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第20話 空っぽの器


 ルーチェという支えを得て。俺は辛うじて日々を取り戻した。


 だが一つだけ。俺の中で宙に浮いたまま行き場を失っているものがあった。


 聖点だ。



  

  

 俺は聖点を目指していた。


 石ころ使いと嗤われた頃から。時間を遅らせ、光を曲げ、魔物を倒し。全部聖点のためだった。聖点を獲って。身分の壁を越えて。ステラに近づくために。


 だがそのステラは。もういない。


 俺の恋した少女は消えて。残ったのは、あの男の腕の中で満ち足りている俺の知らない女だけ。俺が聖点を獲って身分を越えたところで。届く相手はどこにもいない。


 なら聖点を目指す意味は。


 もうないはずだった。


 なのに。


 俺はまだ聖点を目指していた。



  

  

 奇妙だ。


 目的は消えた。届く相手はいない。それでも俺の足は。惰性のように聖点へと向いていた。


 討伐を続け。力を伸ばし。いつか聖点を。そういう生き方だけが。俺の中に残っていた。目的を失っても。その生き方だけは。抜け殻のように残っていた。


 なぜ聖点を目指すのか。


 その問いに。俺はやはり答えられなかった。


 ステラのため?

――違う。あいつはもういない。


 身分の壁を越えるため?

――越えてどうする。越えた先に何がある。


 力を示すため?

――誰に。何のために。


 どの答えも。しっくりこなかった。俺は聖点を目指す理由を失っていた。だが聖点を目指すその習慣だけは残っていた。


 理由のない目標。


 中身の抜けた器のような。それだけが俺の前にぽつんと残されていた。

  


  

 力だけは着実に伸びていた。


 皮肉な話だった。目的を失ったこの時期に。俺の重力魔法はいちばん大きく化けた。


 空白のあいだも。抜け殻のあいだも。俺は討伐を続けていた。ルーチェが連れ出してくれたから。そして討伐を続ける限り。強化の吸収は止まらない。俺は確実に強くなっていた。心が空っぽのままで。


 時間を遅らせる領域は。以前の何倍もの広さになった。光を曲げる精度も。狙った一点へ寸分たがわず。ルーチェの光を導けるようになった。魔物の強化された力が濃ければ濃いほど。俺の重力は深く効いた。


 あるとき俺は。中級の竜の亜種を。ルーチェと二人で沈めた。


 聖点討伐でしかお目にかかれないような強敵。それを二人で。歴戦のパーティでも束になって挑む相手を。俺が遅らせ。ルーチェが貫いて。


 その竜の亜種は聖点の力を色濃く宿していた。だからこそ。俺の重力はこれまでのどの魔物より深く効いた。あの巨体の突進が俺の領域でぴたりと止まった。石ころ使いと嗤われたあの俺の力が。今や竜の動きを縫い止めている。倒したあと流れ込んできた強化は凄まじい量だった。俺はまた一段大きく跳ねた。強化が濃いものを倒すほど俺は速く伸びる。その好循環がこの時期はっきりと形になっていた。


 都市はまた俺たちの噂で持ちきりになった。重力のクロトと光のルーチェ。あの二人ならいつか本当に聖点を獲るかもしれないと。


 力は聖点に手が届くところまで。来ていた。


 あとは目指すだけ。あとは挑むだけ。


 なのに。


 そのいちばん肝心の。「なぜ」が。俺の中から抜け落ちていた。



  

  

 ある夜、俺はルーチェに尋ねた。


 二人で地図を広げ。次の討伐の計画を練っていたときだ。ふと俺は手を止めて。


「なあルーチェ」


「なに?」


「俺は、なんで、聖点を目指してるんだろうな」


 ルーチェが地図から顔を上げた。碧い目が俺を静かに見る。


「ステラのため、だったはずなんだ。あいつに近づくために。……でももうあいつはいない。俺の知ってた、ステラは。なのに、俺はまだ聖点を目指してる。力もついた。手が届きそうなところまで来た。……でも、なんでだ? 意味なんてないのに」


