33. 運命の前に……
次に千歳が目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
腕には点滴がつながれている。体が重くて、頭はもやがかかっているようにはっきりとしない。
ただぼんやりと天井を見つめていると、突然、顔に影がかかった。
「あっ、千歳くん起きた?」
千歳の顔を覗き込んだのは、高坂だった。どうして高坂がいるんだろうか。そもそもなんで病院に――?
千歳は学校にいたはずだ。そこで、広瀬という男と話をして、警察に連れていかれる彼を見守っていた。そうしたら、湊の声がして……。
徐々にクリアになってくる頭の中で、今日の出来事を思い返す。そしてはっとした。
真っ赤に染まった手、倒れ込んだ累の姿――。ドクンと、心臓が大きな音を立て、体から熱が湧き上がってくる。胸が苦しくて、ぎゅっと胸元を握ると、つながれていた何かの機械がピーピーと大きな音を鳴らし始めた。
「千歳くん、落ち着いて。大丈夫、累くんは無事だよ」
涙がにじんだ目で高坂を見上げると、にっこりといつもの緩い笑顔を向けられた。
ほっと息を吐きだし、またゆっくり吸う。落ち着け、と心の中で唱えていると、いつの間にか機械の音は聞こえなくなっていた。
「大丈夫かな?」
「……すいません」
「謝る必要はないよ。さて、まずは今の状況を説明しようね」
女に背中を刺された累は、救急搬送されたが、手術は無事に終わり命に別状はないという。
「しばらくは入院になるけど、後遺症もないだろうって。αは体も強いし、回復力も高いから、きっとすぐ元気になるよ」
「そっか……」
累を刺した女は、累と湊の二人から袖にされたことで、二人といつも一緒にいる千歳に一方的な恨みを募らせていたのだという。
「ちょっとケガをさせてやろうと思っただけだった」と取り調べで話していたらしいが、結果として千歳をかばった累に大けがを負わせた。もしかしたら命だって危なかったかもしれない。
そう思うと安易に「無事でよかった」なんて言えない。累の血で染まった手を思い出して、千歳は体を震わせた。
「それで、千歳くんはどうしたのかというと、累くんがケガしてびっくりしたんだろうね。パニックヒートを起こしちゃったんだよ」
「パニックヒート?」
「精神状態の乱れによって引き起こされる突発的なヒートのことだよ。しかも、今までより強いやつだったから、千歳くんも倒れちゃって、一緒に病院へ運ばれてきたんだ」
「えっ…それって……」
あの場にはかなり大勢の人がいた。αである湊もいたし、ほかにもαがいたかもしれない。
千歳は顔を青ざめさせた。
今までの千歳なら、ヒートになってもαに影響は与えなかっただろう。でも、今は多分、前よりもΩ因子が増えてしまっている。それに比例して、フェロモンも強くなっている可能性が高い。
「もしかして、あの時いたαにフェロモンテロを……」
「それは大丈夫。確かに匂いは感じたみたいだけど、発情させるほどではなかったみたいだから」
高坂の言葉にほっとしたのも束の間。続いた言葉に千歳は、最近忘れかけていた、いや、忘れていたかった問題を思い出さざるを得なかった。
「まぁでも、間違いなく累くんは気づいただろうね」
千歳はなんだかんだ文句を言いつつも、累と湊と三人で過ごすことに居心地の良さを感じていた。いつの間にか二人のそばは、自分を偽る必要のない、安心できる場所になっていた。
でもそれは、二人の気持ちも、二次性のことも、すべて棚上げして得ていたものだ。
ずっとそのままでいられるはずがないのに――。
視線を落とした千歳に、高坂は一枚の紙を差し出した。そこにはΩ因子量の検査結果が書かれていた。
「前回の検査に比べて、かなり増えてた。今の千歳くんの二次性はかなりΩ寄りになってる。でも、まだ確定はしてない。決断するなら、今だよ」
