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36. 退院の日

 事件から十日後、累は無事退院の日を迎えた。

 傷痕は残るかもしれないが、後遺症や合併症がないだけで十分だ。回復の速さも段違いだと医者に褒められた。でも、それは累の力だけではない。

 あの日、刺された累が意識を失う前に感じたのは、自分を守るように包み込む、とろけるように甘くて優しい香りだった。


 ――やっぱり、千歳さんは俺の運命の番だ。


 そう理解した瞬間、血を失って冷え始めた体に、燃えるような熱を感じたことを覚えている。


 Ωのフェロモンにはαを性的に興奮させる作用がある。”運命の番”のフェロモンとなれば、その効果は倍増どころではない。

 性的な興奮とは、いわば生存本能に直結するものだ。千歳のフェロモンを浴びて活性化したα因子が、累の身体的な機能を上げ、回復力を高めたのかもしれない。そう、二次性の専門家である高坂は言っていた。

 かもしれない、じゃない。絶対に()()。根拠なんてなくても言い切れる。千歳の香りに包まれた途端、勝手に体が生きようとした。これを『愛の力』と言わずして、何という? もし今の浮かれ切った自分の顔を千歳に見られたら、すごく嫌な顔をするだろう。想像していたら、早く千歳に会いたくてたまらなくなってしまった。

 はやる心をなだめつつ、累は傷に障らないようにゆったりと歩きながら病院を出た。


 迎えに来てくれた土屋さんの車を病院のロータリーで見つけた累は、一瞬動きを止めた。

 車の横に、千歳が立っていたのだ。

 思わず駆け出そうとして、少しだけ痛んだ傷に累は正気を取り戻した。感情のまま走っては、また千歳を心配させてしまう。あの日、倒れた累を見た千歳の顔は、悲痛に歪んでいた。あんな顔、もう二度とさせたくないから。

 傷を気遣いながら、それでもできる限り急いで千歳のもとへ向かう。すると、千歳が自分から累のほうへ走ってきてくれた。その姿に、自然と顔が緩む。


「……退院、おめでとう」

「うん、ありがとう」


 今日、千歳が病院に来ることは聞いていなかった。退院したその足で千歳の家に行こうと思っていたのだ。

 土屋さんが気を利かせてくれたのだろうかと、ちらりとそちらを見る。その視線に気が付いた土屋さんは、にっこりと微笑んだ後、小さく首を横に振った。――つまり、千歳が自分から来たいと言ってくれた?

 体温がカッと上がる。今ならどんな怪我でもすぐに治ってしまいそうだ。


「来てくれて嬉しい」

「あっ、うん。急に来ちゃって……。えっと、ご両親も心配してるよね? 早く帰ったほうがいい、よね」

「いや、全然大丈夫」


 千歳は不安そうな顔で累を見上げているが、嘘でも強がりでもない。

 一応、刺された日は両親も病院へ来ていたが、命に別条がないとわかるとすぐに帰っていった。あの人たちが必要なのは佐久間の跡取りである”上位種のα”だけ。自分よりも優れた能力を持った息子を持て余しているのだ。ある意味千歳の両親と同じ――。いや、千歳の両親はちゃんと”自分たちの子供”を心配しているのだから、一緒にしては失礼か。

 とはいえ、累もそんなものか、くらいにしか思っていないから、別に親子仲が険悪ということもない。ただ、淡泊であるというだけだ。


「そうなの?」

「うん。多分、家にもいないよ。……だから、付き添ってくれると嬉しいな」


 殊更優しい笑みを向けると、千歳はパッと顔を赤くして俯いてしまった。――何それ、めちゃくちゃかわいい。思わず手を伸ばす。でも、その手を避けるように、千歳はさっと後ろに下がってしてしまった。まだダメか、とは思うが、焦りは禁物だ。


「立ったままはしんどいよね? 早く車に……」


 千歳は真っ赤に染まった顔を見られないように、慌てて累に背中を向けた。

 久々に会う累に、さっきから動悸が止まらないのだ。最初は緊張していたせいだったのに、累の顔を見たら一気に体温が上がった。しかも、近づいたら累の香りを感じてしまうし、――もう、またパニックヒート起こしちゃいそう! 薬は飲んできたのに、全然効いている気がしない。これは”運命”のせい。だから落ち着け、と心の中で繰り返しながら、千歳は累に並んで車の後部座席に乗り込んだ。もちろん、一人分空けて。


 最近は毎日のように乗せてもらっていたせいで、この車にもすっかり慣れ始めてしまった。前に「もう二度と乗らない!」なんて意気込んでいたくせに、意志が弱いとしか言いようがない。

