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電光石火の男 44連続KO記録保持者 ラマー・クラーク(1934-2006)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2025/11/02

178cm82~83kgのクラークはヘビー級としては小柄だが、無敗の世界王者ロッキー・マルシアノとほぼ同じ体格であることから、興行主がロッキーのばったもんのつもりで売り出してみたら、大当たりだったため、ボクシングのメッカで強豪と戦って潰されるより、娯楽の少ない地方の大スターの道を歩ませる方が実入りがいいと判断したのだろう。それでもこの体格で仮にもプロのヘビー級相手にKOを重ね、プロレスラーにも勝つというのは凄い。風貌は地味だが、これだけのパフォーマンスを見せれば、地方会場なら連日大入りだったに違いない。


 四十四連続KO勝ちという世界記録保持者でありながら、選手生活のほとんどを前座で過ごしたヘビー級ボクサー、ラマー・クラークは「作られたKOアイドル」である。

 しかし幸いなことに、世界チャンピオンにまで上り詰めながら引退後は人々の記憶から忘れ去られてしまうボクサーが多い中、世界ランキングはおろか国内タイトルさえも無縁だったクラークはその生涯を終えるまで著名人であり続けた。引退後も世界中からファンレターが届いたローカルファイターというのは彼くらいのものであろう。

 ほとんどが前座の八回戦で積み重ねられた記録とはいえ、正式な記録である以上、クラークはギネスブックにも名を連ねているが、同じく九十二連勝という世界記録を持つ元WBCライト級チャンピオン、ペドロ・カラスコ(スペイン)の方はすでに影が薄い。

 この差は、相手が二線級にせよ派手なKOシーンで人々を魅了したクラークの方が記録よりも記憶に残るボクサーだったことに起因する。

 ホームグラウンドのユタ州シザーシティから離れることがなく、毎週のように本格的なスポーツパビリオンから地方の体育館まであらゆるところで試合を行ったクラークは、ある意味身近な著名ボクサーだった。

 なまじ世界チャンピオンともなると、興行は大都市でしか行われず、入場料もばかにならないため、庶民にとっては縁遠い存在であり、日頃から馴染みがないぶん落ち目になると完全に忘れ去られてしまうことも少なくない。

 その点クラークはユタ州の住民にとっては頻繁に試合を観ることが出来るローカルヒーローでありながら、やがては世界記録を塗り替えてしまうのだから、そのリアルタイムの印象は一朝一夕に消えるものではない。

 しかも一ラウンドKO勝ちが二十八回もあるように、倒しっぷりが実に見事で絵になった。一七八センチ八十二~三キロがベストウエートというからヘビー級としては小柄だったが、大男たちをバタバタとなぎ倒すさまは、娯楽の少ない地方の観客にはこたえられなかっただろう。やがて『シザーシティの爆撃機』と呼ばれるようになったクラークは、地元の少年たちにとってまさしく英雄だった。


 シザーシティ高校時代にはフットボール、バスケットボール、ベースボールの選手だったクラークがボクシングを始めたのは、高校を卒業して三年ほど経ってからのことで、プロに転向するまでは養鶏業を営んでいた。

 一九五六年、二十一歳でアマチュアのリングに立ち、その年のAAU,ゴールデングローブの地方タイトルを獲得すると、翌年にはアマチュア二大タイトルの全国大会準決勝にまで進出している。中でもボストンで行われたAAUの準決勝は、判定負け直後に場内からブーイングが起こるほどの接戦だった。

 このまま順調に伸びればローマオリンピックの代表も夢ではなかったが、一九五七年七月、クラーク家は突然の悲劇に見舞われる。火事によって父親が亡くなり、母親も要介護の重傷を負ったのである。

 財産のほとんど全てを失ったクラークは、母を連れてソルトレークシティに転居し、一九五八年一月にプロボクサーとしてデビューを果たす。

 デビュー戦こそ判定勝ちだったが、ジムメイトに『サイクロン』の異名をとる猛ファイター、世界ミドル級チャンピオンのジーン・フルマーがいたことで、その荒々しいインファイトスタイルを身近で学べたのは大きかった。次第に倒すコツを覚えていったクラークは二戦目からはKOの山を築き始めた。

