表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ジャックの弾丸

作者: 濱野乱

1 


潜在意識というものの存在をご存知だろうか。意識の表層には、浮かび上がってこない隠れた願望のことである。

この潜在意識は思いの外、強い影響力を持つらしい。ひっこみ思案の癖に、ボーリングでストライクを出してくれたり、宝くじに当選したりと大活躍。

でもちょっと待ってもらいたい。私は、本当にそれを望んだのだろうか。それを証明することは、残念ながら不可能だ。

ボーリングでストライクを出せれば、それは気持ちがいい。しかし、ボーリングでピンを倒したくないと思ってもいいじゃないか。 その境はなんなのか。誰が決めるのか。

要するに私のひねこびた感性は、潜在意識という正体不明の存在に恐れをなしている。

そして忘れてはならない。隠れた願望というのは、時に諸刃の剣であるということを。私は、望んでもいない結果を引き起こす可能性を秘めた爆弾であるかもしれないのだ。 

私こと、森下千里はそんなことを思って、銀行預金をおろそうとしていた。銀行のカードを入れて暗証番号を入力したのだが、預金残高がほとんどない。

今日は、月半ばで手取り十四万円の給料は振り込まれていないのは当然だとして、あまり財布に余裕のない身には堪える。

森高千里と呼び間違えられるけど、私はまだおばさんではなく二十一歳である。とある小さな文具メーカーで事務をしている。人付き合いはあまり得意な方ではない。

職場で「森高さん! ランチ行こうよっ」とハイテンションで誘われ、うっかり「おかまいなく」と言ってしまった私の居場所は、もはや少ない。

私は今の職場に来る以前、とあるお宅で住み込みの家政婦をしていた。中学校を卒業してすぐ、四年間勤めて退職した。退職理由は給料が支払われなくなったためだ。

食事は出ていたものの、人はパンだけで生きるにあらず。私はそのお宅を出て、今の仕事に就いた。

給料の未払いは、二年たった今でも続いている。しかるべき所に訴えれば、支払ってもらえるだろうが、あまり大事にしたくないため、泣き寝入りしつつある。

「それも今日で終わり」

私はお気に入りの白い日傘を差して、かつての勤め先にふらりと出向いた。

日差しの強い、七月のある日のことである。


 2

  

飯岡家は、かつて海運業で富をなし、飲食、金融など事業を拡大した。

しかし、代替わりするとその事業も傾いて、陽が落ちるように家運は下降線になりつつある。私は、薄情にもその船から脱出した。まだ若いし、チャレンジしたいし。

敷居が高いとはまさにこのことか。長い坂を上りきった先にある洋館の門扉に私はいた。 青いノースリーブのブラウスと白のフレアスカート、サンダルという格好だ。

私の背の二倍くらいの高さの門柱には、まよけのガーゴイルが乗っていて、にらみを効かせている。

じゃり、じゃりと、庭の白い小石を踏みしめて、玄関へと向かう。途中には、堅牢そうな樫の木があって、天空へと枝を伸ばしている。

この家の坊やが登って、大騒ぎになったっけ。そのくらい高くて立派な木だ。時々、業者の人も登って降りられなくなる、そんな立派な木である。

玄関まで五十メートルくらいあって、道もまっすぐでなくて、うっすら坂になっていて、しんどい。

両開きの扉の前に立つ頃には、私は汗びっしょりになっていた。傘をたたみ息を整える。

三階立ての洋館は明治時代に建てられたものを改築したものだ。部屋数なんと二十八。七の段が好きな旦那様の趣味らしい。

ドアの取ってを思い切り両手で引っ張ると、うにょうにょと私の上腕骨が、たわんできしんでジャンプする音がした。

「立て付け悪いなあ、直せばいいのに。金は・・・・・・、ないのか」

他人事ながら、しんみりしていると、汗が滴って気持ち悪い。このままでは干物になりかねない。意を決して、ほいほいと二度蹴ると紙が破れる音がして扉は内側に折れるように開いた。

屋敷の中は「差し押さえ」という赤い紙が隙間なくびっしり張られている。

ロダンの考える人も、シャガールの黒い月も皆隠れんぼしている。可哀想だから、赤紙をそっと一枚はがす。

「あら、誰かと思えばちーちゃんじゃない」

螺旋階段の上から、黒いドレスの麗人が私を見下ろしている。

「おひさしぶりです。八重さん」

私はにこやかに挨拶をして、扉を後ろ手で閉めた。屋敷は赤一色に染まった。

 

 3


この家の家政婦である富坂八重さんと私は、旧知の間柄だ。元同僚なのだから当然だが、私は彼女と顔を合わせたくなかった。

彼女は私より年上で、先輩に当たる。特に負い目はないけれど、人を食ったような態度にあまり馴染めなかったのが、その理由である。

ダイニングと一体となった広いリビングに通されたものの、そこにも差し押さえの魔の手が伸びていて、いっこうに落ち着かない。壁にかかった抽象画に張られた差し押さえの紙が、冷房の風で情けなく揺れている。

私がソファーに腰を下ろすと八重さんが、すかさずお皿をテーブルに置いた。

「さあさあ、ちーちゃん、お菓子を召し上がれ。私のじゃないけど。ホホホ」

有閑マダムみたく上品に笑い、八重さんは高級和菓子を勧めてくる。椿の花そっくりのそのお菓子は、これみよがしに紅をはたいた貴婦人のようだ。

「いただきます」

私は甘いものに目がない。反射的に手を伸ばしていた。

「どお? お味は」

私が懸命に咀嚼するのを尻目に、八重さんはブランデーのボトルを開けている。それにも差し押さえの紙が貼られているのだが、八重さんはボトルに直接口をつけ、一気に半分ほど呑み干してしまった。

