終焉を迎えた世界で←side:S
…………。
眠りから覚めると、辺には何も残っていなかった。
鳥も虫も動物も僕の仲間たちも建物も…何も無くなっている。
残っているのは荒野と言うことすらできない無限に広がっている大地だけ。
昨日まで遥か高みに見えた空は今ではとても低く思える。
きっと空を高くするものが無くなったからだろう。
…………。
雲ひとつ無い空から垂直に降り注ぐ太陽光を受け、目一杯伸びをする。
その時、バランスを崩して倒れそうになった。見れば大地はすっかり枯れてひび割れている。
…だからみんないなくなったのかな。
みんな大地にしがみつけ無かったから…。
そう考えるとなんとなくすっきりした。
僕は沢山の仲間を失った。
でも大して気にはならなかった。
自分はまだこうして生きているのだから。
失っていないのだから。
どうでもいいことだと思った。
でもやっぱり。
…話し相手がいないのは寂しいよなぁ。
地平線を見据えてもう一度、今度は倒れないように気を配りながら慎重に伸びをする。
僕はそのまま陽気にゆられながら青と黄土の境界で眠ることにした。
…………。
…おい、起きろよ。
誰かに声をかけられて目が覚める。
…誰?
…俺だよ。俺。
そよ風が僕を揺らした。その時、僕はやっと僕に声をかけてくれた存在に気がつくことができた。
…あー。なんだ君かー。
…おぅ、俺だ。おまえ生き残ったんだなぁ。
…って言うことはやっぱりみんな死んじゃったんだ。
…その口ぶりだとおまえはこの世界に何が起きたのか知らなさそうだな。
…う~ん。なんか起きたら僕意外なにもなくなっちゃってたんだ。
…のんきな奴め。まぁ、いいか。お前がいるんだ。他にも生き残っている奴がいるかも知れない。
…行ってくるの?
…一つのところに長居できない。それが俺だ。。まぁ、すぐに戻ってきてやるよ。
そういうと彼は音よりは遅いけれど矢より速い速度で駆けていった。
…あ、そういえば……。喉乾いたぁ。
…………。
彼はあれから帰ってきていない。いやきっと帰ってこないだろう。彼はそういう奴だ。僕なんかよりもずっと自由で、上手に世界を見渡せる。羨ましい限りだ。
…………。
喉の渇きが頂点に達していた。
どれだけ行っても水が見つからない。空には雲の一片も確認することができず只々太陽の光だけが無情に僕の体内の水分を蒸発させるだけ。雨をふることを願うのは徒労でしか無かった。
…あ……。
そして、ついに僕の足は止まり、体が崩れ落ちそうになる。
僕は咄嗟に耐えた。
なぜだか良く分からないけれど。
まだ生きていたかった。
まだ生きていなくちゃいけないと思った。
もう、新しいものが生み出されなくなったこの世界に何があるというのだろう?
…分からない。
いっそもう楽になって早く仲間と一緒になろうじゃないか。
…嫌だ。
変な奴。
…うるさい、僕のくせに。
そうやって果てることの無い自問自答を繰り返しながらも僕はまだ生きていた。
…………。
そして。
僕は出会った。
この世界に生きる僕以外の生命に。
特徴からその生命がすぐにヒトだと言うことが解った。
最悪だ。よりによって生き残ったのが数え切れない僕の仲間を数えきれないほど惨殺してきた奴だとは。
そいつはとても飢えているようだった。
そいつは僕に気がついた途端目を見開き爛々と輝かし、痩せこけた頬をふくらませてゆっくりとおぼつかない足取りでこちらにやって来た。
…殺されて食べられちゃうんだろうなぁ。
これから自分に起こりうる運命をぼーっと想像する。
きっとそいつは僕を容易くつかみとると、そのまま口の中に放り込み臼歯でぐしゃぐしゃとすりつぶしていくに違いない。
ぞっとする。
…………。
いつしか、そいつは僕の側に立っていた。
じっと僕を見下ろしている。
その子は膝をつき、僕をつかもうとする。
僕は覚悟を決めてきゅっと目をつぶった。
…あれ?
いつまで待っても僕に変化がなかった。
不思議に思って目を開けると。
そいつは僕から手を引っ込めていてまた僕をじっと見下ろしていた。
…何故食べないのだろう?
