7話:唐突帰還
いや、別に疲れているわけじゃないんですよ・・・?
資料室の整理から解放されたのは19:00になった時だった。
ちょうどセンセーも職員会議を終えて戻ってきたところで、適当に資料室の中を見回るとOKサインを出してくれた。
資料室を整理したといっても、床一面に散らばっていた書類をかき集めて一か所に重ねて置いただけだったのだが………やはりセンセーは適当だった。
肉体労働と精神的重圧のせいでふらふらになった俺は、只今マンションにたどり着いたところだった。
「腰が痛い……」
独り言のようにそう呟いて、エレベーターのスイッチを押す。
今日くらいは階段を使わなくてもいいだろう。重労働に対する甘えとでもなんとでも言えばいいと思う。
チーン、と音が鳴って扉が開くとそこには莉瑚の母さんが乗っていた。
「あ、どうもです……」
「あら、玲夜君。こんな時間まで学校でお勉強? 偉いわね」
「ええ、まぁ……そんなところです」
そういうことにしておこう。それにしても、莉瑚の母さんとの遭遇率がだいぶ高いような気がする。
今の俺の心境としては、あまり会いたくなかったのだけれども。
もちろん、莉瑚ともなんだけども。
「莉瑚の母さんは……今からどこか行かれるんですか?」
「そうなのよね~、この時間にパートが入っちゃってね?」
「あれ、お仕事していましたっけ?」
確か莉瑚の親父さんはなかなかに良い会社に勤めていて、特に金銭面は問題ない生活を送っているとあの他人のことにはすぐに食いつく姉貴が言っていたはず。だから莉瑚の母さんは専業主婦だと思っていたのだが。
「いやね、恥ずかしい話だけどね莉瑚も大学に行かなくちゃでしょ? そのためのお金をね、少しでも賄えたらと思ったのよ。あの人ばかりに頼り切るのも……ね?」
「そうなんですか……」
「玲夜君は進路はもう考えたのかしら? んふふ、大学も莉瑚とおんなじになればすごい腐れ縁よね」
「は、はぁ……」
何を期待しているのか莉瑚の母さんは頬に手を当てて微笑んでいる。
俺は不安に駆られながらもぎこちない笑みを返す。
「いけない。もうこんな時間ね、じゃあ玲夜君。またね」
パタパタと小走りで莉瑚の母さんはマンションのエントランスを出て行った。俺はそのままエレベーターに乗り、閉のボタンを押す。
エレベーター内の静まり返った空間の中、俺は考える。
将来。果たして俺は何をしたいのか。 心のどこかで考えないようにしていた。そう、それはいつものことだ。
ただ、同級生の莉瑚が何らかの目的があって大学に行くことを決め、俺は止まったままだ。
異世界に行っていたせいだとか、言い訳を考えるがそんなものはこのまともな世界では通用しない。
俺は、どうしたらいいのだろうか。
モヤモヤとした掴みどころのないものを心に留めながら家のドアを開く。
「おっ、おっ……お帰りなさいっ! ご飯にする? お風呂にするっ? そ、そ、それともわ、わたっ」
バタン。
ドアを閉めた。いや、今の反応速度は尋常じゃなかったと思う。自分を褒めたい。
ただ、今俺の目にはスクール水着に真っ白なエプロンと言った意味不明な格好をした怜那が映った気がした。
気がしただけだ、仮にそいつが妄言を吐いていたとしてもそれは幻聴だ。
もう一度ドアを開ける。
「はっ……。お帰りなさいませっ! ご飯かお風呂か私の三択っ!」
バタン。
もしかしたらここは俺の家じゃなかったかもしれない。 一階分間違えたかもしれない。
そうだ、いや、きっとそうだ。部屋番号を確認すればいい。
うん、俺の部屋だ。おかしい。
だとしたら、俺の妄想で──────────。
「ってもういいわ!? なんだこの有様は!」
千切れんばかりの勢いで家のドアを開け、帰宅。目の前に居る怜那を睨む。
「何してんだお前は」
「おっ、お帰りなさ」
「それはもういい。というか、そのエプロン……どこで」
その時、リビングの方から大きな笑い声と足音が聞こえてきた。