 本来ならジムとしてはクラークをフルマーに次ぐスターに育てたいところだったが、アマチュアとしては一級品でもプロのヘビー級としてはスケール不足ということもあってか、一種の客寄せパンダ的なローカルヒーローとして売り出すことにした。

 おかげでクラークはプロ初年度に三十試合も戦うはめになったが、そのほとんどを短いラウンドで片付けてしまったため、実際にリングに立っていたのは五十ラウンドほどに過ぎない。いくら対戦相手が新人や二線級ばかりといっても、ラッキーパンチの一発だけで試合の流れが大きく変ってしまうヘビー級でこれだけKO勝ちを続けるのは至難の業である。

 現在でも時折、KO記録狙いが見え見えのカードが組まれることがあるが、世界チャンピオン間違いなしという器のボクサーでも二十連続を越えることは滅多にない。やはり記録がかかると気が焦るのか、パンチの正確さを欠いたり、途中で拳を痛めたりして明らかに格下のボクサー相手に攻めきれずに終わるケースの方が遥かに多い。

 ところがクラークの場合は、まるでKOマシーンのように詰めが鋭く決着が早い。そこで主催者側も話題性作りのため十一月十日には一日に三名と対戦させてみたが、クラークがあまりにもあっさりと片付けてしまったので、十二月一日には何と同日に六名との対戦カードを組んだ。対戦相手のうち五名は新人だったとはいうものの、これも全員KOしてしまい、ギネス記録まで樹立してしまった。

 実際、どう見ても見世物興行でしかないが、ここまでくるとクラーク人気は青天井である。勢い余ったプロモーターが打った次なる手は、プロレスラーとの異種格闘技戦であった。


 ボクサー対プロレスラーの試合は過去にも行われていたが、仮にレスラーがグローブを着用していたとしても、つかみ技を認めるルールのもとでは圧倒的にレスラーが有利であった。

 十二月二十六日、クラークは不利を承知で、ソルトレークシティのプロレスラー、エリック・ザ・グレート・フォースランドと六十秒までつかみ技OKのルールで対戦した。

 二十キロ以上重いフォースランドに組み付かれてはたまらないクラークは、いきなり左で相手をふらつかせると、ロープ際まで一気に追い込んだ。

 フォースランドは朦朧としたまましゃにむに拳を振るい続けたが、偶然かかとがロープに引っかかって動きが取れなくなったところをクラークから抱え上げられ、そのまま頭からキャンバスに叩きつけられた。クラークよりふた周りほどでかいフォースランドは、哀れテンカウントを数えられても起き上がることが出来ず、一ラウンド一分三十一秒でKO負けに退いた。


 翌一九五九年もクラークの勢いは止まらず、十試合全てKO勝ちでビリー・フォックスが一九四三年から一九四六年にかけて作った四十三連続KO勝ちの世界記録まであと一勝となった。この年の四月には初めてユタ州を離れてカリフォルニアのパームスプリングで試合を行ったが、その時の相手が後に俳優となりシルベスター・スタローンの『ロッキー』シリーズでトレーナーのミッキーを演じて有名になったトニー・バートンである。

 一九六〇年一月十一日、ラスベガスのコンベンションセンターでケネス・ハイデンを一ラウンドKOで仕留めたクラークは、遂に四十四連続KO勝ちの世界記録を樹立した。ユタ州のローカルファイターの名が全米中に広まった瞬間だった。

 記録達成によって欲が出たのかもしれない。クラークは四月八日に臨んだ初の十回戦で中堅どころのバルトロ・ソニと対戦する。イタリア系のソニは十二勝二敗(八KO)という成績ながら、これまでは最も骨のある相手だった。

 前半はいつものラフなパワーボクシングでソニに襲いかかり、五ラウンドにダウンを奪ったまではよかったが、肝心なところで詰めきれず、後半に入ると慣れない長丁場のせいか完全にガス欠に陥った。結果は九ラウンドにレフェリーストップされ連続KO勝ちは四十四で途切れてしまった。