疑問がよぎる。もし、僕が同じ立場ならば考えるまでもなく体がすぐさま食という行動に出るだろう。
と、その時。そいつに動きがあった。
そいつは骨と皮ばかりになった自分の指をいきなり食いちぎった。
鮮血が噴水のように吹き上がり僕にもそれがかかる。
そいつは苦痛の色を全く見せることなく吹き出る血を僕に垂らす。
…………。
僕は、それを飲んだ。
とても苦くて
とても鈍くて
とても重くて
とても優しい味がした。
僕の中に入ってきたそれは管を通って全体に広がってゆく。
まるでそいつが僕の中で躍動しているような錯覚に陥る。
気持ち悪いとは思わなかった。
逆にとても落ち着いた気分になった。
体全体がほんのりと暖かくなっていくような気がした。
僕はそいつを見上げる。
笑顔だった。
春の太陽ように穏やかな笑顔。
一瞬、ここが何処なのかわからなくなった。
緑の海が視界いっぱいに広がっていた。
その中をたくさんの生命が駆けてゆく。
みんな、幸せそうに笑っていた…。
…………。
瞬きし終えたとき風景は元に戻っていた。
その子はもう飲めないくらいまで血を僕に与えると、今度は自分の喉を潤した。
やがて、血が止まるとその子は僕の隣に寝転がりそのまま動かなくなった。
どうやら眠ったようだ。
…………。
あたりが暗くなってゆく。
夜だ。
遮られるものが何もない無機質な月の光は僕とその子を淡くてらした。
…音がなくなった。
僕は怯えた。
あいつらが目を覚ます。
あいつらは突然目の前に現れて隙間から僕の中に入り。鋭利な凶器で僕を容赦なくずたずたに引き裂き喰らおうとしてくる。
…ああ、あいつらが現れた。
思わず身を固くする。細胞の一つひとつを引き締め、入られないように隙間を埋める。
けれど、全くの無駄だった。
あいつらはほんの少しの欠陥を目ざとく見つけ侵入してきた。
…来るな…。来るな来るな来るな来るな!…ああ。ああああぁぁ!
内側からえぐるような痛みに叫び声を上げる。
その子の血で持ち直した体が折れてゆく。
…止めてくれ!気が触れそうだ!もうやめて……。
その時。
音が聞こえた。
あいつらが僕から出て、現れた時と同じように消えてゆく。
痛みが嘘のように消えた。
僕は腹を上下させるその子を見た。
音はその子の寝息だった。
…………。
僕は空を仰ぐ。
こんな落ち着いた夜を過ごせるのは仲間がいなくなる前の日以来だ。
僕はその子に感謝して眠りについた…。
…………。
僕に何かが当たった。
その子の血だ。
その子は昨日作った傷をなんども噛んで、止まった血を再び僕に与えてくれた。
…ありがとう。
届くはずの無いお礼を述べて血を飲んだ。
…………。
その子は僕を撫でていた。
顔をほころばせながら、ずっと。
がさついた指がしなやかに僕に触れる。
地獄よりも残酷な何も無くなった世界。
多くの歴史と記憶が取り除かれた世界。
可能性を奪われた世界。
終わってしまった世界。
最後の崩壊を待つだけになった世界。
…それでも…。
そんな世界の中でも。
僕は幸せだった。
僕が必要としている人がいる。
僕を大切にしてくれるヒトがいる。
その子が側にいるだけで僕の体は大きく脈動した。
その子が微笑めば不安や痛みが氷のように溶けて蒸発していった。
その子が撫でてくれればてれと安心と幸福で思わず身がよじれた。
その子と出会えたから僕は生きていた。
…………。
夜になった。
でも、もうあいつらが来ることはない。
彼女がいるから。
僕は彼女の寝顔を見る。
であった時よりもやつれ、汚れた顔。口元には飲みきれなかったのだろう乾いた血がこびりついている。
だけど。
僕にはそれがたまらなくいとおしく思えた。
…抱きしめたい。
不意にそんな衝動にかられる。
彼女をずっと抱きしめていたい。
彼女をずっと守ってあげたい。
彼女をずっと支えたい。
彼女をずっと笑わせてあげたい。
彼女が悲しくなったら慰めて。
彼女が不安になったら一緒に考えて。
彼女が嬉しくなったら分かち合って。
そうやって、彼女と共に人生を歩んでいきたい。
幸せの中で生き続けていたい…。
不思議だった。
僕にはそんなこと一つもできっこないのに。
心の奥底から止めようの無い願いが次々に飛び出してくる。
体が温かくなっていく。捕らえようのない気持ちが僕の中で溢れていく。
…そういえば。
昔、仲間が話していた。
ヒトはスキナヒトと言うものに対してすべてを言葉には表すことのできない感情を抱くのだと。
それをコイと言うのだと。
でもそれはヒトの感情だ。
僕たちにはそんなもの備わっていないはず。
もしかして彼女だろうか。
彼女の血が僕に教えてくれたのだろうか。
…ああ、そうか。
僕はコイしているんだ。
…………。
僕は幸せを胸いっぱいに広げて眠った。
最後に彼女がずっと側にいますようにと願いながら。
…………。
でもすぐに。
そんな僕の理想はどこまでも甘い幻想だと言うことに気がつく。
僕が元気になってなっていくのに反比例するように彼女は弱っていった。
少し考えれば当たり前のことだ。
彼女は毎日僕に自分の命を注いでいたのだから。
そのことに気がつくのが遅すぎた。
死という現実が彼女を絞り上げていた。
今思えば彼女が一日中寝転がっている時点で気がつくはずだった。
彼女は立ちたくなかったのではなく立てなかったのだ。
そして今、彼女は目を開けることすら叶わなくなっている。
ただ僕を安心させるように小さく微笑んでいるだけだった。
僕はバカだった。
幸福に溺れて。
彼女にすべてを委ねきって。
目の前の苦しみに気がつかないほど。
浮かれていた。
でも、気がついたとして何ができた?