「何かぱさぱさします」

私は素直な感想を述べた。口の中では花弁が阿波踊りをしている。お菓子の食感からは程遠い。

「そりゃ、当然よ。本物の椿の花だもの」

「わっ!」

私は椿を吐き出した。八重さんがけたたましく笑う。

「やーねえ、ちーちゃん。本物のお菓子なんてこの屋敷に残っているわけないじゃない。みんな私と恋君が食べちゃったわよ」

「相変わらず人が悪いです、八重さん」

椿の花をお菓子だと言われて素直に口に運んだ私の無頓着さが一番の罪に当たるのだが、黙っておいた。

「恋君は元気ですか?」

私は、話題を変えようとこのお屋敷の一人息子である飯岡恋太郎君の近況を訊ねた。私が出ていった時、恋君はコーヒー豆みたいに小さくて堅そうな子供だった。とても私に懐いてくれて、泣く泣くお別れしたのだ。

「恋君ねえ、最近身長が170センチ越えたのよ」

「ええー、もう私より高いじゃないですか。まだ中学生ですよね」

あれから四年かあ。会わない子供の成長は本当に早い。

感慨に耽っていると、とろんとした瞳の八重さんが徒っぽく訊ねる。

「ねえ、そんなことより、ちーちゃんさあ、感じ変わった?」

「え? 変わらないと思いますけど。何か変ですかね」

八重さんが足を組み替える。私が男なら悩殺されてしまうだろう。八重さんはそんなに若くないけど、多分過去に浮き名を流したに違いないお姉さんなのだ。

「だって、お洒落な日傘さして、スカートなんてはいちゃってー、昔は化粧っ気もなくて、ジーンズとセーターしか着てなかったじゃない。ユニクロの」

「夏なんだから、スカートくらいはきます。お給料がもらえてるんですから、何を着ようと私の勝手です」

八重さんは口からかっと、火を吐いた。酒で喉がやけたのかもしれない。ストレートで飲むんだもの。

「あら、随分大きく出るようになったのね。たくましくなって、鮭みたいに戻ってきたってわけね」

八重さんは、とろんとした目を宙にさまよわせる。だいぶ酔いが回っているらしい。私は早めの辞去を決めていた。元よりそのつもりだったし。

「あの、八重さん、旦那さまは・・・・・・」

「ああ、ちーちゃんもお酒飲むわよね。やーね、私ったら、一人で楽しんで」

「あの、そうじゃなくて……」

階下で、ドアが開く音がした。まともな話ができる人が一人でも増えるのはありがたい。 私は喜び勇んで、リビングを抜け、階段を三段跳びで下りる。

赤い玄関にいたのは、学制服を着た金髪の男の子。背が高く、肩幅も広くてがっちりしている。彼は顔を上げ、私と目が合うと、驚いたような声を上げた。

「千里さん・・・・・・」

恋君こと、恋太郎君である。挨拶もそこそこに、私たちは、管を巻いているであろう八重さんのいるリビングに向かう。

「あはは・・・・・・、見てよ。この髪! 中学デビュー完全に失敗しちゃってるでしょ?」

八重さんは大笑いしながら、隣に座った恋君の髪をわしわしと、乱暴に撫でる。

恋君は恋君で、でかい図体を縮ませ、されるがままになっている。

恋君は中学に入ると、自発的に髪を染めたらしい。ご両親は豊臣秀吉みたいな派手好きなので、大いにそれを奨励した。

久しぶりに会うと、もう大人の男なんだと思わされる。肩幅広いし、足長いし。頬骨ちょっと出ているのは、お父さんに似ている。眼光鋭いんだけど、私と目が合うと素早くそらしたりして、何だかとっつきにくい。

「変わったと言えばさ、ちーちゃんのこれどうよ。スカート短いと思わない?」

八重さんがにやにや笑って私のスカートを指すと、恋君が顔を背けた。

もうあまり私に関心ないのかな。昔は、「お姉ちゃん、マリッジしよう」とか言って、膝の上に乗ってきたのだけれど。

恋君が突然、八重さんに厳しい目を向ける。

「千里さんが困ってるじゃないですか。やめてあげてくださいよ。富坂さんって、人の嫌がることしかしませんよね」

意外と理路整然な物言いに、八重さんは押し黙った。

あれ? 私守ってもらってる? でもあまり目を合わせてくれないんだよな。偶然かな。八重さんに腹が立っただけかもしれないしな。

八重さんが唇を尖らせる。

「ごめーんねぇ。だって気になるでしょ? こんな白い足おっぴろげられたら、嫉妬しちゃうわよ。恋君もちらちら見てたくせに」

「み、見てねーし!」

恋君は真っ赤になって席を立つと、私に一礼して部屋を出ていった。変なところで律儀だ。

「思春期って大変ねえ・・・・・・、ちーちゃんも悪いのよぉ。そんなきれいな足で誘惑するから」

「いやいや、恋君に悪いですよ。私、謝って来ます」

何を謝るのかわかっていなかったけれど、八重さんといるのに疲れた私は、逃げるように部屋を出る。

屋敷は三階立てで、一階にはお客をもてなすゲストルーム、二階はリビング、三階は家族の個室になっている。使用人の住居は離れにある。

恋君の部屋は、私が出ていった時と同じ場所にあった。扉がほんの少し開いていて、覗くのに都合がいい。都合はいいけれど、公然と許されているわけではない。それでも私は恋君のプライバシーの誘惑に負けた。

