相当に鈍い奴
片想いで連想したお話です。
「別れます」
突然切り出されたその言葉を、彼女から言われようとは思ってもいなかった。
一つ年下の彼女。
同じ高校の後輩で、高校二年の時彼女の方から告白された。
告白されるまで彼女の存在なんて知らなかった。彼女のことを知りもしないのに付き合うことは出来ないと一度は断わった。それでも懲りずに何度か告白され、試しにでもいいからと言われて、二か月後に付き合うことに承知した。
そんな二人の関係は、いつも俺の都合に彼女が合わせるというもの。
いつの間にかそれに馴染んでしまい、そのまま二人の付き合いは続いた。
最初からバランスを欠いた付き合いだった。彼女の方から告白してきたんだし、自分はいつ別れても構わないと思っていたのだ。最初の頃は……。
付き合って一年も経つと、彼女はそばにいて当たり前の存在となっていた。俺達の関係は相変わらず俺が彼女を振り回し、彼女がそれに合わせるというものだった。自分に不都合がなかったから、そのことを彼女がどう思ってたかなんて考えたこともなかった。
大学に進学しても別れることなく付き合っていたんだから、うまく行ってると自分は思ってた。不満なんて特になかった。俺に都合のいいように彼女が合わせていたんだから当然だ。
一年後に彼女が別の大学に進学したときだって、変わらず付き合いは続いていた。
お互いに大学生になって、俺だけじゃなく彼女もサークルに参加したりし始めてから、会える回数は極端に少なくなった。それが彼女の方から誘われること自体が減っていたせいだということにすら、気付いてなかった。
高校生の頃はプレーヤーとしてサッカーに熱中したが、そこそこの選手でしかなかった俺は、大学ではサークルに入って趣味として楽しんだ。チームを作ってフットサルもやるが、サッカー観戦好きが集まってワイワイやるサークルで、メンバーの中には女子も結構いた。
気の合う仲間との試合観戦は楽しく、彼女とのデートよりもそっちを優先させることは何度かあった。
つい最近も、手に入れるのは無理だと諦めていたチケットが、直前になって取れたと聞いて思わずそっちを優先させ、前々からの約束だった彼女とのデートを、急にキャンセルした。その時、悲しそうに電話の受け答えをする彼女の声に後ろめたく思いながら、気付かない振りをした。
その後ろめたさをごまかすように、もともとあっちの方から付き合いたいと言ったんだし、こっちに合わせて当然だろうと、心の中で傲慢な言い訳をした。
そのゲームに一緒に行ったのがサークルの女友達で、それまでにも何度も試合観戦に行っていた相手が同じ子だと知られたとき、彼女から別れを告げられた。
「別れます」
「は? 何言ってんの、お前」
まだ、ことを軽く見ていた俺は、いきなりの彼女の発言にそんなふうに返した。
二人でよく待ち合わせする俺の大学のそばにある喫茶店。いらっとしてたばこに火を点けた。
「あいつはただの友達で、浮気とかそんなんじゃねーし」
俺の浮気を疑っているのかとそう言った。確かに疑われそうなシチュエーションかなと思って、一緒に観戦に行く相手が女で、いつも同じであることは言ったことがなかった。でも、後ろめたいことなんてやっていない。
俺は彼女と付き合ってから、浮気なんてしたことはない。俺が浮気をしなかったのは、ただ単にものぐさな性格のせいかもしれないが、それでもこいつを裏切ろうなんて考えたことはなかった。
こいつだってこんなふうに俺の付き合いについて、どうこう言ったことはこれまで一度もなかった。いや、今だってそう言った訳じゃない。ただ別れると言っただけ。
思った以上に動揺して、いらないことを言った。
「あの試合はなかなかチケットが取れそうじゃなかったし、お前とはいつでも会えるじゃん」
その言葉を聞いた後、彼女はしばらく黙っていた。
「こ、今度その映画に付き合うからさ」
無言の彼女に向かって、焦って言ったその言葉に対して、ため息とともにかえってきた台詞は……。