前にも考えたとおり僕には彼女にしてあげたいことを何もしてあげられない。この気持ちを伝えることさえできないのだ。
僕は途方もなく重い罪悪感と後悔を叩きつけられ、恐怖を覚えた。
…僕は無力だ。
…………
彼女が死ねば僕は独りになる。
今のこの幸せも、彼女のぬくもりも感じることができなくなってしまう。
体に重い絶望が乗っかかり押し潰されそうになる。
循環がうまく働くなくなって吐き気を覚えた。
…いやだ。
そんなのは絶対に嫌だ。
彼女と離れたくない。
彼女が僕に血、すなわち自分を与えてくれていて、僕がそれを吸収している。
だから僕は彼女と同じヒトの感情を持つことができて、彼女にコイすることができた。彼女に幸せを見出した。
…じゃあ彼女がいなくなったら?
きっと自分を保てなくなってしまう。
今度は簡単に潰れてしまう。
僕という存在が消える。
何とかしたいと思った。
彼女を助けたい。
苦しみから救ってあげたい。
…だけど、僕に何ができる?
答えは簡単だ。今までもなんども同じ結論にたどり着いた。
…何もできない。
僕は本来、他を助けると言う機能を持ち合わせていない生命体だ。
自分ひとりで生きていく生命体だ。
与えられることはあっても与えることは不可能だった。
僕はただただ弱っていく彼女を見ることしかできなかった。
おのれの無力感に打ちひしがれながら。
僕は自分を呪った。
この世界を呪った。
そして、彼女を呪った。
こんなに苦しい思いをするくらいなら。
こんなに悲しい思いをするくらいなら。
彼女と出会った時に食べられていればよかった。
…何故彼女は僕を生かした?
自分の命を削ってまで…。
考えはぐるぐると同じところ廻り続け、とどまることのない後悔を吐き続けるだけだった。
答えは出てこなかった。
…………。
風が止まない日だった。
僕は彼女の指の腹を撫で続けた。
彼女が僕にそうしたように。
そうしていればいつか彼女の目が開くかもしれない。
また僕を撫でてくれるかもしれない。
また笑ってくれるかもしれない
そう信じて。
…………。
空が紅くなっていた。
太陽が僕をジリジリと焼きながら大地の中に沈んで行く。
結局、彼女は目覚めなかった。
僕は落胆した。
もしかしたら彼女はもう二度と目覚めないかもしれない。
絶望だけが僕を包んでいく。
…………。
これ以上現実を見たくは無かった。
幻想の中で生き続けていたいと思った。
彼女と一緒にいる夢を見ながら。
そうすればずっと楽になれる。
…そうしよう…。
僕は目を閉じた。
…………。
…………。
はっとして目が覚めた。
…ここは?
周りを見渡す。
ここは、彼女の家だった。
…………。
何かとても悪い夢を見ていた気がする。
…なんだっけ?