恋君は制服のまま、ふかふかベッドに寝ころんで、漫画雑誌を読んでいる。壁にはサッカー選手のポスター。床には何も落ちていない。ちょっと片づきすぎ。減点。

「恋君、入っていい?」

恋君は、小さい声で、「はい」と言った。私がずかずか遠慮なく部屋に入っても、涼しい顔で漫画を読んでいた。

本棚には、ヘッセとか、モーパッサンとか、お堅い岩波文庫が脈絡なく収められている。机の上には「やさしい物理」という本が置いてあった。

クローゼットから布みたいなものが、はみ出ている。慌てて押し込んだな。ベッドの下にも何かありそう。

「あの、千里さん・・・・・・」

恋君がベッドにきちんと座り、遠慮がちに話しかけきた。

「ん?」

私は、何食わぬ顔で恋君の隣に座った。恋君の手の近くに左手を置いて、右手で煽って風を送る。クーラーをしていないから、湿度が高く蒸し暑い。

「千里さん、今日は親父のことで来たんですよね?」

「うん、まあそんな感じ」

はぐらかしたけれど、まさしく金銭がらみが来訪の目的だ。恋君の耳には入れるのは先延ばしにしたかったけど。もう子供じゃないんだし、あまり気を配るのも変かもしれない。

こうして二人でいると、気持ちが和む。我が家に帰ったような心持ち。さしずめ恋君は弟かな。

「恋君は大きくなったねぇ。今何センチ?」

「173っす」

私の身長、156。あっさり抜かれたなあ。最近の子は発育がとてもいい。

「すごいもてるでしょ」

「いや、そんなことないです。クラスの女子に興味ないっす」

「え? それって・・・・・・」

私が目を白黒させていると、恋君は弁解がましく早口になる。 

「あ、いやそういう意味じゃなくて、周りはガキっぽいっていうか、今はサッカーに集中したいし」

恋君は声を落とした。私は話題を変えようと部屋を眺めた。ベッド脇に丁度おあえつらえむきの素材を見つけた。

「この本、まだ持ってたんだね」

私が手に取ったのは、カフカの「変身」という本。私が出ていく前に恋君に貸したのだ。まだ小さい恋君には早いと思ってたけど、読んでくれたのかな。

「千里さんが好きだって言ってたから、俺もはまりました」

恋君は、はにかみつつもやっと私の顔を見てくれた。見た目が変わっても、恋君は私が出ていった時のままだ。素直で嘘がつけない。

「そう、気に入ってくれたのならよかった。君もグレーゴルみたいにならないようにね」

私は冗談めかして、恋君の鼻をつついた。

変身の主人公、グレーゴル・ザムザはある朝目覚めて、仕事に行こうとすると虫に変身していた。突然のことに家族は当惑する。家族は、ザムザの世話をしようとするものの、しだいに彼を疎ましく思い始めるのだ。

「俺はもうグレーゴルなのかもしれない」

「えっ?」

唐突に恋君が、年に不相応の深刻な皺を額に刻んだ。何事だろう。

「君は虫なんかじゃないよ。だって、ご両親に大事にされているじゃない」

「そんなことないっす・・・・・・」

私は馬鹿だ。恋君が家の内情を知らないわけないじゃないか。家の家具が差し押さえられるほど逼迫した財政状況が彼に悪影響を与えているのは、子供でもわかる。心細い日々を送っているのだろう。

私は恋君の頭をやさしく抱え、膝の上に載せた。彼の肌は汗ばんでいたけれど、全然不快じゃなかった。彼の痛んだ髪に指をはわせる。

「恋君。昔、恋君が、樫の木に上って下りられなくなったの覚えてる?」

「えぇ、はい・・・・・・」

恋君は上擦った声で返事をした。私は気づかないふりをして頭を撫で続ける。

恋君の部屋の窓のすぐ外に樫の木があるのだ。今でも頑張ればこの部屋に上がってこれるだろうか。

「あの時、君のお父さん、チェーンソー振り回してさ。樫の木を切り倒そうとしたの。私はジャックと豆の木みたいに、恋君は一人で戻ってこれます。男の子ですからって言ったんだけどね」

私の予想通り、恋君は時間をかけて一人で下りてくることができた。私の胸でえんえんと泣いていたけど。

「皆、君の帰りをちゃんと待ってたんだよ。それってすごい貴重なことだからね。私なんか、待っててくれるのは猫だけだし・・・・・・」

私は柳のように、うなだれた。

その時はたと、気づいた。恋君の体温がけっこう深刻だ。顔をのぞき込むと、赤鬼みたいになっている。

「大丈夫? 何かすごい顔してる」

「なんでもないっす」

恋君恥ずかしがってるのかな。もう中学生だし、膝枕なんてしたら、ドンドンパララになるに決まってるよ。失敗だったかも。

「恋君、もう下行こうか。喉乾いたよ」

「あ、はい・・・・・・」

恋君は、残念そうに返事をした。可愛い。でも私の膝の上は、猫だけのものだから。

「恋君が、もし虫になっても、私は見捨てたりしないよ。もしそうなったら何か理由があるんだよ」

私だって、子供の頃は、オードリーヘップバーンに憧れていた。大人になったら、シャネルみたいにバリバリ働いて、恋をするぞと息巻いていた。現実は窒息しそうなほど気詰まりで、虫になった方がましだと思う時もある。

私が気鬱な顔をしていると、恋君が起きあがっていた。彼は、はっとするほど生真面目な顔をしていた。

「千里さん、変わりましたよね。うち出てから何かあったんですか?」

私は恐れおののき、恋君のベッドに倒れた。老けたのかもしれない。三十まであっという間だしな。

「千里さん?」

起きあがらない私を不審に思ったようで、恋君が顔をのぞき込んでくる。

「平気だよ・・・・・・、こうして倒れたままでいるとね、楽なんだよ」

「カフカみたいっすね」

恋君もカフカに染まってきたな。善き哉。倒れたままでいると、何者も手出しできなくなるのだ。偉大なる先人の知恵である。

さて、今度こそ、下に戻ろう。そう口を開きかけた時、階下で摩訶不可思議な物音が響いた。

ひっー、ひゅー、と長い人の呻きのようだった。そして、ガッチャンコロリという物損ありの報告音が私と恋君を脅かす。

「き、きっと、八重さんが暴れてるんじゃない? 酒乱だし」

「だ、だといいっすね」

私たちは、摺り足で階下へと向かった。リビングの扉をそっと開き目にしたものは、立ったまま両手を上げた八重さん。彼女の唇の端がわずかに痙攣しているのは、私の見間違いだろうか。

私たちは、額を寄せてひそひそと話し合った。

「何してるんだろ。ねえ恋君、おどかしてやろうよ」

「えー、後で怒られないですか?」

「君だって、散々八重さんにいじられてるでしょ? 日頃の鬱憤を晴らすチャンスだよ。やろやろ」

私は、恋君を半ば無理やり悪事に加担させた。やると決めたら、行動は迅速だ。勢いよく扉を開け放つ。

「わっ・・・・・・!?」

リビングにいたのは、八重さんだけではなかった。もう一人は、見たことのない男だ。禿頭で五十代くらい。背広を着ていたがネクタイはしていない。

私の目は、彼の手元に吸い寄せられた。リボルバータイプの拳銃が八重さんに向けられていたのだ。

謎の人物は私に気づくと、素早く銃口をこちらに向けた。私は悲鳴を上げることもできずに、両手を上へ。恋君も私と並んだ。

「う、うご、動くな・・・・・・」

男は、もごもごと口を動かした。目は充血していたし、頬はこけている。やせていてどう見ても強そうじゃなかったけれど、彼の人差し指一つで我々の命運は決まってしまうのである。

