と妹は誰もいない家に向かって「いってきます」と一言残して学校に向かった。
「お兄ちゃんまた後でね~」
妹は中学生。俺は高校生。当然のごとく別れが来る。家の前の坂を上った先には道路を狭い挟んで「デコボコ坂」と称された下り坂があるのだが妹はそっち方面に。俺はそのまま左に曲がらなければならない。なんとまぁ悲しい出来事か。妹は中学三年。俺は高校二年。こうして馴れ合えるのが奇跡だというのに俺と由奈子が一緒に登校する準備が終わる頃には口すら聞けなくなっているかもしれない。
それほど思春期は急なのだ。
「ねぇ。今のって彼女さん?」
突然話しかけられて驚き桃の木山椒の木である。
彼女はーー現在進行形で俺の思い人。の「夢原望」である。話しかけられて嬉しいのは山々だが彼女の家はこっち方面ではないはず。既に、リサーチ済みだからな。
「ゆ、夢原さんだよね。」
忘れない。一時も忘れる筈もない思い人の名をまるで今さっき思い出したように言うのは少し胸が痛い。でも、それぐらい俺にとっては”雲の上の人”なのである。
「わぁ~!嬉しい。覚えててくれたんだ?そんな君は朝村大河くんだよね!」
名前を言われただけで耳まで赤くなった気がする俺の顔。
「あ、あぁ。でさ、さっきのは妹なんだ。」
「へぇ。随分と可愛らしい妹さんだね!」
お前のがもっと可愛いよ。なんてキザな台詞言えるわけもなく「じゃ」と手を振って去ろうとしたときだった。
「アンタ、望になにしてんの」
橘司。こいつは学校で結構有名な奴だ。しかも悪い意味で。けれど夢原とはとても仲が良いことでも有名だ。夢原に話しかけづらかった原因の一つでもある彼女。背は小さく女っ毛も感じない。
「たまたまそこで会っただけだよ。な?夢原さん。」
ちょっとグイッと近づき過ぎたせいか「ひゃ」っと声を上げる。これはーー
「この痴漢がぁぁぁ!!!」
まずかった。
「ご、ごめんね。朝村くん。また後で~」
生まれて初めて女子にアッパーを喰らった記念日。ついでに始業式。
そんな情けない俺の横を通り掛かったのは”龍助”だった。
”長田龍助”。幼稚園からの大親友だ。
「こんなところでひっくり返ってなにやってんだお前」
俺が聞きたいね。そう言って肩をすくませる元気もない俺は龍助に手を貸してもらいやっとのことで起き上がる。制服についた汚れをパンパンと落とし一言。
「怖い犬に噛みつかれたんだよ」
龍助はなんだそれ、と言って笑った。
今日は快晴ったら快晴。空には雲ひとつなくこの季節だとちょっと恥ずかしがりやの太陽が顔をだしていて風は殆ど吹いていない。散り際の桜がそっと舞い降り地に落ちた。
今日は見事な始業式日和。
今年も一緒だな。よろしくね。はじめまして。
俺はというと椅子に腰かけ、椅子の前足を僅かに浮かせ、背を僅かに反らし天井を見上げていた。足は見事に無意識貧乏揺すり。先生が来るまで後五分。そのくらいといったところか。
「相変わらずだな。大河。」
今年も同じクラスになれた大親友の長田龍助に俺は笑顔で答える。ちなみに機嫌が良いのだ。四六時中ニヤニヤしていたいほどに。
それはもちろん龍助と同じクラスになれたことがではない。そんなのせいぜい「今年も一緒だな」と肩を組み合う程度だ。
本当に嬉しいのはーー。
「あっ。大河君。今朝はごめんね~」
「あ、あぁ。いいんだ。別に気にしちゃいない。」
ーー嘘だろ。
「でも顎赤くなってるよ。」
それはあまりに唐突な女神の来襲だった。
俺が直視して良いのかと思うくらいの眩しい笑顔で、台風のように突然現れて。緩やかに去っていった。
そんな、彼女に俺は惹かれている。
無性に開きたくなった携帯。その名を康子ちゃんの電話帳には家と妹と母、そして父だけ。いつかここに夢原と刻まれるように俺は頑張りたい。
ちなみに康子ちゃん名付け親は亡くなった俺の爺ちゃんである。なんでも好きだった人が使っていた同じ色だとか。
ちらりと前の方を見ると夢原が楽しそうにしているのが見えた。その隣にはふて腐れた顔をしている橘がいて。橘の持っていた携帯はーー。
俺は母親似なのかもしれないと思った。