19. 運命の夏が始まる
学期末テストが終わると、張り詰めていた息を一気に吐き出すように、校内は一気に夏休みモードへと切り替わる。とはいえ、今年高校三年生である湊と千歳が切り替えないといけないのは受験モードだ。
その試金石となる学期末の結果はというと、千歳は前回と変わらず学年で五位。ここ最近はいろいろとあったせいであまり勉強に集中できていなかったが、以前と変わらない順位にとりあえずほっと胸をなでおろした。
だが、千歳はいつもこれ以上、上にはなかなか行けずにいる。原因は苦手な物理だ。他の教科は満点に近い点をとれているというのに、物理はどうしても応用問題に手こずってしまう。夏の改善点はそこだな、と心の中で呟きながら、千歳は隣に座る湊に視線を向けた。
「どうだった~?」
湊はいつも大体十位前後。安定して上位にはいるものの、それ以上の順位を狙おうとしている気配はなかった。だから千歳は、今回も同じくらいだろうかと勝手に思っていた。
しかし、湊に「ほい」と手渡された小さな紙を見て、千歳は頭をひねらせることになる。
「……バグ……?」
そこには、「1」と「100」しか書かれていなかった。――二進法? まさか。千歳は思わず目を擦る。『全教科100点、科目別1位、総合1位』。何度見てもそこに書かれている数字は変わらない。
「こんなの初めて見た……」
千歳の反応に、湊は満足げに微笑んでいる。その表情はどこかすっきりとした清々しさを帯びていた。
湊は今まで、その圧倒的な能力を隠すためにβのふりをしていた。それは外見だけかと思っていたが、そんなはずがない。当然、能力的なものも含まれていたのだ。
本当はこんなにすごい力を持っているのに、常に自分を抑えていなければならない状態とは、どういうものなのか。そこにどれほどの葛藤や苦しみがあったのか、千歳には想像もつかない。つい、同情めいた気持ちが湧き上がる。でも、それは変わろうとしている湊に失礼だ。
千歳は成績表を湊に返すと、わざといたずらっぽく笑って見せた。
「進学は余裕ですね~」
千歳の言葉に、湊は少し肩をすくませる。
「どうかな、しばらくなまらせたままでいたからさ。リハビリしないと」
これまでの学年一位が聞いたら、きっと奥歯をギリギリと鳴らして悔しがるに違いないセリフだ。でも、ようやく己の枷を外し、前を見据え始めた湊に、千歳が文句なんて言えるはずもない。
そこで千歳はふと、思いついた。
全教科満点ということは、湊に苦手教科というものはないはずだ。それなら、湊の力を借りれば、きっと千歳も苦手を克服できるに違いない。
「じゃーリハビリがてら、僕に物理教えてくれない? 夏休みの空いてる日とかにさ」
「え……」
千歳的にはよい提案をしたと思ったのだが、なぜか湊は目を丸め、フリーズしてしまった。
その表情は、まるで予想もしていなかった爆弾を投げつけられたように、驚きと戸惑いに満ちている。千歳は何かダメだったのだろうかと、不安になりながら湊をうかがい見た。
「だ、ダメだった……?」
千歳の不安げな問いに、湊は突然立ち上がり、叫んだ。
「ダメじゃない!!!」
その勢いで椅子を倒した湊に、クラスの視線が一斉に集まる。視線に気づいた湊は、そそくさと椅子を立て直して座ると、千歳に少し顔を寄せ、なぜか小声になった。
「……いいのか?」
「なにが?」
千歳が首をかしげると、湊は一瞬複雑な顔をしてから、千歳から離れていく。口元を手で覆った湊の表情は、よく見えない。
「……まぁ今はしゃーないか」
「えっ、なに?」
「なんも。じゃー予定合うとき一緒にやるか」
「うん!」
声が小さくてよく聞こえなかったが、多分、千歳が気にすることではないのだろう。湊の返事に「よーし」と心の中でガッツポーズをしながら、夏休みの計画を立てる。
今のところ千歳も進学に大きな不安があるわけではないが、苦手はちゃんとつぶしておいたほうが絶対にいい結果につながる。それに、受験生とはいっても高校生活最後の夏休み。ずっと一人家にこもって参考書とにらめっこをするよりは、友人と一緒のほうがずっといい。湊と一緒なら、きっと勉強だって苦にならない。