声を出す者はおろか、身動きをする者もいない。無為な時間が経過していく。拳銃男に事情を説明して欲しいのだけど、彼は八重さんと、私に交互に銃を向けるだけなのだ。

銃口を向けられるたびに八重さんは、ひゃあとか、きゃんとか、おもしろい悲鳴を上げる。多分わざとやっている。私は何度も笑いそうになり、八重さんを心の底から恨んだ。

幸か不幸か、私の我慢大会は唐突に終わりを迎えた。私と寄り添うように立っていた恋君が、男に向かって猛虎のように突っ込んでいったのだ。制止する暇もなかった。

男は恋君の急な動きに、驚いたように大きく肩を動かした。銃口が轟音と共に火を吹く。恋君ぱたりと倒れる。

私はへたりこんだ。八重さんは目をつむり、現実から逃避していた。

「う、動くなって、言ったじゃないか・・・・・・」

男は首を振り、つぶやいた。自責の念はこもっていない。あたかも急に飛び出してきた恋君が悪いかのようだ。まるでひき逃げ犯のような言い訳に、私は危うく男に飛びかかろうとするところであった。そうしなかったのは、拳銃の餌食になったはずの恋君が、むっくり起きあがったからだ。

「こ、恋君・・・・・・」

私は這いずって恋君の元に向かい、抱き抱える。恋君は汗びっしょりだったが、無傷である。でも大きく目を見開いており、精神的なショックを受けているようだった。

「何よぉ、空砲?」

八重さんが嘲るように言って、男に一歩近づく。男は何度も拳銃を我々に向けたが、動じないのを悟ったのか膝をついた。その際、拳銃を落としたので、私はそれを拾って部屋の端に移動した。

 

 3


拳銃男は新井と名乗った。我々は彼を拘束することをせずに、ソファに座らせた。その向かいに私と八重さんが座り話を聞くことにしたのだ。新井は拳銃を失った途端、意気消沈してソファに体を沈めた。

ちなみに拳銃は本物だった。運良く弾丸は、恋君をかすめて壁を穿つ被害ですんだ。こんなものどこで手に入れたんだか。

「どうしてこんなことをしたんですか?」

私が訊ねても、新井は俯いて返事をしない。私は少しむっとして非難の声を上げそうであった。

八重さんが私に目配せしてから、ボトルの瓶を取った。

「まー、まー、こんな取り調べみたいなことされたら、誰だって戸惑うわよね。お酒でも飲んだら?」

新井は虚ろな目をしていたが、やがて渋々八重さんのついだ酒を受け取った。

「私は恥の多い生涯を送ってきました」

と、太宰治のような前置きをして新井の口から語られたのは、彼の半生だったが、ここではあまり重要とも思われないので、私の方で省略させていただこう。

簡潔に纏めると、彼は仕事を失い、家庭も失い、飯岡家を恨んでいるということだ。

八重さんの知るところによると、恋君の父親であるこの家の旦那様は、役員会で社長の座を追われた。長時間労働や、残業代未払いなどの問題が世間に明るみになり、その責を負わされたのだ。税金も払えなくなり、この家も競売にかけられる。

「まあ、大変だったのねえ。さあ、もう一杯どうぞ」

「どうも・・・・・・」

八重さんのファインプレーにより、新井の顔が段々赤くなってきた。杯をあけるペースが早くなり、もう一息で落ちそうだと誰もが思った。ところが、彼はダイニングで銃を調べていた恋君の顔をまじまじと見つめると、乱暴に立ち上がった。

「そんなところで! 立ってないで、座ったら」

突拍子もない大声に我々は、身震いした。新井にしてみたら単なる気遣いだったのかもしれないが、この状況では、脅威を与えずにはいられなかった。

恋君は一度、怯んだように後ろに後じさった。私は顎をしゃくって、部屋から追い出そうとした。だが、恋君は唇をしっかりと結び、私と八重さんの間に腰を下ろした。

「新井さんとおっしゃいましたよね? 貴方は父を殺そうと思ったんですか?」

「君は? もしかして・・・・・・」

恋君は決然と頷いた。

「自分は飯岡家の長男です」

新井は頭を抱え、首を振った。目標を目前に討てずに、悔しかったのかもしれない。

「私にも君くらいの息子がいたよ。でも、もう会えない」

恋君は頭を垂れた。私は居たたまれなくなり、その肩を抱いた。新井のすすり泣く声が響いた。八重さんはそれを冷ややかに眺めている。

「すみません、親父の代わりに謝らせてください」

「君に謝ってもらっても何にもならない・・・・・・よしてくれよ」

どうしてこんな愁嘆場に、出くわすことになったのだろう。私はただお給料をもらいに来ただけなのだ。八重さんも退屈そうに爪を眺めていた。

「自分に何かできることはありませんか」

「ない」

恋君は責任感の強い子だ。本来必要のない重荷も背負い込んでしまう。損な性格だよ。お父さんの無頓着さを見習えばいいのに。

「あるわよぉ、恋君にもできること」

一際、熱を感じさせなかった八重さんが、口を開いた。にやにやしながら、恋君の顔をのぞき込む。

「新井さんと同じ気持ちをお父さんに味あわせるのよ。それは恋君にしかできないわぁ。やってみない?」

私はとてつもなく嫌な予感を感じ、肌が泡立った。恋君は私のそんな予感をよそに八重さんの話を聞く姿勢になっている。

私は倒れたままでいるべきだった。このお屋敷に足を踏み入れるべきではなかったのだ。


  3

 

白い軽自動車の車内に、二人の男女がいた。一人はちょっとこぎれいな身なりをした若い男。運転席に座り、ブランドものの白いスーツを着て、ブランドもののネクタイを締め、ブランドものの革靴を履いていた。手は女性のようにほっそりとしていた。本人もそれを気に入っているらしく、手入れを怠っていないように見えた。

