6. 二人のα
千歳はβだと公言している。しかもαを遠ざけたいと思っているのに、マーキングなんて許すとは思えない。
湊の反応から、よくないことだという自覚はあるのだろうが、それでもせずにはいられなかった気持ちは同じαとしてわからなくはない。
だが、許容できるかと言われたら、それはまた別の話だ。だって、あんなにも気になる人に出会ったのは初めてだったのだから。
体育館で初めて千歳を見た時、累は嬉しくてたまらないような、でも泣きたくなるような、不思議な感覚に襲われた。
千歳は美人だ。梅雨の湿度をものともせずさらりとなびくきれいな黒髪に、均整の取れた顔立ち。背は割と高いが体は細身で、すらりと長い手足が一つ一つの動作をより美しく見せる。見た目だけで言えば、αだと言われても納得の出で立ちだ。
だから、最初はその美しさに目を奪われたのかと思った。
気になって、もっと千歳のことが知りたくて。そんな初めての衝動に駆られて、体育館を後にした千歳の後を追うと、千歳は人気のない廊下でうずくまっていた。
それを見た時の焦燥は、言葉には言い表せないほどのものだった。中学時代に事故で膝を壊した時ですらどこか他人事のような感覚で、「しかたがない」とすぐに諦めてしまったのに。
その日初めてあったばかりの人になぜそんな気持ちを抱くのかわからなかったが、慌てて千歳の腕をつかんだ時に感じた千歳のフェロモンは「もっと嗅ぎたい」と思うほど良い匂いだった。
きっと累と千歳とはフェロモンの相性がいいのだろう。
それだけでも、今までΩの香りに良い印象のなかった累にとって千歳は貴重な存在だ。
さらに加えてあの強気な性格。ビンタをされたのなんて生まれて初めてだった。
累は上位種のαだ。やれば何でもすぐにできてしまうし、人は累を特別視して好意的に接してくる。でも、そこに浮かぶのは媚びか、見えない壁だ。累は自分とは違う存在だと、勝手に壁を作り、遠巻きにする。家族ですらそうなのだ。
そんな周囲の環境に、累はずっとどこか冷めた気持ちを抱えていた。
でも、千歳には媚びも遠慮も見えなかった。まだ出会って数日しかたってないのに、こんなにもたくさんの”初めて”を与えてくれた。そんな人に惹かれるなという方が無理がある。
だからこそ、千歳のそばにいる湊がとても気に食わない。
「本人の同意を得ずにマーキングするなんて痴漢とかわらないんじゃない?」
「お前みたいなストーカー野郎から千歳を守るためだろ」
「千歳さんはそういうの求めてないでしょ」
「はっ、お前に千歳の何がわかる」
「わからないよ。だから知りたいと思ってる」
累の真っすぐな言葉に、湊はギリっと音がするほど強く奥歯をかんだ。
初めて累を見た時、湊はとてもいやな予感がした。正確には、見つめあう千歳と累を見て、だ。
今までこの学校にはいなかった、湊と同じくらい強いα。しかし、累は湊のように息をひそめる必要はない。圧倒的な輝きを放つ存在に湊が覚えたのは劣等感と嫉妬だった。
湊は名家として古くから続くαの家の三男として生まれた。
家は湊よりも八歳上の長男が継ぐことが決まっている。五歳離れた次男はその補佐。おまけのような三男は家の内外から重圧のない気楽な存在として軽んじられて育った。
でも、湊は幼いころから自分は兄たちよりも高位のαであることに気が付いていた。もしかしたら母親も気が付いていたのかもしれない。それはおそらく、”家”としてはあまりよくないことだったのだろう。湊は幼いころから兄を立てるようにときつく言われて育ち、いつしか自分の能力を隠すようになった。
至って普通の学校であるこの学校を選んだのもその一環だ。αとしての気配を隠し、βのように平凡に生きる。それが一番軋轢を生まない方法だと湊は思っていた。