俺は嫌な予感がしたのと同時に好都合だとも思っていた。
怜那の着ているエプロンは姉貴の部屋にあったもの。ということは、奥に居るのは。
「あ~、笑った笑った。 お帰り、玲夜」
「ふざけんなよ姉貴。 勝手に帰ってきて」
俺の姉貴。謎を大量に含んだ俺の姉貴。間違いなく音城朝陽だった。
食卓を俺、姉貴、怜那の三人で囲んで夕食にする。もちろん姉貴が作ったものだ。怜那は飯など作れない。
会話はほとんど俺には振られない。怜那が苦笑いしつつも姉貴の相手をしているわけだ。
肝心な姉貴の方はずっと笑いっぱなしで、俺は本台が切り出せなかった。
あちらの世界のこと。 もしかして姉貴は逸らそうとしている気がする。
いや、間違いなく狙っている。
では、何故帰ってきたのか。 俺は困惑していた。
いつだって姉貴はそうだった。 俺に分かることなんて一つもない。思惑を理解できることもない。
今だって、怜那が俺の家に居るというのに特に詮索もしてこない。
「ふぅー、食った食った。 やっぱり私が作った料理は最高だわ」
「………姉貴」
「そう言えば怜那ちゃん。 お風呂入ったの?」
「姉貴」
「入ってないの? じゃあ一緒に入ろうか! いろんなとこ綺麗にしちゃうよ~」
「姉貴っ!」
「……なんだよもー。 玲夜ちょっとうるさいよ?」
姉貴はなんでもないように俺の方を見る。 箸を置いて俺も向きあう。
「あのさ、玲夜。 別に何もやましいことはないでしょ? あんたがどこに居ようと、私がどこに居ようとさ。 特に何かがあったわけでもないし、私がこっちの世界でちょこーっと行方不明みたいな感じになっただけでしょ?」
「それがっ……」
「それが心配だった? だから玲夜は怒っている? それなら私が悪かったよ。でもさ、それ以外なら私は何も言わない。関係が無いからね」
「………」
俺達のギスギスした雰囲気を悟ってか、怜那は風呂へ逃げ込んでいった。
リビングには沈黙が訪れ、俺はポケットに手を突っ込んだ。
コツン、と指先に触れるものがあった。 そうだ、通行石だ。
学校で拾ったことを思い出した。 しかし、今これを姉貴に見せるか………?
姉貴は俺があちらの世界に関わっていることを知っているはずだし、俺が姉貴があちらの世界に居たということを知っているということも分かっているはず。
だが、それと通行石のことは別の話だ。
関係が無いとは言っていたが、それは何に対してだ?
姉貴はそういう微妙な線引きをいつもしっかりとこなしている。人の認識の違いを利用して、話しを進める。
つまりは性格が悪い。そんな言葉で括れるものではないけれど、他に言葉が見つからない。
「ねぇねぇ」
心の中のドロドロとしたものを片付けていた時、姉貴が唐突に向かいの席から俺を突いてきた。
「なんだよ」
「なんで怜那ちゃん。この家に住んでるの? 付き合ってんの? 結婚するの?」
「………」
「なんで黙っちゃうのさ。あっ、そうだ、莉瑚ちゃんは最近どう?」
質問攻めである。 しかも何故か色恋沙汰関連の話しのみ。
「うるさいな。怜那は知らん。莉瑚には振られた。それだけ」
「ふぅん~。でもさ、莉瑚ちゃんにはもう一度話した方がいいんじゃないかな~」
「なんでだよ」
「それは女の勘、とでも言っておこうかな。 それに幼馴染だよ? もったいないもったいない」
「………そんな姉貴はどうなんだよ」
「私?」
特に動揺することなく首をかしげて見せる姉貴。
う~んと唸ってから、姉貴は目を開く。
「私の周りには永遠と日記を付けてる嬢ちゃんと瞑想してるゴツイのくらいしかいないかなー」
「………?」
「要するに、私に吊り合う奴なんていないってことよ。 はっはっはー」
どうでもよさそうに笑い飛ばす姉貴。本当に適当に生きているように見える。
すっ、と椅子から立ちあがって、姉貴はどこかに向かおうとする。
「っ、どこ行くんだよ」
「いっやぁ、怜那ちゃんとバスタイムを楽しんでくるだけだよ」
後に怜那の悲鳴が聞こえたのは言うまでもない。