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お答えできません      :約2000文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/02/07

「……部長」


「ん?」


 朝のオフィス。始業してそう経っていない時間帯で、空調の音とキーボードの打鍵音だけが淡々と流れている。書類に目を通していたおれは、その呼びかけに顔を上げた。

 デスクの前に立っていたのは部下の国石。両手を前で揃えて垂らし、背筋を伸ばしている。だが表情は妙に硬く、影を落としたように暗かった。

 やらかしたな――そう直感したおれは柔らかい表情を作り、「どうした?」と優しい声で訊ねた。

 そう、優しく穏やかに、だ。何を言われても怒らない。心の中でそう念じる。昨今はコンプライアンスだのハラスメントだのなんだの、部下の説教すら憚れる世情である。地雷原の中を歩かされるようなもので、まったく面倒だが時代なのだから仕方がない。


「……しばらく、会社を休もうと思います」


 国石は喉の奥から絞り出すように、細く震える声で言った。


「えっ? いつから?」


「今日……つまり、今からですね……」


「じゃあ、早退ってことか? はあ? あ、いや急だな。ははは……」


「はい……残念です」


「ん、ああ……。あれ? でも君、ついこの前有給を取ったばかりじゃなかったか? いや、まあ別にいいんだが……それで、何日くらい休むつもりなんだ?」


「期限は特に決めてません……」


「え? そ、そうか……で、その理由は?」


「自分を見つめ直させていただくためです。では……」


 国石は深々と頭を下げ、踵を返した。おれは慌てて呼び止めた。


「いや、ちょ、待ちなよ。君、今いくつも仕事を抱えているだろ? それはどうするんだ?」


「……悔しいです」


「は?」


「では……」


「いや、こっち任せ……? それなら、せめて理由くらい聞かせてくれよ」


 おれは腕を組み、椅子に深く座り直した。


「……長年の活動において、自分の立場への自覚不足、考えの甘さや慢心、行動の至らなさ……それらすべてが原因です」


「お、おう……?」


「では……」


「いや、だから理由は……? 具体的に何かやらかしたのか?」


「プライバシーに関係する可能性がありますので、お答えすることはできません……」


「プライバシーって……いや、取引先にも説明が必要になるかもしれないんだ。そこは話してくれよ」


「相手のこともありますので……」


「相手? 相手のプライバシー? じゃあ、誰かとトラブルがあったのか?」


「プライバシー保護の観点から、お話しすることはできません……」


「いや、被害者がいるかどうかを聞いているんだが」


「それも申し上げられません」


「いやいや、どこの誰だとかは聞かないよ。何をしたのか、その内容だけ教えてくれよ」


「知りたいお気持ちはよくわかりますが……お許しください」


「いや、どういう事案の種類かくらいはプライバシーと関係ないだろ」


「関係あります。関係する可能性があります!」


「なんなんだよ、もう……」


 おれは椅子の背もたれをぎしりと軋ませ、深く息を吐いた。


「……暴力団絡みか?」


「いえ……」


「違法賭博か?」


「いえ……」


「不倫?」


「あの……一つひとつお答えしていくと、結果的にどういう事案だったのか説明しているのと同じになってしまうので、お答えできません」


「……はあ。まあいい。とりあえず、警察沙汰じゃないんだな?」


「…………はい」


「不安になる間だな……。もし後から問題が発覚したら、上から説明を求められるのはこっちなんだぞ。だから、ある程度は把握しておきたいんだよ……」


「複数のコンプライアンス上の問題のある行為とだけ……」


「複数? それって何回なんだ?」


「複数回とだけ……」


「複数の被害者がいるということか?」


「被害者かどうかは……」


「いいから、はっきり答えてくれよ」


「申し上げられません」


「それなりに長い付き合いだろ?」


「お話しすることができません」


「どういう系統かだけでも……」


「ご理解ください」


「なあ……」


「ご勘弁ください」


「反省してるんだよな?」


「控えさせていただきます」


「……ここまでで、何回『答えられない』って言った?」


「……お答えできません」


「ふー……まあいい。雲隠れしないだけマシとするか……」


 おれは視線を落とし、深いため息をついた。デスクの上のマグカップを手に取る。かすかに立ちのぼるコーヒーの湯気が揺らいだ。

 たぶん、部下か取引先の相手へのパワハラかセクハラだろう。距離感を誤った発言、行き過ぎた冗談、性的な写真を要求したとか、逆に送りつけたとか……。本人に自覚がないまま積み重ねてきた類のものだ。

 いずれ話が表に出る可能性もある。とはいえ、今ここでこれ以上問い詰めても何も出て――ん? このコーヒー、なんか味が……。


「……あれ?」

「どうしたの?」

「なんか、このお茶、変な味……」

「うげっ、これ、腐ってんのか?」

「そういえば、さっきの水、変な味が……」


 オフィスのあちこちから声が上がり、おれは周囲を見渡した。

 そのときだった。

 国石が、前で揃えていた両手をすうっとどけた。奴の口角が吊り上がるにつれて、開いたズボンのチャックの奥からそれがむくむくと膨れ上がっていき――。

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