「αは苦手なんだ」
そう千歳から聞いた時、自分の選択は正しかったのだとさらに確信を深めた。
千歳と初めて出会ったのは、高校の入学式の日。
今でこそ『美人』という言葉が似合う千歳も、当時はまだ背もさほど高くなく、中性的な可愛らしい幼さが残っていた。
それでも、その存在感は別格で、淡く咲く桜の花が一面に広がる校庭で、そこにいた人たちは皆、千歳に見とれていたように思う。でも、αだろうかとささやく周囲の声に湊はどこか違和感を覚えた。それが気になって、たまたま同じクラスだった千歳に声をかけたのだ。
その時のことは今もよく覚えている。突然声をかけたにも関わらず、千歳は湊の顔を見て、あからさまにほっと肩の力を抜いたのだ。
後から聞くと、千歳は遠巻きに自分のことを噂するクラスメイトたちに不信感を覚え、気を張っていたのだと言っていた。
入学してすぐにクラスがそんな雰囲気であれば、不安になるのは当たり前だ。強張っていたきれいな顔立ちを緩ませた、その少し泣きそうな笑顔にギュッと心臓を掴まれたような心地になった。
それから、偶然同じ部活に入ったこともあり、湊は自然に千歳と一緒にいるようになった。
千歳が自分だけに甘え、頼ってくれるのが嬉しかった。それは家の中でずっとおまけとして扱われてきた湊にとって初めてのことだった。
だから、守りたいと思った。自分に向けられる笑顔が曇らないように。余計な悪意にさらされなくていいように。
そのために自分ができることは――。湊がマーキングを始めたのはその頃だった。
今もあの日覚えた違和感の正体ははっきりとしない。
千歳のそばにいるとほっと息が吐きだせるのに、なぜか時々、喉が渇くような心地になるときがある。
それが多分、本能からくるものなんだろうと察してはいるが、自分もβだと名乗っている手前、聞くことができないままこれまで来てしまった。
でも、それでいいと思っていた。このまま高校を卒業して、たとえば違う大学に進学をしても、就職しても、もしかしたらお互いに他の人と結婚したとしても、千歳との付き合いを断つつもりはない。これから先もずっと友人として千歳の隣にいられたらそれで十分満足だと思っていた。
それなのに――。
突然現れた湊とほぼ同格のαが千歳との距離を詰めるのを見て、湊の中で何かが崩れる音がした。
何度か言った通りこの学校は”至って普通の学校”だ。だから、数の少ないαは湊がマーキングしておけば近づいてこなかったし、大多数のβはそもそも千歳と釣り合いが取れないと、身の程をわきまえている人ばかり。もっと数の少ないΩはαじゃなければ用はないと、千歳にわざわざ付きまとうような人間はいなかった。
そんな環境に湊はこれまで胡坐をかいていたのだ。累が現れたことでそのことに気が付いた。気が付いてしまった。
千歳の隣に自分以外のαが立つなんて絶対に許せない。でもそれは、このままβのふりをしていては叶わない。
だから決めた。これからはもう自分を偽らないと。
「ぽっと出のやつなんかに千歳はわたさない」
「そもそもあんたのじゃないでしょ」
「お前のでもない」
「これからそうなるよ」
「大した自信だな。千歳はそういう奴、嫌いだよ」
鼻で笑ってやると、累はきれいな顔立ちをむっとしかめた。
累の幼さと上位種のαとしての自信からくる傲慢さ、向こう見ずな行動力は脅威でもあるが、一方で致命的な欠点にもなる。
今、湊が持っている武器はこれまで千歳の隣で積み重ねた年月と、あとは年上の余裕くらいだろうか。でもそれだって、αであることを隠していた時点で無意味なものになるかもしれない。湊は焦りと不安を腹の中に隠しながら、累に向かって不敵な笑みを浮かべて見せた。