もう一人は白いフリル付きドレスを着た白雪のような少女。豊かな金髪を肩に垂らし、精緻なビスクドールのような可憐な容姿は、日本人ばなれしている。助手席に深く座り、膝の上にノートパソコンを置いて軽快にキーを叩いている。

「ねえ、魅魅君少しいいかな」

「あ、無理です。後にしてください」

少女は男に控えめに呼びかけられても、ノートパソコンから目を離さない。ピアノの鍵盤を遊ぶように指は、キーを叩き続けている。

男は呆れたように首を鳴らした。

車は路肩に駐車している。鬱蒼とした木々が脇にあり、車内にいても蝉時雨が耳朶を打つ。

「蝉ですら、己の職務を全うしているというのに、君ときたら・・・・・・」

「お言葉を返すようですが」

魅魅が、青い隈のできた目を上げた。明らかに気分を害した風である。

「今は休憩中です。私が何しようと私の自由です。パワハラの意図がなかったにせよ・・・・・・」

「ああもうわかったわかった」

魅魅の早口を遮るように、男はうるさそうに手を払った。魅魅は何事もなかったように、パソコン作業に戻った。

「この間の合コンどうでした? 古手川さん」

しばらくして有栖宮魅魅が訊ねると、古手川宗一は口元を押さえ、窓の外に目をやった。

「君が答えたくないことがあるように、僕にも答えたくないことがあるのだ」

「それならいいです。聞かなくてもだいたい想像つきますから」

魅魅の素っ気ない態度を前に、古手川は喋りたくなる口を押さえることができなかった。

「しょうがないなあ、そんなに知りたいなら教えてあげよう。僕が席につくやいなや場の空気が変わったのだ」

「それはそうでしょうよ。あんな黄色いスーツ着てったら、誰でも目がチカチカします」

古手川は自分の膝に目を落とした。それだけで合コンの結果は惨敗だとわかる。

「・・・・・・、僕の何がいけないのだろう。だって仕事は公務員、茶目っ気もある。女性への配慮も欠かさない」

「自分の欠点を欠点と認めないのが、警部の一番の問題点だと思います」

古手川宗一は、若干二十七歳で警部に昇進した。異例の昇進の背景には、幾多の難事件を解決したことにある。

だが、性格は奇々怪々で、分裂病ではないかと疑われている。警部補の魅魅ですら古手川のことをよく思っていない。

「ねー、魅魅君ー、また合コンセッティングしてくれよー、今度はCAがいいな」

「少しは私の事も考えてください。人集めは、もうたくさんです」

魅魅は小さな肩を丸める。彼女も彼女なりに気苦労を重ねていると思われる。と、仰天したように少し腰を浮かせた。

「あっ、PCのバッテリーが切れそうです。電気のあるところまで走ってください」

古手川がほくそ笑む。

「まるで電気仕掛けのアンドロイドみたいな台詞だね。萌えるじゃないか。それじゃあ、僕のお願いも聞いてくれるよね?」

魅魅は拳をぎゅっと固め、頷いた。その時、車内無線に連絡が入った。付近で、傷害事件が発生したようだ。強盗らしい。家に入った所で家人と鉢合わせたようだ。被疑者は拳銃を所持し、発砲。そのまま逃走中だ。

古手川はネクタイを締め直し、ハンドルを握る。

「やれやれ、では行くとしよう」

「向かう先に電気はあるでしょうか」

「多分ね」

二人は事件現場とされる屋敷に、急行した。屋敷の周りには高い塀がそびえており、隔絶されていた。門柱に飯岡と表札がついている。よく手入れされた庭が訪問客の目を楽しませようと広がっている。彼らより一足早く救急車が到着していた。

魅魅はウサギのように素早く車外に転がり出ると、首を目一杯後ろに倒した。洋館の赤い屋根が目に付いた。

「おっきいお屋敷ですね。何だか気後れしそうです」

古手川が亀のようにのろのろと、車外に出て曖昧に頷く。

「僕の家の方が、もう少し大きいよ。僕は旧華族の家柄で・・・・・・」

「はあ、貴族のような方が住まわれていそうですね。早く事件現場を保存しませんと」

魅魅は、古手川の何百回目の自慢を軽く流す。合コンでも同じ話をしたのだろう。あきれられて当然だ。

二人は、汗をかきながら庭を横切った。年季の入った樫の木を、古手川が注意ぶかく眺めていたが、魅魅に蹴られ断念する。

入り口で、インターフォンを押したが反応がない。急を要するかもしれないため、無断で入ることにする。

屋敷の両開きの扉に魅魅が手をかけ引こうとしたのだが、びくともしない。鍵がかかっているようだ。

「代わるんだ、魅魅君。僕の男らしいところを見せてあげよう」

「セクハラみたいに聞こえますよ。激しく気持ち悪いです。さっさとしてください」

古手川が扉に手かけようとした途端、救急隊の担架が勢いよく出てきて、彼を庭の辺りまではね飛ばした。

魅魅は古手川を気にかけることなく、被害者の様子を観察する。被害者は中学生の男の子だ。髪を染めて、その年の割に立派な骨格をしている。右太股に包帯が巻かれ、血が滲んでいたが、命に別状はないようだ。歯を食いしばり痛みに懸命に耐えている様子が、魅魅の印象に残った。

担架が通過する、魅魅は古手川を蹴り起こし、屋敷に入った。

十畳ほどの広い玄関には、二十代くらいの女性が肩を震わせ、泣きじゃくっていた。それを慰めるように黒いドレスを着た三十代くらいの女性が寄り添っている。魅魅にまず気づいたのは、黒いドレスの女性だった。

「あなた・・・・・・?」

魅魅はショルダーバッグから警察手帳を取り出し、誇らしげに掲げる。

「こんにちは。警部補の有栖宮魅魅です。あなた方は親族の方ですか?」

魅魅が名乗った途端、二人は戸惑ったように顔を見合わせた。魅魅の容姿がこの場に似つかわしくないための当然の反応だろう。魅魅はフランス人のクォーターだが、祖母の血が色濃く出てしまったのだ。それに童顔のため、年齢も若く見られることが多い。

