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第18話 ただ隣に


 空っぽになった俺の日々の中で。

 ルーチェは何も変わらなかった。

  



  

 あの夜から俺は抜け殻のままだった。


 目指すものがない。強くなる意味も分からない。討伐に行っても心は動かない。日記も書けないまま。俺はただ時間が過ぎるのを見ていた。


 こんな俺を。普通なら見放すだろう。


 急に腑抜けになった相棒。何を考えているのか分からない。討伐でも以前のような冴えを見せない。ただ体だけが動いている。そんな俺と組み続けることに。意味なんてないはずだ。


 だがルーチェは。


 見放さなかった。

  



  

 あいつは何も変えなかった。


 これまで通り俺のねぐらを訪ね。これまで通り討伐の段取りを組み。これまで通り隣で戦った。俺が空っぽでも。俺が何も感じなくても。ルーチェの日々は変わらなかった。


 そしてあいつは。


 俺に何も要求しなかった。


 「元気を出せ」とも言わなかった。「どうしたの」とも問い詰めなかった。「早く立ち直って」とも急かさなかった。ただいつも通り隣にいて。いつも通り俺の暮らしを回して。それだけだった。


 俺が討伐でぼんやりして隙を見せても。ルーチェは責めずにその隙を光で埋めた。俺が日記を書けずに木箱にもたれていても。ルーチェは何も言わずに俺のぶんの記録までつけてくれた。


 変わらなかった。何一つ。


 その変わらなさが。


 空っぽの俺には。


 ――どれほど救いだったか。


 だが後になって思う。あの変わらなさは。ただの優しさだったのだろうか。


 急いで立ち直らせようともしない。忘れさせようともしない。ただ空っぽの俺の隣に居続ける。それは辛抱強く待つということだった。俺の空白がある形に固まるのを。俺がこの空白を埋めてくれる何かを求め始めるのを。あいつはただ待っていた。急かさず。焦らず。まるでそうすればいずれ俺がどこへ向かうか。とうに知っているように。




  

  

 全部が変わってしまった。


 ステラは変わった。俺の知るあの少女は消えた。俺の目的も消えた。生きる理由も渇きも何もかも。あの夜を境に俺の世界は根こそぎ変わってしまった。


 なのに。


 ルーチェだけが。


 変わらなかった。


 昔からあいつはそうだった。俺が石ころ使いと嗤われていた頃も。時間を遅らせられるようになった頃も。光を曲げられるようになった頃も。そして抜け殻になった今も。ルーチェはいつも同じ静かな微笑みで。俺の隣にいた。


 変わり続ける世界の中で。


 ただ一つ変わらないもの。


 それがルーチェだった。


 俺はその変わらなさに。すがった。


 空っぽの俺を繋ぎ止めているのは。もはやルーチェの存在だけだった。あいつがいなければ。俺はとっくに崩れていた。討伐をやめ、ねぐらに引きこもり、抜け殻のまま朽ちていた。だろう。


 だがルーチェがいた。


 毎朝俺を訪ねて。討伐へ連れ出して。隣で戦って。日々を回してくれる。その変わらない気配が。かろうじて俺をこの世界に繋ぎ止めていた。



  

  

 ある日の討伐の帰り道。


 俺たちは珠地域の縁の丘の上で休んでいた。眼下に都市が広がっている。遠く丘の上には貴族街の白い塀。あの境界の向こう。


 俺はぼんやりとそれを見ていた。


 あの塀の向こうに。ステラがいる。あの男の腕の中で。満ち足りて。


 だが不思議と。


 その光景を思い浮かべても。もうあの嘔吐するような痛みは来なかった。


 ただ空っぽだった。遠い他人事のように。あそこに俺の知らない女がいる。俺の恋した少女はもういない。それだけの事実が。ただそこにあった。


「……クロト」


 隣に座っていたルーチェが静かに言った。


 金の髪が夕陽に染まっていた。碧い目が俺と同じ方向。あの白い塀を見ている。


「まだあそこを見てるの?」


「……いや」


 俺は首を横に振った。


「もう何も感じない。……ただ、見てただけだ」


 ルーチェはしばらく黙っていた。それから静かに言った。


「……無理に忘れなくていいのよ」


 その声は優しかった。


「ステラのことも。あなたの目指してたものも。……無理に忘れようとしなくていい。ただ今は隣にいさせて。それだけでいいから」


 隣にいさせて。


 その言葉に。俺はなぜか胸が詰まった。


 空っぽの俺に。ルーチェは何も求めなかった。元気になれとも。忘れろとも。前を向けとも。ただ隣にいさせてと。それだけ。


 俺はその控えめな言葉に。かえって深く寄りかかってしまった。


「……ありがとう、ルーチェ」


 俺はそう言った。


 声が少し震えていた。


「お前がいなかったら。俺はたぶんもう。……ここにいない」


 それは本心だった。


 ステラを失い目的を失い空っぽになった俺を。この世界に繋ぎ止めているのは。もうルーチェだけだった。あいつの変わらない気配だけが。俺を生かしていた。


 ルーチェは。


 俺の言葉を聞いて。


 少しのあいだ黙っていた。


 夕陽に染まったその横顔。碧い目がまっすぐ都市を見下ろしている。何を思っているのか。俺には読めなかった。


 だが。


 やがてあいつは。静かに微笑んで。言った。


「……いなくならないわ。私は。ずっとあなたの隣にいる」


 ずっと。


 その言葉が。空っぽの俺の胸に。じんわりと染みてきた。


 全部が変わってしまった世界で。ずっと隣にいると言ってくれる誰か。それがどれほど心強いか。ステラを失った今の俺には。その言葉だけが。すがれる唯一のものだった。



  

  

 夕陽が沈んでいく。


 俺とルーチェは並んでそれを見ていた。


 空っぽの俺の胸に。ルーチェの気配が。静かに寄り添っている。ステラを想ったあの渇くような痛みとは。まるで違う。もっと静かで。もっと確かな。温もり。


 この温もりにすがって。俺は生きていくのかもしれない。


 ふとそんなことを思った。


 目指すものはない。渇きもない。だが隣にルーチェがいる。あいつが変わらず隣にいてくれる。それだけで。俺はまだ朝を迎えられる。討伐に行ける。生きていける。


 ――それでいいのかもしれない。


 そう思った。


 ステラは遠い。俺の目的は消えた。だがルーチェがいる。もうそれだけで。俺の世界は辛うじて形を保っている。


 俺はまだ気づいていなかった。


 俺の世界のその辛うじて保った形の。中心に。いつのまにかステラではなく。ルーチェがいることに。


 かつて俺の世界の中心にはステラがいた。あの風に散る黒髪が。俺の全ての行動の中心に。俺はあいつを軸にして回っていた。だがその軸があの夜消えた。軸を失った俺の世界は崩れるはずだった。


 だが崩れなかった。


 いつのまにか新しい軸が。その空いた中心に収まっていたからだ。金の髪の軸が。俺は気づかぬうちに。ステラを軸に回っていた世界から。ルーチェを軸に回る世界へ。乗り換えていた。同じように回っているから。軸が入れ替わったことにすら気づかずに。


 ただ隣に変わらない温もりがあることを。ありがたいと。


 そう思っていた。


 夕陽が沈み。都市に灯がともり始める。


 俺はその隣で静かに微笑む金の髪を。ただぼんやりと感じていた。

 

 ただ隣の温もりに。すがっていた。



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