何かが僕の中に突っかかっているような気分だ。
なにか大切なものがあったような…。
思い出そうとしてもさっぱりだった。
…………。
「おはよう」
彼女はベッドから体を起こすと僕に挨拶した。
壁は全面真っ白で、でもところどころシミが点々としている。
僕のすぐ隣りにあるシミは彼女が先日コーラを吹き出した時のものだ。
あの時の彼女の慌てぶりは実に愉快痛快だった。
彼女はベッドから飛び起きるとそのまま洗面所へと吸い込まれて行く。僕から洗面所は完全に死角になっていて残念ながら彼女の様子をみることはできない。
しばし水の流れる音と歯を磨く音が続く。
僕は窓の外を見る。
今日は少し雲が多いが概ね晴れるだろう。外出には絶好の機会。
そうして天気予報士のマネをしている間に彼女が帰ってきた。
彼女はもう普段着に着替えていた。
洗面所で着替えるのが彼女の習慣だ。
彼女は僕のすぐとなりにどかんと座っているテレビの主電源をつける。
静電気の音が妙に心地いい。
「ええと…テレビのリモコンは…」そう言って彼女はありえないほど物が乱雑しておかれたテーブルをガサガサする。
数分後。
「よし、諦めよう」
結局見つからずにテレビについているボタンでチャンネルを切り替える。
「お、丁度やってる」お目当ての番組を見つけたらしい。
それはニュースの終りに付いてくる根拠の無い占いだった。
「今日の最も運勢がいいのは……」ブラウン管からやけにテンションの高いアナウンサーの声が流れる。
そして彼女は今日もその結果にうなだれる。
「…魚座また最下位じゃない。なんか魚座っていっつも順位低いのよねぇ…。一体どうしてなのかしら。…よし、今度テレビ局に電話してみよう」ブツクサと文句を言っていつの間にか発見していたリモコンでチャンネルを変える。
その時、ふと目があった。
「ああっと、いけないいけない」
「はい、ご飯~ですよ」
冷たい水が僕に投下される。
僕はそれをゴクゴクと飲んだ。
体全体が冷気に包まれていくような感じだった。
彼女はそんな僕の様子を終始笑って見ている。
やがて僕の食事が終えると、今度は彼女の食事が始まった。
今日の朝の献立はオーブントースターで少し焼いたレーズンパンと牛乳。彼女は朝はいつも牛乳だった。
「絶対あいつより大きくなってやるんだから」
これが朝の彼女の口癖だった。
…ああ、なんて穏やかなんだろう…。
いつもと変わらない風景、いつもと変わらない彼女。いつもと変わらない僕。いつもと変わらない、そして永遠に続く幸せがそこには存在していた。
…?
不意に何かが僕に触れた。
がさついた何かが。
僕は周囲を見回す。
だが僕に触れるものなんて何も無かった。
彼女はいつも通りパンを食べている。
…気のせいかな。
そう思った時。
…!
また何かが僕に触れた。
今度ははっきりと感覚が残っている。
…何?
急いで見回したがやはり何もない。
僕は焦った。
いつもと変わらない日常に何かが介入している。
気がつけば周りの景色が動いてなかった。
無音の世界だった。
僕は彼女を見る。
彼女はパンの最後の一片を口に放り込もうとしていた。
そこで止まっていた。
…一体どうしたんだ!?
訳の分からない不安と焦燥が僕を追い立てる。
やがてすべてのものが歪み始めた。
歪みはそのまま大きなうねりに姿を変え、一点に集中して消えていった。
闇だけが僕の元に残る。
…なんだ…これ?
また何かが僕に触れた。
今度は間をおかずに何度も何度も何かをぬぐうように僕に触れる。
全身に悪寒が走った。
段々息苦しくなっていく。
体に大きな重石が乗っかかったようにだるくなっていく。
…止めてくれ!
僕は叫んだ。
…こんな思いは嫌だ!僕は幸せに暮らしたいんだ!彼女と一緒にずっといたいんだ!だから、だからもうやめてくれ!