魅魅が説明しようと口を開きかけた時、びっこをひきながら息も絶え絶え、古手川が割って入った。

「そして僕が警部の古手川宗一です。この助手は外国人みたいな顔をしてますが、日本生まれの浅草育ちです。大学は東大ですが、中退です。理由は人間の友達ができなかったから。趣味はネトゲ。暇さえあればパソコンにかじりつき、今も充電する機会を虎視眈々と狙っているのです」

魅魅は歯ぎしりして、古手川のすねを蹴った。それから何事もなかったように優雅に会釈する。

「・・・・・・、まあそんなところです。よろしくお願いします」

犯行現場は二階リビングとのこと。鑑識が到着するまで、現場を保存しておかなくてはならない。それまで関係者に話を聞いておく。魅魅がその役を買ってでた。

鹿の剥製のある来賓室は、大きなガラス戸がついており、そこから庭に出られるようになっている。 

外国製のソファーにゆったり腰掛け、魅魅はメモにペンを走らせる。 

「えーと、まずはお名前をお願いします」

若い方は森下千里、このお屋敷の元使用人だ。ドレスの方は富坂八重、彼女は現在も飯岡家と雇用関係を継続していると説明した。

八重の胸元を露わにした格好に、魅魅が怪訝な表情を浮かべた。

「あなた、使用人なんですか?」

魅魅の問いに八重はばつが悪そうに、目をそらした。

「どうせ差し押さえられちゃうし、一遍着てみたかったのよ。・・・・・・てゆうか、あなたに言われたくないわぁ」

それから魅魅は、事件当時のことを聞いた。事件が起きたのは、三十分前。突然リビングに見知らぬ男が押し入り、拳銃を発砲した。この家の長男である飯岡恋太郎が右太股を負傷。男はそのまま逃走した。

「男の特徴はわかりますか?」

それまで虚ろな目をして座っていた千里が、びくっと身を震わせ、一度八重の顔をうかがってから口を開く。

「わ、わかい男でした・・・・・・」

「どのくらいの年代でした? あと背格好を思い出せる限りお願いします」

「二十代、前半で、身長は百七十センチくらい、痩せ型で、黒いタンクトップ姿で、右腕に入れ墨があって・・・・・・」

千里が話している最中、突然八重がテーブルを叩いた。魅魅は目を上げた。

「犯人は、きっとこの飯岡家に恨みを持つ人間にちがいありませんわ。捕まりますわよね?」

魅魅は、淡々とバッグからノートパソコンを取り出し、部屋のコンセントとつないだ。

「ええ・・・・・・、そうですね。飯岡さん大変みたいですよね。主力産業である飲食で偽装表示やら、残業代未払いとか、私も危うく損するとこでした」

パソコン画面の飯岡ホールディングスの株価グラフは下降を続けていた。パソコンを閉じてまた前を向いた。

「犯人はどこから進入しましたか?」

千里と八重が同時に顔を見合わせた。

「・・・・・・、多分三階の窓からだと思います」

 

 4


魅魅の聴取がひとまず終わると、八重と千里は廊下に出た。赤い絨毯がしかれた長い廊下の先にも、部屋の扉が無数にある。

八重は気ぜわしく足踏みをして、千里をにらんだ。

「ちょっとぉ、さっきは何で余計なこと言ったのよ」

「え・・・・・・」

千里が目に涙を浮かべると、八重が舌打ちする。

「ちーちゃん、何も変わってないわね。そうやって泣いてたって何にも解決しないよ」

「わ、私だって、こんなことになるなんて・・・・・・」

その時、廊下を曲がってきたのは、古手川であった。大股でまっすぐ二人に近づいてくる。千里はとっさに背を向け涙をふいた。

二人の面前に立ちどまると、古手川は素っ頓狂な大声を上げた。

「やあやあ、お二人さん。助手が何か不手際をしませんでしたか? だいぶマシになりましたが、コミュニケーションに難がありまして」

「・・・・・・、いいえ。それより手がかりは見つかりまして?」

八重は、古手川の少し曲がったネクタイを直した。

「これはかたじけない。ご懸念には及びません。この事件は、すぐに解決します」

古手川のまっすぐな目を真正面から捉えて、八重は笑って見せた。

「・・・・・・、それは楽しみ。ねえ、ちーちゃん」

「そ、そうですね。恋君を襲った犯人を許しておけません」

古手川は、二人の気丈な姿に感銘を受けたように何度も頷いた。

「そういえば、助手はどうしました? またサボってゲームですか?」

「三階に行かれたと思います。ご案内しましょうか」

千里の提案に古手川は、頭を振った。

「いえ、まだ調べたいことがありますので、これにて御免」

小走りで廊下を曲がっていったかと思われた古手川が、また戻ってきた。

「そうそう、この屋敷の玄関は、ずいぶん掃き清められていますね。皆さんの靴もしまわれていて、整理整頓が行き届いています。こんなに気が利いて美しい家政婦さんなら、僕の家で雇いたいくらいですよ。あはは」

呆気に取られたように、固まる二人を余所に古手川はスキップで曲がり角に消えた。

寒そうに八重は自分の肩を抱いた。

「偶然よ・・・・・・、あんなボンクラに真相がわかるわけないわ」

「そうでしょうか、あれでも警部らしいし、もしかしたら普通じゃないのかも」

「弱気になっちゃ駄目よ、ちーちゃん」

「わかってます。ここで私たちが踏ん張らないと、恋君に申し訳ないですよ」

千里の顔は、悲嘆にくれるか弱い女のそれではなくなっていた。涙は乾き、目には固い決意を秘めていた。


  

魅魅は三階に上がり、進入経路とされる恋太郎の部屋に足を踏み入れた。ベッド側の窓が割れて、部屋の内部に破片が散らばっている。しっかりとした樫の木が窓の外に広がっているのが目に付いた。

千里の話によれば、被疑者は庭にある樫の木を伝って、この部屋に進入したのではないかということだった。そして三階から二階に突然現れた。確かに足場にはうってつけに思える。