 この車はいつも累が使っているものだ。だから、累の香りがする。以前は気づかなかったのに、Ω因子が増えたせいでわかるようになってしまった。そのせいで、一人で乗っていることが寂しくてたまらなかった。

 だから昨日、累を病院に迎えに行くと言っていた土屋さんに一緒に行きたいなどと頼んでしまったのだ。

 そして、今は一人分空いたその隙間が、少し悲しい。こんなふうに思うなんて、――もう「運命のせい」なんて言い訳はできない。


「そうだ、千歳さん。お見舞にもらったお菓子、おいしかった。ありがとね」


 累が入院してから、本当はお見舞いに行きたかった。でも、α病棟だからと累も湊も許してくれなかった。だから、お見舞いに行くという湊に、近所の洋菓子店で買った千歳が好きなお菓子を託しておいたのだが。今思うと、庶民の千歳にとっては十分”いいもの”だとしても、累にはずいぶんと安っぽく感じたのではないだろうか。

 そんな不安がよぎって、累をちらりと見やる。累はこちらを見ていた。突然視線が重なり、心臓が大きく跳ねて、体がびくりと震えてしまった。オーバーリアクションすぎて恥ずかしい。

 千歳は、ごまかすように外の景色を見た。千歳の家とは逆方向にある累の家は、当然のように高級住宅街に入っていく。一軒当たりの敷地の広さや門の大きさに驚いていると、車は少し高台へと道を進み、ひときわ大きな家の門の前で止まった。


「離れのほうでよろしいですか?」

「うん、お願い」


 離れ?! 聞きなれない言葉に、千歳は首を勢いよく動かして累を見る。そして、またにっこりと笑顔を向けられ、またパッと窓の方へ顔を戻した。窓ガラス越しに累が笑っているのが見える。悔しさに歯噛みしていると、いつの間にか門が開き、車は中へ入っていった。


「……門の中に道があるの? えっ、どういうこと……?」


 車が進んで行くにつれ、千歳は驚きを通り越して恐怖を感じ始めていた。


「……これ、本当に家?」


 『お屋敷』と呼べる大きさの建物を通り過ぎ、累が”離れ”と呼んだ場所の前で車を降りたころには、千歳はもうぐったりとしていた。 


「なんか疲れてる?」

「……別世界すぎて」

「なにが?」


 きょとんとする累にとってはこれが普通なのだ。でも、累に連れられて入った”離れ”の中は、シャンデリアとか、絵画とか、よくわからない壺とか……、千歳が想像していたような、いかにもお金持ちの家然としたものはなく、ずっと”普通”だった。

 それでも、玄関は千歳の部屋よりも広いし、リビングには千歳の家にそもそも入れることできないくらいに大きなL字型のソファが置かれているのだが。

 そのソファの中央に座った千歳は、ようやく肩の力を抜いた。ふわっと包み込んでくれるような安定感がある革張りの座面のおかげか。それとも、部屋に漂う、累の香りのおかげか。初めてきた場所なのに、なぜか落ち着く。


「……普段はここで生活してるの?」

「うん。母屋、あっ、あっちにあった建物ね。あっちは建物が古いし、いろいろ不便なんだよね。だから、俺の好きなようにここを造ったの」

「造った?!」

「建てたのはもちろんプロの大工さんだよ?」


 そこじゃない! と叫びたくなる。でも、佐久間グループは建築がメイン事業だったはず。だから、納得いくような、いかないような――。

 実は累の入院中、千歳は腹を括って累の家のことを調べていた。『佐久間』という苗字から大体想像はしていたものの、あまりのスケールに、めまいを覚えたほどだ。

 住む世界が違う。単純にそう思う。


「千歳さん、お茶でいい?」

「あっ、うん、ありがとう」


 キッチンにいた累はお茶の入ったコップとお菓子をトレイに乗せながら、ソファに座っている千歳へと視線を向けた。 

 いつも自分が生活しているこの空間に、千歳がいる。


「……やばっ」


 自然と口元が緩み、自分でもちょっと気持ち悪いなと思うような笑いがこぼれる。

 このままずっとここに閉じ込めてしまいたい――なんていう危険な妄想を押しやり、トレイをソファの前にあるローテーブルに置くと、累は千歳の斜め前に腰を掛けた。


「ごめんね、ケガ人に用意させちゃって」

「大丈夫、あったやつ運んだだけだし」


 累はお茶を口に運ぶ千歳を見つめながら、ゆっくりと息を整える。

 まだ縮められずにいる二人の間に空いた隙間には、言葉にできない想いが詰まっているようだ。

 それを埋めるために――累は静かに口を開いた。


「千歳さんは気づいてたんだよね? 俺たちが”運命の番”だって」


 二人っきりの部屋に、千歳が息を飲む音が響いた。


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