29. 過去のしこり
それは中学三年生の頃の話だ。累にとって中学最後の全国大会があった日のこと。当時はまだ婚約者だった優里恵も親に言われ、その試合を見に来ていた。
そこで優里恵は出会ってしまったのだ。『運命の番』に。
しかも、相手は累の決勝戦の相手校のマネージャーをしていたΩの女子。試合が始まる直前に会場内で出会い、誰にも知らせないまま連れ去るようにして優里恵は彼女を家に連れ帰ってしまった。
そして、優里恵の運命の番は当時、対戦校のキャプテンだった広瀬というαの男の恋人でもあった。
広瀬からすれば、試合前に突然恋人が失踪したのだ。動揺を隠せなかった広瀬はプレーの精彩さを欠き、結果、累のチームが優勝を果たすことになる。
試合後、何をどう聞いたのか、広瀬は自分の恋人が連れ去られたのは累の指示だと思い込んだまま、何も知らない累に食って掛かった。
「そんなことをしてまで勝ちたかったのか!!!」
「何のことだよ」
当然、累は身に覚えがないし、その時はまだ広瀬の恋人が優里恵の運命の番だったことも、優里恵が彼女を連れ帰ったという話も聞いていなかった。だから、累は「知らない」と言い続けるしかなかった。そんな態度も広瀬からすれば「とぼけている」としか思えなかったのだろう。激情した相手は累の言葉に全く聞く耳を持たず、ヒートアップしていくばかりだった。
今思えばさっさとやり返してしまえばよかった。そうすれば、『喧嘩両成敗』で済んだかもしれない。
でも、その当時累は自分の持つ影響力がどれほどのものなのか、すでに分かっていた。だから、何とか穏便に済ませられないかと思ってしまったのだ。結局、その躊躇いが最悪の結果を生むことになる。
何より場所が悪かった。もし、相手に殴り掛かられたのであれば、簡単に避けられるくらいの動体視力を累は持っている。でも、さすがに階段の上から突き飛ばされ、華麗に着地できるほどの身体能力はない。二階分ほどの高さがある階段から真っ逆さまに落下した累が次に目を覚ましたのは、病院のベッドの上。足はもう、コートに立てないものになっていた。
その時は、そもそもの原因は優里恵の行動にあるからと、累の治療費はすべて所沢が払い、広瀬の家とも所沢が間に入って示談に収めた。その際、彼女が優里恵の運命の番であることも説明したと聞いていた。
それで終わればよかったのだ。
栄光と恋人を一度に失った男の執着は妄執に変わり、取り返しのつかない凶行へと走らせてしまう。
広瀬はまだ入院中だった累の病室へ、刃物を持って押し入ったのだ。
「全部、お前のせいだ!!!」
すぐに広瀬は取り押さえられ、累は新たなケガを負うことなく無事だった。
でも、今でもたまに夢に見る。血走った目で累を睨みつけ、自分の恋人を返せと叫ぶ男の顔を。
これまでは、そんなに執着ができてすごいなと、どこか関心すらしていた。でも今は違う。累は千歳に出会い、人に心を奪われるということが、どれほど自分を狂わせるかを知った。
もし、累の知らないうちに、誰かが千歳を奪って行ったとしたら。もし、その後二度と会えなくなったとしたら。自分は広瀬と同じようにならないとは言い切れない。
「それからは多分、湊さんも知ってる通り。相手の家は佐久間がつぶして、一家離散」
一度目は、おそらく所沢に恩を着せる意味もあって目こぼしをした。それなのに、広瀬は二度目を犯したのだ。しかも、前にはなかった明確な悪意を持って。
それを許すほど佐久間は甘くない。野放しにすれば、舐められるのはこちらだ。
当然、逆恨みを警戒し、広瀬の動向は所沢が監視するということで、話の始末もついている。優里恵はその後、運命の番である彼女と番になったと聞いた。だから、所沢としても、優里恵やその番に危害を加えられることを警戒する意図もあったのだろう。
累はもう関わり合いを持ちたくないと、その後の広瀬がどうなったかも聞いていなかった。
膝をケガしたことで、バスケが思うようにできなくなったのは少し残念だったが、どうせもともと学生のうちだけの話だ。だから仕方がないとすぐに諦めもついた。
ただ一つ、累が耐えられなかったのは、他者からの同情的な視線だった。
ケガをしたこと、婚約が解消になったこと。それらに誰も触れてはこないのに、目だけは「かわいそうに」と投げかけてくる。そこには佐久間の嫡男のゴシップを面白がる意地の悪さのようなものが見え隠れしていた。
そんな不躾な視線は、累の矜持を充分に傷つけた。
本来はエスカレーター式で進学するはずだった中高一貫校ではなく、この学校を受験したのも、煩わしい視線から逃れ、事件とは関係のないところで生活をしたかったからだ。
だから今日、累が優里恵に会ったのも久々のことだった。婚約者とは言え、もともと大して情があったわけでもない。だから、婚約を解消して以来、顔を合わせるどころか、連絡すら取り合っていなかったのだ。
それなのに、突然、わざわざ会いに来た。考えられる理由は一つだけだ。
「その男の居場所がわからなくなったんだな?」
優里恵にそう尋ねたのは湊だった。さすがの察しの良さだ。
できることなら千歳のことを一人で守って見せたかった。でも、そんな意地を張って、千歳を危ない目に合わせては元の子もない。それに、せっかく目の前にいい人材がいるのに使わない手はないだろう。
残念なことに千歳は、累よりも湊に信頼を置いているから余計にだ。
「えぇ、動画が拡散された次の日から忽然と行方が分からなくなったと報告があったの。だから、あの動画を見たのはほぼ間違いないと考えてるわ」
広瀬は最後まで、恋人を奪ったのは累だと思い込んでいた。もし、まだその妄執に取り憑かれているとしたら、動画を見てどう思うだろう。自分から奪った恋人を捨て、新しい恋に浮かれている、そう考えて恨みを再燃させる可能性が高い。
そうなったとき、狙うのは累ではない。千歳だ。
単純に累を狙っても勝ち目がないというのもあるが、自分が恋人を奪われたように、累からも奪ってやろうと考えるだろう。
だって、もし自分があちら側の立場になったとしたら、そうするから。
「広瀬を見失ったのは間違いなく所沢の失態よ。七海さんの身の安全は絶対に守るわ。だから、あなたたちには彼の居場所を探してほしいの」
動画に千歳の顔は映っていなかった。だから、まだ広瀬は相手を特定できていないと仮定して、今は千歳のそばにはいない方がいい。――とても嫌だけれど。
広瀬が千歳を見つけるのが先か、累たちが広瀬を見つけるのが先か。これは時間との戦いだ。




