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35. 少しだけ先へ

 背を起こしたベッドにもたれかかりながら、平然とリンゴを食べる累を見て、湊は思わずじとっと眉をひそめた。


「……元気そうだな」

「うん、おかげさまで」


 累のケガは、幸い命に別条はなかったが、あと数ミリずれていれば臓器に達していたほど深いものだったと聞いている。

 犯人の女は「ちょっとケガをさせてやろうと思っただけ」と言っていたらしいが、累より圧倒的に細く、筋肉もない千歳が刺されていたらと考えただけでゾッとする。


 湊はお見舞いにと持たされた焼き菓子の入った紙袋を累の前に置き、ベッドの脇にあった椅子に腰を下ろした。


「これ、千歳さんから?!」


 目の前の紙袋を見て目を輝かせる累に、湊はさらに深く眉をひそめる。なんでわかったのか――。そんなの一つしかない。

 嬉しそうに紙袋を持ち上げた累は、顔をすり寄せるようにして、鼻から深く息を吸い込んだ。


「あー千歳さんの匂いする」


 その紙袋から湊が感じたのは焼き菓子の匂いだけだった。まだ番にもなっていないのに、千歳の匂いは、累にしかわからないらしい。

 初めから勝ち目などなかったのだと、もう、自分への嘲笑しか漏れない。


 湊が千歳に振られてから、表面上は何も変わっていない。学校ではいつも一緒だし、放課後には二人で勉強もしている。でも、送り迎えはやはり断られてしまった。

 今は所沢ではなく、累の運転手である土屋さんが千歳の送迎をしている。累の指示だと言っていたが、おそらく、佐久間の家にも()()()()のだろう。

 着々と囲い込まれていることに千歳は気づいているのだろうか。でも、気づいたところで何もできないし、もう逃げられない。だって――。


「気づいたんだろ? 千歳がお前の”運命の番”だって」


 突然の問いに、累は驚きの眼差しを湊に向けた。でもそれはほんの一瞬で、すぐに冷静さを取り戻すあたり、さすが佐久間の跡取りだ。

 湊に向かって不敵な笑みを浮かべた累を見て、思わず感じた悔しさに、ぐっと拳を握りしめた。

 これほどまでに見せつけられても、全く諦めのつかない自分が嫌になる。


「湊さんには悪いけど、千歳さんは渡さないよ」

「悪いと思ってる顔じゃねーだろ」


 ニヤニヤと喜びを隠しきれていない顔で「まぁね」と口にした累は、手に持った紙袋を撫でている。

 その浮かれ具合に心底腹が立つ。

 でも、正直、湊は思うのだ。このまま累が千歳に「運命の番だから付き合おう!」とでも言ったとして、果たして千歳はそれを受け入れるのだろうか? 多分、いや、絶対に千歳は嫌がる。それに累は気が付いているのか、いないのか。


 上位種のαだけあって、常人とは一線を画す能力を持つ累は、自分のやることや、考えが一番正しいと思っているところがある。

 日本の経済界を引っ張っている佐久間の跡取りなのだから、そのくらいの傲慢さは必要なのかもしれない。そういうところに魅力を感じる人間もきっと多いだろう。

 でも、千歳は湊にも”対等な関係”を望んでいたくらいだ。累の傲慢さはただの自分勝手だとしか思えないのではないか。


 ――まぁ、それを教えてやるほど俺は優しくないけどな。


 それに、たとえ千歳が嫌がったところで、累が諦めることはないんだから、結果は同じ。ただの時間の問題だ。


 湊は深いため息をつき、窓の外を見た。空にはうろこ雲が浮かび、部屋に差し込む太陽の光は、数日前よりもずいぶんと和らいでいる。季節の移ろいと共に、自分たちの関係も変わっていく。それを止めることは、もうできない。


「ところで、湊さんはどうしたの? わざわざお見舞いに来てくれるなんて、なんかあった?」


 今日湊がわざわざ会いに来た理由に、累は気づいているのだろう。それでも湊に言わせようとするところが本当に意地が悪い。

 どうしてこんなやつに千歳を渡さなければいけないのか。手ひどく振られてしまえばいいのに。湊は苛立ちを隠さず、累に向かって思いっきり舌打ちをした。


「えっ、感じ悪い」

「お前に言われたくねぇよ」

「まぁお互いさまってことで」


 ふふんと鼻で笑った累の点滴を引っこ抜いてやりたい衝動を抑えながら、湊は少しだけ居住まいを正した。


「千歳に振られてきた」


 累の表情は変わらない。湊も累から目をそらさず、真っすぐと見つめる。悔しさも悲しさも絶対に見せてやらない。千歳への想いはどんなものだって、すべて湊だけのものだ。

 慰められるなんて、死んでもごめんだ。


「そっか」


 軽く一言だけ返して、累は湊から視線をそらした。

 湊はこれから先も必要な人間だ。累にとっても、千歳にとっても。

 だからこそ、互いの立ち位置をはっきりしておかなければならない。それがわかっているから、湊も今日わざわざ累のところへ来たのだろう。


「……千歳から離れろとは言わないんだな?」

「うん。俺はずっと千歳さんのそばにいられないから」


 累は千歳と学年が違う。どう頑張っても一緒にいられない時間が多い。それならば、湊にそばにいてもらうのが一番安心だ。

 他のαが千歳のそばにいるのは心底嫌だが、湊は絶対に千歳の嫌がることはしない。その点においては完璧に信頼できる、唯一の存在だ。

 それに、無理やり引き離して、湊を”第二の広瀬”にするには惜しい。多分これから先、湊とも長い付き合いになる。そんな予感がするから。


「俺がそばにいられないときは、湊さんが千歳さんを守って」

「……守ってほしいなんて思ってないって言われたけどな」

「あはは、だろうね」


 笑う累を見ながら、湊はまたため息をついた。

 振られたやつに、振った相手のことを「守って」なんて、――普通頼むか? しかも、湊の意見は聞きもしない。本当に傲慢で自分勝手な”α様”だ。

 でも、それが湊への信頼の証だと思うと、悪い気はしない自分が悔しかった。



 累と別れて病院を出た湊は、まぶしい日差しに手をかざし、吸い込まれそうなほど高い空を見上げた。ゆったりと流れる雲を目で追いながら、今日までのことを思う。

 色々なことがありすぎた夏だった。これからの人生、これ以上のことはもう起こらないだろう。そう思えば、なんだってできる気がする。

 視線を前に戻し、バス停へ向かおうと歩き出す。すると、誰かが湊の横を駆け足で通り過ぎて行った。

 その瞬間、どこか懐かしく、落ち着くような甘い香りがした。

 つい、前を行く青年を目で追うと、彼のポケットから何かが落ちたことに気が付いた。でも、青年は気づかずそのまま走って行ってしまう。


「待って!」


 落ちていた定期入れを持って、湊は駆けだした。


 それから数か月後、千歳と共に入学した大学で、湊は彼と再会する。――それはまた別のお話。


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