32. 運命の行く末
「あの日、決勝戦が終わった後、彼女は佐久間の関係者に連れて行かれたって言われて……。それに、佐久間の仲介役だっていう人からも、彼女はある上位種のαの”運命の番”だったとしか聞かされてない。だから、相手は佐久間なんだと思って……。そう聞いたときも否定されなかった……だから、俺は……」
うなだれたままそう話す男は、やはり累と湊が調べていた相手だった。この、広瀬という男は過去に累と因縁があり、動画が拡散された途端に行方不明になったことから、千歳に危害を加える可能性があるとして、行方を追っていたのだという。
累たちの予想どおり、動画を見た広瀬は千歳に接触するため学校へ忍び込んだ。でも、その目的は千歳に危害を加えるためではなく、二人で話をしたかったのだと、部室へ入ってきた彼は言っていた。そして、過去、自分に起こったことを話すから、知っていることを教えてほしいと千歳に頭を下げたのだ。
その様子があまりにも切実で、千歳は警戒しながらも広瀬の話を聞くことにした。累たちが話してくれなかったことを聞けるかもしれないという打算もあった。
そうして、千歳は広瀬と向かい合って座り、話を聞くことになったのだが、すべてを聞き終える前に累が戻ってきたのだ。鍵のかかったドアを蹴破って入ってきたときは、心臓が止まるかと思った。
入り口付近に倒れたドアから、千歳はそっと視線をそらす。きっと、累の家が何とかしてくれるだろう。そんなことよりも、今は広瀬の話のほうが重要だ。
「彼女に一目だけでもいいから会わせてほしいってどれだけ頼んでも、会わせてもらえない。どこにいるかも教えてもらえない。だから、あの時俺は、ああするしかないと思い込んでしまった」
広瀬の言葉を累は黙って聞いていた。その表情からは何を考えているか読み取れない。いつも千歳に向ける明るい笑顔でも、湊に向ける意地の悪い顔でもない。以前、優が言っていた冷たい顔。これが佐久間の嫡男としての累の顔なのかもしれない。
千歳はまだ守られるように累の腕の中にいた。これほど近いと、やはり累の香りを感じる。果物のようなみずみずしくて爽やかな香りに、離れがたいと思ってしまう。広瀬には「何もしない」とは言われたものの、やはり緊張していたのだろう。累の香りに包まれてほっと息を吐いた時、そのことに気が付いた。
「千歳さんに危害を加えるつもりがなかったのなら、なぜここに来た?」
「……あれからもどうにか彼女に会えないかと思って、ずっとお前のことを調べてた。でも、どう調べてもお前の周りから彼女の痕跡が出てこない。だから薄々と気づいてはいたんだ。彼女の相手はお前じゃないって。そんな時、あの動画を見て、やっぱりなって……。だから確かめようと思った。俺は、ただ本当のことを知りたかったんだ」
「知ってどうする。相手が俺じゃなくても、お前が彼女と会うことはもうない」
「そうだな……。彼女はもう本当の相手と番になったんだろう?」
「そう聞いている」
部屋の中に重い沈黙が落ちる。そのうち、外からパトカーのサイレンが聞こえ始めた。
広瀬がしたことは間違っている。何があっても、凶器を人に向けた時点で加害者だ。
それでもやるせない気持ちになってしまうのは、「運命の番」などというものに振り回されたことへの同情なのか。
累は変わらず無表情のまま広瀬を見ていた。
この件において累は、ただ巻き込まれただけの完全な被害者だ。それなのに、累だけが一生の傷を負い、命の危険にさらされた。その累が何も言わないのに、千歳が何か言えるはずもない。
累が今、何を思っているのかわかったらいいのに――。千歳は回された累の腕をきゅっと握った。それに気が付いた累は千歳を見て、ふっと顔を緩めた。まるで「大丈夫だよ」と言うようなその優しい表情に、心臓が静かにとくんと跳ねる。でも、すぐに累は視線を千歳から広瀬へと戻した。
さっき聞こえたパトカーのサイレンの音が校内で消えたから、じきに警察がここへやってくる。累はその前に片を付けたいのだろう。
「俺はずっと理解できなかった。たった一人のΩに執着して、人生を棒に振るなんて、なんでそんなバカみたいなことをするんだって、思ってた。でも、そうせずにはいられなかったお前の気持ちも、今ならわかる」