僕は全てを拒絶するかのように思いっきり目を瞑る。
それでもなお何かは僕の体を触り続ける。
僕は何かが早くいなくなることを願いながら。
じっと目をつぶり耐え続けた。
…………。
どれくらい時間たったか分からない。
何時間も立っているかもしれないし何十秒も経っていないのかもしれない。
それまで氷のように冷たく僕に触ってきた何かが不意に、温かくなった。
嫌な感情がすべて洗い流されて行く。
…ああ、彼女が帰ってきたのか。
僕は目をゆっくりと開けた。
…………。
骨張った指が僕を撫でていた。
わずかながら開いている目で確かめるように僕を触っていた。
彼女だった。
僕は。
不安と悲しみと絶望が渦巻くこの終焉を迎えた世界に。
たった一つの愛しい存在に揺り起こされて。
彼女は僕の砂まみれの体を丁寧にぬぐっていた。
前も、後ろも、表も、裏も……。
震える指で。
何度も、何度も。
やがて、僕の体からすっかり砂が取り払われると。
彼女はニッコリと微笑み。
ゆっくりと口を開いた。
最初はただ口が動くだけだったけれど。
何度も何度もやり直して。
ついに声を出した。
「あ。あ。……き。れ。い。ね……」
…ああ、やっぱり。
僕は彼女のことが好きです。
大好きです。
僕はいま幸せです。
…………。
彼女のまぶたが再び閉じた。
そして、大きく深呼吸する。
幼児のよりも辿々しい口調で僕に語りかけてくる…。
「……もうすぐ世界にはあなたしかいなくなる…。
それはとても悲しいこと…。
そしてとても寂しいこと…。
あなたはそれに耐えられないかもしれない…。
私が死んですぐに…。
あなたは死んでしまうかもしれない…。
ごめんね、あなた、生きたくなかったかもしれないのに…。
それでもいい。私は構わない…。
でもせめて…。
あなたが存在した証を、この世界に生きていた証をどうか作って欲しい…。
そうすれば幸せになれるから…」
…違う。
僕は今幸せなんだ…。
君といるこの一瞬一瞬が…。
僕の心を満たしているんだ…。
緑を芽吹かす春風のように…。
穏やかに僕を揺らしているんだ…。
だから…。
だから死なないでくれよ…。
もう一度目を開けてくれよ…。
そんな弱々しい笑顔じゃなくて…。
太陽のように眩しい笑顔で僕を照らしてくれよ…。
君以外のものは何もいらない…。
だから…ずっと側にいてくれよ…。
「ないて、いるの?」
彼女の言葉にはっとする。
僕は涙をながすことはできない。僕の体にはそんな器官はないから。
見上げると、黒く厚みのある雲が空を占拠していた。
雫が振ってきて僕に当たる。
雨だ。
…雨だ…。雨だ!
これで彼女は助かる!彼女の失ったものを取り戻せる!ずっと一緒にいられる!
僕はこの世界の奇跡に感謝した。
けれど、彼女はうわ言のようにつぶやくだけで一向に水を飲もうとしない。
「だめよ、ないちゃ、すいぶんがなくなってしまうじゃない……。せっかく、わたしがあげたんだから、たいせつに、とっておいて……。すこしでも、ながく、いきのびて、ちょうだい……」
そのうちに勢いを増した雨が彼女の言葉をかき消し始めた。
…何いってるんだよ!雨だよ!君は助かるんだ……。
「……やさしいこ。どうか、しあわせに。なってね……」
…ああ、だから幸せになろう!一緒に生きよう!
「…………さようなら」
…え?
彼女から最後の笑顔が消えた。
そして、もう二度と動くことも目を開くことも喋ることも笑うこともなくなってしまった。
彼女は…死んでしまった。
激しい雨音だけが僕を叩く。
…………。
…………。
幾千年の時が過ぎた。
あの時降った雨は何日間も振り続けてこの世界に水を戻した。
水から生物が産まれた。
ヒトも産まれた。
世界は再生した。
…よう。
…ん?ああ、君か。
…おう、俺だ。久しぶりだな。
…久しぶり?この前あったばかりじゃないか。
…二年も経ってるぞ。
…あれ?もうそんなに。おっかしいなぁ……。
…年をとるにつれて時間が短く感じるって人間みたいだな。
…あはは、そうだね。
…そうそう。人間といえば…あいつらまた争いを始めたみたいだぞ。あいつらも学習能力無いよなぁ。そうやって一度世界を壊したのに。
…でもきっと大丈夫だよ。
…どうしてだよ。
…彼女が希望を託した世界だから。
…ずいぶん変な根拠だなぁ。で、彼女って誰だよ。
…僕の愛したヒトだよ。
…お前はただのんきなだけじゃなかったな。のんきな上にすごく変なやつだ。
…そういう君は失礼な奴だ。
…何だかんだで気が合うよな俺達…とそろそろ行くかな。
…うん、じゃあまたいつか。
…おう、じゃあな「世界樹」。
…………。
光が舞っていた。
大気中に全てを覆い尽くすほどの光がせわしなく動き回っていた。
その光景はさながら縁日の金魚すくいのようだった。
一度もそれを見たことが無いくせにそう思った。
…死んでいった人間の魂だ。
なぜだか良く分からないけれど頭は唐突にそう理解した。
そして僕はそれらを受け入れることができるのことも知った。
彼らを受け入れれば何かが変わる?
…分からない。
もしかしたら何も無いかもしれない。
…もしかしたらなにかあるかもしれない。
彼女はもういない。これから先に幸福な時間はないぞ。
…確かにそうかも知れない。
それでも生きていくのか?
…僕は彼女から与えてもらう幸せを教えてもらった。今度は与える幸せを知ろうと思う。
それなら…。
僕は網を手に取る。
それなら、今度は僕が救おう。
彼女を、ヒトを、世界を…。
そして、創っていこう。
僕の生きた証を…。
繋いでいこう。
彼女が生きた証を…。