 やはり自分のパンチ力ではメインエベンター相手には通用しないのか。

 ハードパンチャーとしての才能に疑問を抱きながらも、もっと名のある相手と戦って連続KO記録に箔を付けたいという思いが強いクラークは、六月二十九日、メルボルンオリンピックのゴールドメダリスト、ピート・ラデマッハーと対戦し、またしてもTKO負け。

 プロデビュー戦がフロイド・パターソンとの世界ヘビー級タイトルマッチという晴れ舞台を用意されながらKOで敗れたとはいえ、パターソンから先制のダウンを奪ったほどの相手ではクラークには荷が重すぎた。


 一九六一年四月十九日、ローカルKOキングにとってボクシング人生最大の大一番がやってきた。対戦相手のカシアス・クレイは全米ボクシング界期待の新星で世界チャンピオン間違いなしと言われるほどの天才児である。これほどの注目株の対戦相手に峠を過ぎたローカルボクサーが選ばれたのは、もちろんクラークの持つ四十四連続KO勝ちという金看板が生む宣伝効果を期待してのことである。

 クラークはリーチの長いクレイのジャブをかいくぐるように低い体勢からワイルドなパンチを繰り出すが、動体視力が優れたクレイはバックステップとスウェーだけで軽々とかわしてしまう。追うクラークとかわすクレイの展開がしばらく続いた後、クレイがロープ際で身体を入れ替えざまに放ったワンツーがクラークの鼻を粉砕すると、この一撃で手数が減ったクラークは二ラウンドにはほとんどんどサンドバッグ状態になり、二度のダウンの末、カウントアウト。

 クラークがテンカウントを聞いたのはこれが最初で最後だった。

 また、この試合は後に定番となる『ホラ吹きクレイのKO予告』の第一回目に当たり、試合前の二ラウンドKO予告がその通りになった記念すべき一戦となったが、クレイにとってもよほど印象深かったのだろう。負けた相手を徹底的にこきおろすクレイにしては珍しく、世界チャンピオンになる直前のインタビューでは、クラークのことを過去の対戦相手の中で最高の強打者だったと賞賛している。

 打たれても打たれても前に出てパンチを振るいながらキャンバスに沈んでいったクラークは、負けっぷりも格好良かった。そしてこの試合が彼にとって最後のリングとなった。

 

 クラークは現在もなおギネス記録保持者であるが、地方巡業の多いローカルファイターの場合は公式戦の記録集計に誤りがあることが多く、最新の調査では生涯戦績は43勝3敗(42KO)に訂正されているため、正確な連続KOは41である。

 四十一連続KOでもギネス記録なのは、彼以前の世界記録保持者だったビリー・フォックスの方にも集計ミスが見つかり、三十六連続KOに訂正されているからである(第三位がウィルフレド・ゴメスの三十二連続)。

 にもかかわらずギネス記録の数字は四十四連続のままになっているのは、公式戦か草試合か判別がつかない試合が2~3試合あり、それを公式戦と認めた場合は45勝3敗(44KO)あるいは46勝3敗(45KO)となる可能性も無視できないからだ。

 70年も前の記録ではあるが、試合を観戦した生き証人がいる可能性も捨てきれないし、古代や中世の古文書が発掘され、歴史的常識が覆ることもあることを考えれば、当時のジャッジペーパーやローカル新聞などの記事が発見され、議論に決着がつく日が来ても不思議ではないだろう。







クラークは”作られた”アイドルボクサーだったかもしれないが、アマチュア時代もオリンピックを目指し25勝2敗の好成績を残しているように、ボクサーとしてのセンスはお墨付きだった。前座とはいえ過酷なスケジュールで潰された感が強く、もっと時間をかけてじっくり育てていれば、世界ランキングを賑わせたかもしれない。しかしクラーク自身は平凡な世界ランカーより、客寄せパンダ的存在であったにせよギネス記録保持者として後世まで語り継がれるローカルヒーローになった方が本望だったように思う。

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