話を鵜呑みにするほど、魅魅も素直ではない。犯行現場の偽装も考えたが、そんなことをする動機も思い至らない。恨みによる犯行にしろ、強盗だったにしろすぐに足はつくだろう。拳銃を所持したままというのが不安要素だが、ある程度被疑者の情報も出ているのは大きい。

ざっと見聞を終えた魅魅が、きびすを返したその時、妙な気配を感じた。ぶりき人形のようにぎこちなく、また部屋の方に首を振り向けた。

腕をさしのべるように伸びている枝の一本に、古手川が腹ばいでしがみついている。彼は非難するように魅魅を見つめていた。

魅魅は、静かに目線を外した。目の錯覚に違いない。蝉の鳴き声に混じって咳払いも聞こえたが、聞かなかったことにした。

「僕を無視するとはいい度胸だ。魅魅君」

魅魅は一度大仰にため息をつくと、顔を上げ古手川を見据えた。「どうして」という言葉は、この男に意味をなさないことを知っている。三階が進入経路であることも既に見抜いていることも、木に登っていることも驚くに当たらない。

「上司が蝉になってたら、誰でも現実逃避したくなります」

「はは、ある日、僕は蝉になっていた、か。日本版カフカという奴だね。悪くない」

魅魅は床に開いて伏せてあった、カフカの「変身」の文庫本を手に取った。

「ある日、家族が異質の存在になり果てていたら、どうするべきなんでしょう」

「異質はありえないよ。その存在自体も集合に組み込まれているんだから。0が数に含まれているのと同義だよ」

魅魅は、かすかに笑みを浮かべた。今日初めて古手川に向ける柔和な表情だった。

「何か手がかりは見つかりましたか」

「ああ大体ね。君はこの事件、どう見る?」

「飯岡家の財政が逼迫していることは、誰の目にも明らかです。よって強盗の線は薄いかと。拳銃を所持し、意表をついた進入をしたのは計画的で、被疑者は飯岡家に恨みを持つ狡猾な人物だと思われます」

「ぶぶー、四十点」

魅魅は表情に出さずとも内心、はらわたが煮えくり返りそうであった。生まれてこの方、テストで落第したことがないのである。

「君の推理には矛盾がある。狡猾な犯人だと言うのなら、何故、飯岡氏の帰宅を待たずに押し入ったんだ」

魅魅は、少し考え込んで答える。

「それは・・・・・・、飯岡氏は雲隠れしていて、代わりに息子さんを狙ったんじゃ」

「恋太郎君は、バスで通学している。狙う機会はいくらでもあった。わざわざ危険を冒して自宅にまで入る必要はないと思わないか?」

言われてみれば、口実を作って正面玄関から入ることもできたはずだ。不意をつくのが目的なら夜の方がうってつけだ。逃走も容易だし、目撃される心配も減る。

「三階から侵入する必要があった・・・・・・、やはり恋太郎君が狙いだったんでしょうか」

「必要はなくても、必然性はあったんだろう。恋太郎君が撃たれることのね」

魅魅は、壁に張られたサッカー選手のポスターを見上げた。恋太郎は選手として生命線である足を負傷した。彼の心情は察するに余りある。

「いずれにしろ犯人は許せません。早期解決するといいですね」

「おや、他力本願とは君らしくもない。真相を掴むのは我々の仕事だよ」

魅魅は思わず萎縮した。古手川が枝の上に垂直に立っていた。くだけた表情は引き締まり、全てを透徹するような深い目なざしに空気は一変している。

「失礼しました・・・・・・、ですが我々にできることには限りがあり・・・・・・」

「では、その限りあることをしようじゃないか。二人を呼んでくれ」

「え・・・・・・、それって」

古手川は長い人差し指を立てた。まるでたった一つの冴えたやり方がわかったというようだった。

「真理は賽の目のように入れ替わる。彼らは果たして最良の目を出すことができたのだろうか」


 5


八重と千里は、魅魅に玄関に来るように言われ集まった。開け放した扉の前に古手川が背を向け立っている。

「やあ、来ましたね。マイフェアレディ」

「刑事さん、犯人は捕まりましたの? もし自棄になって犠牲者が出たら・・・・・・やりきれませんわ」

八重は不安そうに口を開いた。

「ご心配なく。宣言通り、今ここで事件を解決します」

「何ですって?」

動揺する八重を尻目に、古手川は魅魅に目配せし、げた箱から一足の革靴を持ってこさせた。

「この家に来た時から、違和感がありました。何故、家人の靴が一足も出ていないのだろう。強盗まがいの凶行があったにも関わらず、掃き清められた玄関は、これから客人を招くよう。そしてこの靴です」

古手川は靴を高々と掲げた。一同はその動きを異様な注意で追った。

「この家のご主人のものかと思いましたが、他にもあった靴と比較すると、0,5センチ小さい。そして恋太郎君の靴は、ご主人のものより大きい。つまりこの靴は誰のものなのか」