「場所はどうする? 図書館?」
「う~ん、図書館でもいいけど、人がいっぱいいそうだよねぇ」
「確かに」
千歳は少し考え込むように、顎に手を当てた。図書館には自習スペースがあるが、夏休み期間はまるで人気アトラクションに並ぶかのように、開館前から長蛇の列ができる。席が確保できなければ、ただのタイムロスだ。
「う~ん、どこかのカフェで~、なんておしゃれなことすると慣れなくて集中できそうにないし……」
それに、何も買わずに長時間居座るわけにもいかないし、迷惑ではないかと気になって、勉強に落ち着いて取り組めないだろう。湊も千歳の言葉に頷いている。
――どっかいいとこあるかなぁ。そこで千歳は、ふと閃いた。
「あっ、僕の家は?」
千歳の両親は共働きで基本、平日は毎日夕方過ぎまで家にいない。だから、静かだし、涼しいし、邪魔も入らない。
さすがに千歳の私室で二人っきりというわけにはいかないが、リビングを使えば問題ないだろう。
そう思ったのだが、湊は千歳の提案を聞いた途端、また固まってしまった。
「え? ダメ?」
「えっ、いや、ダメじゃないけど……」
慌てたように首を横に振った湊は明らかに目を泳がせている。でも、それがなぜなのか千歳にはわからない。
「場所はまた考えよう」
結局、湊はそう言って話を打ち切った。
「うん? そっか」
さっきから少しずつ話がかみ合っていないように思えるが、最終的に勉強できるのならどこでもいいのだから、千歳は深く考えないことにした。深く考えると、せっかく前と変わらずいられている湊との関係が崩れてしまう気がする。今はまだ、そこには蓋をしたままにしてしておきたいから――。
その後、帰宅する際に累からも成績表を渡された。
まるで「どう? すごいでしょ?」と目をキラキラとさせながら、褒められるのを待つ大型犬のような顔でこちらを見てくる累に、千歳は『全教科100点、科目別1位。総合1位』と書かれた紙を顔色一つ変えずに突き返した。
「これ、さっきも見た」
「えぇ?!」
累は信じられないといった顔で叫んだ。その様子に、後ろから様子を見ていた湊が「プっ」と小さく噴き出していいる。
たしかに累の成績はすごい。でも、二度目ともなると、さすがにインパクトは霞んでしまう。
「何で~?! せっかく千歳さんに褒めてもらおうと思ったのに!」
文句を言いながら千歳の横を歩く累に、少しかわいそうだったかな? と思っていると、反対側を歩いていた湊が累の顔を見ることもなく「ざまぁ」とつぶやいた。当然、累はぶちギレ。
普段、千歳といるときの湊は落ち着きがあって頼れるタイプだ。それなのに、なぜか累が相手になると、まるで子供のようにわざと煽るようなことを言う。累もすぐそれに乗ってしまうから、この二人の言い争いはもう日常風景のようになりつつある。また始まった、と呆れ半分で千歳がため息を漏らすまでがお決まりのパターン。
「っていうか、俺は高校入って初めてのテストでこの成績なんだから、湊さんよりもすごくない?!」
「ならもっとレベルの高い学校に転校すれば」
「だったら、湊さんが先に転校して道を示してくださいよ。先輩でしょ?」
「残念ながら俺はもう卒業だから、後輩に道を譲るわ」
「早くいなくなればいいのに」
「安心しろ、千歳と一緒にいなくなるから」
「はぁ?!」
「二人とも相変わらず仲良しだねぇ」
「「仲良くない!!」」
――ほら、仲良しじゃん。
二人は声がそろったことに腹を立てたのか、また仲良く騒ぎ始めた。
このくだらない言い争いを聞いていると、二人が人類でたった数%しかいない上位種のαであることをつい忘れそうになる。まるでβと変わらない、ありふれた日常生活を送るただの男子高校生だ。
今日も暑い。じりじりとアスファルトを焦がすような太陽に負けないくらい騒がしい二人の声を聞きながら、千歳はそっと口端を持ち上げた。