 俺は自嘲するように言った。


「惰性なのかもな。目的を失っても。目指す習慣だけが残ってる。……馬鹿げてるよな。行く先も分からないのに歩き続けてる」


 ルーチェはしばらく黙って俺を見ていた。


 その碧い目の奥で。何かが静かに動いた気がした。だがそれがなんだったのか。俺には読めなかった。


 やがてルーチェは。静かに微笑んで。言った。


「……理由なら、また見つかるわ」


「見つかる?」


「ええ」


 ルーチェは地図の上の北の一点――セルフィリアの大珠を指でそっとなぞった。


「目標がそこにあるなら。理由は後からついてくる。……前にも言ったでしょう。理由は後から分かればいいって」


 理由は後から分かればいい。


 あの言葉を。ルーチェはまた口にした。


 俺が目的を失って空っぽになるたびに。ルーチェはその言葉で。俺を繋ぎ止めてきた。理由は後から。今はただ進めばいい。私がいるから。


 俺はその言葉に。また頷いた。


 頷くしかなかった。だって。俺にはもう。自分で理由を見つける力なんて。残っていなかったから。

  



  

 その夜ルーチェが帰ったあと。


 俺は一人地図を見つめていた。


 北の深奥。セルフィリアの大珠。俺がいつか目指すはずの聖点。かつてはステラに近づくための道だった。だが今は。


 ただの目標だ。中身のない。


 俺はその一点を見つめながら。考えていた。


 人はなぜ動くのか。


 欲しいものがあるからだ。渇きがあるから。届きたい場所があるから。だから足を動かす。

 だが今の俺には。欲しいものがない。渇きがない。届きたい場所もない。


 なのに、聖点だけが。そこにある。


 空っぽの器のように。


 ――何かが注がれるのを待っている器のように。


 俺はその宙に浮いた目標を見つめながら。ぼんやりと思った。


 もし。


 この空っぽの器に。誰かが新しい意味を。新しい理由を。注いでくれたなら。


 俺はまた。歩き出せるのだろうか。


 その注がれる意味が。かつてのステラへの想いのように純粋なものか。それとも。まったく別の何かなのか。


 ――そんなことは考えもしなかった。

 俺はただ。空っぽの器を抱えて。誰かがそこに理由を注いでくれるのを。無意識のうちに。待っていた。



  

  

 思えばこの頃の俺の暮らしは。奇妙な均衡の上にあった。


 表向きは。何もかもが順調だった。


 力は聖点に手が届くところまで伸びた。都市でも指折りの冒険者になった。かつて俺を蹴り嗤った連中はもうどこにもいない。隣にはルーチェというかけがえのない相棒がいる。二人で竜の亜種すら沈めるようになった。あとはセルフィリアを目指すだけ。


 石ころ使いと嗤われた男がたどってきた道としては。これ以上ないほどの成り上がりだ。


 だが。


 その輝かしい道の底に。


 ぽっかりと穴が開いていた。


 ステラは失った。俺の恋した少女は消えた。目的は溶けた。何のために強くなるのかも分からない。生きる理由も渇きもなくした。残ったのはルーチェへの依存と。宙に浮いた聖点という空っぽの器だけ。


 俺は頂に手が届くところまで登ってきた。


 だがその頂を目指す理由は。もうどこにもなかった。


 登れば登るほど。目指すものがなくなっていく。強くなればなるほど。その力を振るう先が消えていく。


 ――上を向いて登りながら。中身は空っぽになっていく。


 それがこの頃の俺だった。



  

  

 日記を開いた。


 目標はある。セルフィリア。力も届くところまで来た。だが理由がない。書くべき決意も渇きも。俺の中にはもうなかった。


 俺はしばらく白い紙を見つめて。それからたった一行だけ書いた。


『聖点だけが残った。力もついた。だがなぜ目指すのかは分からない。……理由が欲しい』


 理由が欲しい。


 空っぽの器が。渇いていた。中身ではなく。中身を注いでくれる何かを。理由そのものを。


 俺はその渇きだけを抱えて。眠りについた。


 こうして。上を向いて登りながら。中身は空っぽのまま。誰かがそこに何かを注ぐのを待つ姿で。暮れていく。


 その隣で。金の髪が。静かに。微笑みながら。


 その理由が注がれたとき。


 俺がまた歩き出すその足取りが。かつてのステラへの想いのようなまっすぐなものではなく。


 もっと昏く、歪んだ何かになることも。


 俺はまだ知らずにいた。


 ただ空っぽの器を抱えて。理由を渇望しながら。眠っていた。



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