千歳の手に、累の大きな手が重なる。そして、ぎゅっと握られた。
「あの時、他に任せっきりにせず、俺がきちんとお前の話を聞いていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。それについては俺にも反省すべきところはある。でも、今回千歳さんを巻き込んだことは許さない」
「えっ、でも僕はなにもされてないよ?!」
「それは結果論だよ。こいつには前科がある。それに、ここにいる時点で不法侵入だ」
バッサリと切り捨てるように強い口調で話す累のその強さがまぶしくて、そして少し心配になる。累は弱さを見せればたちまち付け込まれるような、そんな世界にいるのだ。
「そもそもお前が勘違いした原因の一端は所沢にある。あいつら俺を隠れ蓑にしやがって……。所沢にはしっかりと落とし前を付けさせる。だから、お前もしっかりと償って、今度こそ彼女のことは忘れろ」
「簡単に言うな!」
「そうだな、簡単じゃない。でも、彼女はもう、別の道を歩んでる。お前のところには戻らない」
累の言葉に広瀬は崩れ落ちるようにして床にうずくまり、低いうめき声を漏らした。あまりに悲しいその叫びに、こちらまで胸が締め付けられる。
今はもう優里恵と番になったという広瀬の元恋人は、彼のことをどう思っているのか。
どうして一度くらい会わせてやらなかったのか。そう思ってしまうのは、千歳がαではないからなのだろうか。
胸に重りを入れられたような思いのまま、部室へとやってきた警察に連れられる広瀬の後に続き、千歳たちも話を聞かせてほしいと言われ校舎を出た。
外に出ればヒグラシの鳴く声が響き、わずかに傾き始めた日差しが千歳たちの影を静かに伸ばしていく。
強い風が木の枝を揺らす音を聞きながら、パトカーに乗せられようとしている広瀬を見ていると、累がふと思い出したように声をかけた。
「そういえば、どうやって学校の中に入ったんだ?」
「裏の掲示板で佐久間に恨みがあるやつを探したんだ。そしたら、この学校の元生徒だっていうやつが見つかったんだよ。そいつが色々準備してくれて、今日も校内に入るところまでは一緒にいたんだけど」
広瀬の言葉に累の顔色がにわかに変わる。言われてみれば、校内はセキュリティが厳重で、そう簡単に忍び込める場所ではない。なるほど、協力者がいたのか。
「そいつはどこに行った?!」
「さぁ? あっ、」
「千歳!! 逃げろ!!!!!」
突然聞こえた湊の声に振り向く前に、千歳は累に抱きしめられていた。
「…………えっ、なに? どうしたの……?」
声が震える。千歳を抱きしめる累の体越しに感じた今の衝撃は、何――?
「…………千歳さん、ケガは?」
「えっ? ない、けど……」
――どうしてそんなこと聞くの?
見上げた累はいつもの優しい顔を千歳に向けていた。でも、なぜか息は乱れ、額には玉のような汗が浮かんでいる。さっきまでは冷たさを感じるほど涼しい顔をしていたのに。
累の肩の向こうでは、髪を振り乱しながら暴れる女を警察が押さえつけている。女の顔には見覚えがあった。
――あぁそうだ。少し前に湊に告白をしようとしていたΩの女の子だ。
彼女は千歳に向かって何か叫んでいた。でも、全く耳に入ってこない。だって、千歳を抱きしめていたはずの累の体がだんだん重みを増していくのだ。このままじゃ倒れてしまう。そう思った時、がくんと累の膝が落ちた。
咄嗟に支えようと累の背中に手をまわしたが、生温い液体で手が滑り、千歳も一緒に倒れこんでしまった。
「………ねぇ、どうしたの? ねぇ、なにこれ……?!」
千歳の視界に映ったのは、赤く染まった手のひらだった。
息が吸えない。体が熱い。視界がぼやけて、よく見えない。冷静にならないといけないのに、頭が目の前の状況を受け入れるのを拒んでいるかのように、何も考えられない。
震える手を伸ばし、青白くなっていく累の顔にそっと触れる。苦しげに歪むヘーゼルの瞳が、少しだけ緩んだ気がした。
「いい匂い……やっぱり、千歳さんは俺の…………」
その日、累の言葉の続きを千歳が聞くことはなかった。