そんなこと、言われなくても分かっている。
だから、こんなときくらい、甘やかしてくれたらいいのに。手に持った紙の端が、くしゃりと歪む。
視線を上げられないまま、黙り込んでしまった千歳の頭を、高坂は「しかたがない」とでもいうようにそっと撫でた。
「今日はもう休んで。ヒートの兆候はもう見られないし、明日もう一回フェロモンの検査して、問題なければ退院できるから」
「……はい」
高坂が出て行った後も、しばらく千歳は検査結果の紙を握りしめたままでいた。
それでもやはり事件のことや、急に強いヒートを起こしたこともあり、体は疲れていたのだろう。結局、何も結論を出せないまま迎えた翌日、夕方前には無事退院できることになった。
迎えに来てくれた両親が運転する車に乗り込み、家へと向かう。
母親からは車に乗る前に「心配した」と抱きしめられた。それに千歳は、うなずくことしかできなかった。
事件のこと、千歳の二次性のこと、累のこと、湊のこと。きっと千歳に聞きたいことはいろいろあるだろう。でも、両親からは、どうすればいいのかわからないという戸惑いを感じる。その証拠に、車に乗って以降、会話は全くない。重い空気が漂う車中の気まずさから目を逸らすように、窓の外を見ると、道端に並んで植えられた木々の葉は青さがくすみ、季節が秋へと移り変わる準備を始めていた。
結局、一言も話さないまま着いてしまった家の前では、湊が待っていた。
「千歳、彼は……」
両親は湊に気づくと、千歳に不安そうな顔を向けた。両親は、累のことは手放しで信用したのに、”βと偽っていた”というだけで、湊には不信感を持っている。千歳だって同じことをしているのに。
両親なりに千歳を思ってのことだとはわかっているが、どうしても少し反抗めいた気持ちになる。
「ちょっと話してくるから」
千歳は車を降りるなりそう告げ、両親に向かって頭を下げていた湊へ近づいた。
「もう大丈夫なのか?」
「うん。心配かけてごめんね」
「謝らないといけないのは俺のほうだ。結局、俺は何もできなかった……」
湊はぎゅっと唇をかみしめ、眉間に深くしわを寄せた。
すべてが後手に回り、結局、千歳をかばった累がケガを負うことになった。
防ぐことも、守ることもできなかった己の未熟さが悔しくてたまらない。
おまけに、倒れた累を見て千歳はパニックヒートを起こした。
その時、初めて嗅いだ千歳のフェロモンは、胸を焦がすほどよい香りがした。たとえそれが自分に向けられたものでなかったとしても。どうしても欲しいと思ってしまった。
まだ、諦めたくない、諦められない。
――俺は、広瀬と同じなのかもしれない。
「佐久間は無事だって聞いた」
「うん、僕もそう聞いた」
よかった。視線を下げたまま呟くようにそう言った千歳の横顔を、風が髪を揺らしながら通り過ぎていく。
綺麗だ――。水面のように日の光を反射してキラキラと光る黒髪に思わず手を伸ばす。
でも、触れる前にその手を止めた。
「なぁ、千歳。……佐久間は、千歳の”運命の番”なんだろう?」
湊の言葉に千歳はぱっと顔を上げた。その瞳は、驚きに染まっていた。
「なんで……?!」
「なんでだろうな。……ずっと千歳を見てきたから、かな」
気づきたくなくても、気づいてしまった。千歳が、累に惹かれ始めていることにも。
千歳はずっと「Ωにはなりたくない」と言っていた。だから、自分の気持ちを認めることができず、芽生え始めた想いに蓋をしているように見えた。
でも、運命の番であることを佐久間に知られたら、もう千歳は逃げられない。絶対に。
だから、その前に――。
「千歳のことが、好きなんだ。今度こそ俺が守るから……、だから、俺を選んでくれないか?」
風に揺れる木々がざわめく音がやみ、遠くでヒグラシの鳴く声が聞こえる。夕暮れの淡い光は雲に隠れ、二人の間に影だけを落としていった。