「……先輩って本当にわたしの話を聞いていないんですね。リバイバル上映で、劇場で見られるのはそのときだけだって言ったじゃないですか」
なじるとかそういった感じは一切見せず、ただ呆れたようにそう言った。
そんな話は聞いたような、聞いてないような……、あまり良く覚えていなかった。
「……もう、いいんです。気にしないでください。今までありがとうございました」
あっさりと呟くと、彼女はバッグから財布を取り出し、自分の分の代金をテーブルの上に置いた。
押しかけ彼女だったとしても、大学生になり、バイト代が入るようになってからは、こんなちょっとした飲み物や食事代を彼女に払わせたことなんてなかった。
嫌みかよ、とむっとして文句を言おうとしたけど、彼女はさっさと立ち上がって店の出口へと向かった。
ちょっと待てよと慌ててたばこの火を消し、彼女が置いたテーブルの上の小銭をかき集めた。彼女の後ろ姿を目で追いながらレジに向かい、のんびりと会計する店員にいらつきながら支払いを済ませ、店を出た彼女の後を追った。
店を出て辺りを見回した。彼女の姿は既に見えなかった。ここから駅までは近いので、もう駅に着いてしまったのだろうか。
取りあえず駅に向かいながら、だんだん焦るような、嫌な気持ちになってきた。
ただ、ヤキモチを妬いて怒っているだけだ。少しご機嫌を取ってやれば、しょうがないですねと、いつもの彼女の様子に戻るさ。なんてったってあいつの方が俺に惚れてるんだから。
そう思うのに、なんだかもやもやと不安な気持ちになる。
これまでけんかしたことなんてなかった。けんかになりそうなときはいつも先にあいつが折れていたからだ。いくら鈍い俺だって気付いていた。でも、それを当然だと思っていたのだ。
だからこんなふうにとりつく島もなく話がこじれたことなんてなくて、どうしたらいいのか分からなかった。
そして、本格的に焦りだしたのは、その日の夜にもう一度彼女に電話したときだったのだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
先輩に惹かれたきっかけは、自分の高校の、サッカーの試合に応援に行ったときのこと。
その試合は、全国大会の県予選だった。
一回戦を勝ち上がり、今度の対戦相手は本大会にも何度も出場している常連校。本大会でも優勝候補に挙げられるような有名校で、休日の試合ともなれば、在校生や父兄ばかりでなく、OBや一般のファンまで応援に駆けつける人気校だ。
対するうちのサッカー部は、県下でもそれほどの強豪校という訳じゃない。
初めてレギュラーの座を勝ち取ったという同じクラスの男子生徒が、クラスメイトに応援に来てくれと呼びかけていた。友達の彼がサッカー部だったこともあって、仲のいい友達五人で応援に行った。
試合はうちのサッカー部の皆さんには失礼な言い方だけど、予想外の善戦で、後半三十分頃までは一点のリードを保っていた。勝てるかもしれないとの期待に、応援席もにわかに盛り上がっていた。
相手の猛攻に必死に耐えている時間帯。応援に来てくれとわたしたちに声を掛けた男子生徒のミスから一点を取られ、同点に追いつかれた。試合の流れが変わって、あっという間に立て続けに得点を許し、終わってみれば三対一で負けていた。
わずか十分ほど前には勝てるかもしれないと盛り上がっていたのに、選手達ばかりか応援席も一気に意気消沈した。
自分のミスから始まった逆転劇に、クラスメイトの彼はどうしているだろうと気になって、グランド上の彼を目で捜した。
泣いているのかしきりにユニフォームの袖で顔を擦っていた。その肩を抱き込むようにしながら、頭をぐしゃぐしゃ掻き混ぜる人がいた。
それが彼だった。
そうしながら、チームメイトたちの集まっている方へと一緒に歩いて行った。
ただそれだけ。
それから彼のことが気になり始め、サッカー部の練習を見に行くようになった。
最初のうちは見ているだけで良かった。
別に付き合いたいとかそんなんじゃなくて、ただ彼のファンだったというだけ。