今や、八重と千里は不幸な傍聴人ではなくなっていた。悲劇は今や二人の真上に幕を上げたのだ。

千里が額に汗を浮かべ、早口でまくしたてる。

「それは、以前に勤めていた使用人のものです。多分忘れていったんだと思います」

「では、リビングにあった二つのコップは誰が使用したのかお答え願いますか?」

「そ、それは・・・・・・」

千里は助けを求めるように八重を見上げた。

コップにはアルコールが入っていたことを、古手川は既に調べている。恋太郎は飲酒ができない。そして、残る二人のアルコール数値を調べれば自ずと答えは出てしまう。

「この家には貴方たち以外の誰かがいた。と考えてよろしいですね?」

沈黙は、古手川の推理を雄弁に裏書きした。

一際声の小さかった千里が、突如激したように叫んだ。

「で、でも、犯人は上の階から侵入したんです! そして玄関から出ていったんです。間違いありません」 

古手川はやれやれと首をすくめた。まるで物覚えの悪い生徒を咎める教師のようだった。

「樫の木・・・・・・、からですか」

「ええ、そうです」

古手川は一同を、件の樫の木の真下に誘った。

「どうですか? 皆さん。立派な木ですね。確かに木登りするのに丁度良い木だ」 

「そうですよ。だから犯人もこれを伝って・・・・・・」

八重が口を挟もうとするが、古手川は構わず話し続ける。

「それなんですけどね。ここから恋太郎君の部屋は見えるでしょうか」

一同は顔を上向ける。恋太郎の部屋の窓は、樫の木の枝が邪魔になって目立たない。見分けられないこともないが、よほど目を凝らさないと窓があることすらわからないだろう。

「あなた方は、被疑者を見知らぬ男だとおっしゃったそうですね」

「そ、そうです・・・・・・」

八重と千里は小さく寄り添い、同じ答えを返した。まるであらかじめ決められた筋書きを読み上げるようだった。

「だとしたら、おかしいですね。魅魅君、ここに初めて来た時、窓があるのに気がついたか?」

「いいえ。私は素通りしたかと思います」

「だよねえ。僕も真下を通ったが気がつかなかった。つまりこの窓の存在を知るのは、この家に入ったことのある人間だけということになる。人の出入りを熟知しているはずのあなた方使用人がそれを見過ごすはずがない」

八重と千里は無言のまま木陰に立ちすくんでいた。反論できずにいる。

古手川は駄目押しの一手を叩き込む。

「よしんば、先ほどの靴が元使用人のものであると仮定しましょう。そうなると、ここに勤めた経験のある全ての方に話を聞くことになりますがよろしいですか?」

千里は膝を折った。八重は固く目を閉じ、こめかみを押さえた。

「あ、あの・・・・・・」

千里は髪を振り乱し、古手川の足下にすり寄った。涙声で訴える。

「古手川さん、私が全てやりました。恋太郎君の足を撃ち抜きました。私を捕まえてください」

古手川は、足にしがみつく千里を不思議そうに見下ろした。

「彼を? 撃った? ですって? では拳銃はどこで手に入れました。口径は? 撃った動機は? 拳銃はいまどこにありますか? どうしていもしない犯人をかばうのですか? 今度はそれを答えて頂きましょう」

魅魅は顔を背けた。容赦がないと思ったのだ。

八重が千里の横にひざまずき、地面に手をついた。

「私が主犯です。私が唆して、ちーちゃんを巻き込みました。彼女に非はありません。私を逮捕してください」

古手川は困ったような笑みを浮かべ、千里と八重の肩に手を置いた。慈悲のようないたわりを感じさせた。

「恋太郎君に、父親と同じ轍を踏ませるおつもりですか? あなた達にそんなことはできないはずだ」

千里は泣き崩れた。乾いた地面に雨だれのように、涙の粒が染みた。

その後、千里と八重は真相を告白した。

事件は、彼らの自作自演だった。目当ては保険金だ。恋太郎は自分で自分の足を撃った。家の窮状と新井という男の恨みを晴らせればと、彼が自ら提案したらしい。八重は当初、軽いイタズラで済ませるつもりだったため、やりすぎだと強く咎めた。

ところが、恋太郎の意志は固かったという。八重も千里も、止められなかったことをとても悔いていた。

拳銃を持ち込んだ新井という男は、靴を置き忘れて逃げ回っていたが、二駅離れた場所にある漫画喫茶で身柄を拘束された。恋太郎の惨状を聞くや、慟哭したという。彼は計画のことを何も知らなかった。ただ遠くに逃げろと言われただけだった。

「どうして恋太郎君が自分を撃ったとわかったんですか?」

魅魅が、車のドアに手をかけながら古手川に訊ねる。車内の後部座席には、うなだれた千里が座っている。応援に来たパトカーには、八重が乗せられ、既に署に向かっている。

「最初はわからなかったさ。だが森下さんと、富坂さんが何かを隠しているのはすぐにわかった。見知らぬ男をかばい立てするようには思えなかったから、被疑者は身内にいると思った。決定的だったのは、恋太郎君の目だよ。誇りに満ちた良い目だった。悪く言うと、ヒロイズムに酔った男の目だ。自分は悪いことをしていないというね」

そう言い聞かせないと、自分を守れなかったのだろう。 彼が払った代償が大きいことは彼自身が一番よく理解していたのだ。

古手川が運転席に座り、魅魅は千里と一緒に後部座席に座った。

 緩やかに車が発進すると、千里が口を開いた。

「古手川さん・・・・・・、聞いてもいいですか?」  

「なんなりと」

「恋君はどうしてあんなことをしてしまったのでしょうか。今になっても私にはわからないんです」

夕日に染まった千里の横顔は、戸惑いを如実に表していた。

「どんなに憎しみを抱いていても、子供は親を愛し、愛されたいと思うものです」

「そうなんでしょうか・・・・・・」

「彼は男の子ですよ。あまり好意をあらわすのが得意ではないのでしょう」

身近な者にこそ、本心を晒せないこともある。飯岡氏もあるいは、そうであったのかもしれない。恋太郎の父親である彼に連絡が先ほどついたそうだ。恋太郎の惨状を聞き、病院にすっ飛んでいった。

皮肉にも不在に思われたお互いの心が、通じた結果なのかもしれない。

「ところで、千里さん。架空の男の特徴がやけに具体的だったようですね。八重さんと相談したんですか?」

千里は膝の上で指をいじっていた。言いにくそうに口を開く。

「同棲中の・・・・・・、彼です」 

その時、古手川はハンドルを切り損ない、車はガードレールに激突しそうになった。ブレーキを踏むのが遅れたら、事故になりかねなかった。

「あ、はは・・・・・・そうでしたか」

古手川の声が若干上擦っていたのを、魅魅は聞き逃さなかった。さては千里に気があったのだな。手遅れになる前でよかった。

魅魅は、憂鬱な顔を窓の外に向ける。ふとジャックと豆の木の話を思い出した。

勇を鼓して、未踏の地に向かうのは男の性なのか。魅魅は蛮勇を好まない。確かな下地があるから自分なのだと誇らしく思っている。

古手川宗一はどうなのか。認めたくはなかったものの彼と自分は近いものと魅魅は思っていた。

けれども易々と推理の枝を上る彼は、蛮勇なのだろうかそれとも・・・・・・。

魅魅にはわからない。わかる範囲でしかわからない。今わかることは、近いうちに古手川の合コンをセッティングしなくてはならないということだけだ。


 (了)

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