そのうちに一緒に練習を見ている友達が、気を利かせて、サッカー部にいる自分の彼氏からいろいろ情報を聞き出しては教えてくれるようになった。
サッカーのことは詳しく分からないので、わたしが関心を持ったのはもっぱら彼の人柄についてだった。
後輩の面倒見がいいとかそんなこと。
それは練習を見ていてもよく分かった。
練習中に罵倒されるかのように厳しく注意された人がいると、後輩に限らず練習終わりには大体彼がそばに行って声を掛けていた。
「夏頃までは付き合ってた人がいたらしいけど、今はいないらしいよ」
友達がそう言ったのは、もうすぐバレンタインという頃のこと。
「好きなら告白しちゃいなよ」
彼女にそう言われて初めてわたしの好きって、そういう好きだったんだと気付いた。
彼を見るのがうれしかった。学年が違うので、彼を校内で見かけることなんてほとんどないけど、たまにばったり出会ったときには、ラッキーと思った。
そうか、わたしって彼のことが好きだったんだ。
ちょうど街はバレンタイン商戦で賑わっていた。こういうふうに人を好きになったことのなかったわたしは、少し浮かれていたのかもしれない。
友達と一緒にチョコを選び、可愛くラッピングされたそれを手に、どうやって告白しようか、どきどきしながら考えた。
結局、いつものように練習を見に行って、その後でごくシンプルに告白し、あっさり振られた。
なぜか振られた痛手はそんなに感じなかった。
「俺、あんたのこと知らないんだけど」
それはそうだ。学年も違うし、容姿が目立つタイプでもない。自分の恋心に気付いたのも最近なので、積極的に彼にアピールしたことだってなかった。
「わたしのこと知ったら、考えてもらえますか?」
思わずそう言ってから、わたしってこういうタイプだったんだと思った。
今まで誰かに告白しようと思うほど、人に惹かれたことはなかった。だから振られたのももちろん初めてだけど、案外打たれ強い?
「わっかんねーよ」
「植村侑李っていいます。覚えてくださいね」
取りあえず自己紹介はしたし、チョコも渡せた。満足してその場を後にするわたしに先輩は、あっ、おい、とか何とか言ってたけど、気にしないで帰った。
それからのわたしは彼の練習帰りや、校内で会えたときには必ず彼に声を掛けることにした。
先輩は戸惑っていたとしても、その場その場ではちゃんと返事をしてくれたし、迷惑そうな顔はしなかった。
気を良くしてもう一度告白してみたけど、うーんと唸ってわたしにとっていい返事ではなかった。
その後も何度か同じように繰り返し、ダメ元が定着しつつあったころ。
「お試しでいいから付き合ってください。よく知らないからって断わるんだったら、まずわたしのこと知ってもらわないことには話にならないじゃないですか」
ダメだと思っていたから軽い調子でそう言ったのに、彼の返事はいつもとは違っていた。
「そうだな」
この後彼と付き合うことになったんだけど、今思えば、この頃のわたしは恋に恋する乙女だった。
OKをしてくれた彼だったけど、もともと付き合うことに乗り気じゃなかったのは、充分すぎるほどに分かっていたので、あまり無理なことなど言えなかった。彼は土日も含めて毎日部活だし、デートらしいデートは彼が部活を引退するまでしたこともなかった。
それでも練習を見ながら彼を待って、駅までの短い道のりを一緒に歩くだけでうれしかった。
そんな付き合いに疑問を感じ始めたのは、わたしが大学に入ってからのこと。
周囲の友達がその彼氏達と付き合う様子を見て、自分たちとずいぶん違うなぁと思い始めた。彼女たちの付き合い方に較べて、わたしたちは浅いというか……。
あれ? 彼に告白したとき、お試しでいいからと付き合うことに承諾してもらったけど、もしかして未だにお試しの域を出ていないのかしらと、突然思い付いた。
電話するのもメールするのもいつもわたしから。彼から電話が掛かってくるときは大体デートのキャンセル。
試しに一度、こっちからは連絡しないでいたら、本当になんの音沙汰もなく日々が過ぎていき、結局じれたわたしの方から連絡を取った。
会話の中身を覚えてないってこともしょっちゅうで、要はわたしの話を聞き流している。まるでわたしのことに興味はないみたい。
よく釣った魚にえさはやらないと言うけれど、彼の場合、釣り糸を垂れてもいなかったのに、勝手にわたしが水面から飛び出して、えさのついてない針に食いついたようなもの。
そんな場面を想像して、一気に心が萎えた。
二人の付き合いを大事にしてるのはいつもわたしだけで、彼の方は無関心。最初の頃は彼と付き合えるようになっただけでうれしくて、そんなことどうでもよかったけど、ここまで来ても何ら状況は変わらないとなると、ずっと片想いしているのとどこが違うんだろう? いや、本当の片想いだった時期の方がずっと楽しかった。
考えれば考えるほど、わたしの心はしぼんでいった。
ちょうどそんなとき、彼がわたしとの約束をキャンセルして、他の女の子とサッカー観戦に行ったと聞いた。
彼は浮気なんてしていないとはっきり言った。彼の方ではそうかもしれないけど、その気もない女の子が何度も同じ相手を誘うわけがない。気付かないところが彼らしいと呆れた。
わたしが疑っていると思って、憤慨する様子を見せる彼。
別に疑っていたわけではなかった。
気持ちが疲弊するばかりの彼とのお付き合いに、そろそろ終止符を打ちたかった。だからそれはただのきっかけに過ぎなかった。
わたしの別れますという言葉に慌てた彼を見て、少しはわたしのことも気に掛けてくれていたのかと、ほんのちょっぴり心が慰められた。どうやらまるっきりわたしに無関心というわけでもなかったみたい。三年近くの恋心は全然報われなかったというわけでもなかったなと、変にすっきりとした気持ちでその喫茶店を後にした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
昼に会って別れた後繋がらなかった電話。やっと彼女が出たのはその日の夜だった。
「なんで電話に出ないんだよ」
俺の口からまず出たのは文句だった。
『すみません。でも言いたいことはもう言ったし……』
「俺は全然言ってね-ぞ。別れる気なんてないからな」
彼女は無言だった。
「なんか言えよ。ホントに浮気なんかしてないんだからな」
『それは分かってます……』
じゃあなんでと言いかけたら彼女が続けた。
『あれはただのきっかけです。本当はもうずっと前からもう無理かなって思ってました』
そんな……。
『いつもわたしばっかりが先輩のこと追いかけて、振り向いてもらえないのに疲れました』
「振り向いてもらえないって……、ちゃんと付き合ってるじゃないか」
『そうでしたか? じゃあなんでわたしはいつまで経っても、片想いしてる気分だったんでしょう? それがもう続かないなって感じた理由です』
返す言葉がなく黙っていたら、それじゃあとあっさり電話を切られ、その後はまた繋がらなくなった。
本当に情けないことに、彼女にそうまで言われるまで、自分の行いを振り返ったことなんてなかった。 彼女の気持ちにあぐらをかいて、ほんの少しでも彼女の気持ちを思い遣ったことが、これまであったか?
以前はよく笑っていた彼女。思い返せば最近は浮かない顔の方が多かったかもしれない。そう思いながら尋ねることすらしなかった。
彼女は俺といるのが楽しくなかったんだと気が付き、怖くなった。だから俺は切られたんだ……と。
三年の間に彼女は空気のような存在になっていた。けっしてなくてもいい存在じゃない。
あまりにも近くにいすぎて、居心地がよかったから、当たり前と思っていたそのことに、どれだけ彼女が我慢してたかなんて気付こうともしなかった。
別れを告げられて初めて知った彼女の存在の大切さ。
だからこそこのまま諦めるなんて出来ない。
出会った頃とは立場が逆転した。今度は俺が追いかける番となった。
もっと必死にならなくちゃいけないことに、もう少し後にならなければ気付かない鈍感な俺だった。
短編なのでもう少しセンスよく話を膨らませたかったのですが、力及ばず……。
少しはお楽しみいただけたでしょうか?