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雨を裂くは、黒の牙  作者: よもぎ餅
第1章《雨と影の序曲》

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第6話:影、扉の前で

 雨は、まだ止まなかった。

 硝子越しに見える夜景は、滲んだインクみたいに形を失っている。

 ルーチェ邸の廊下は、静かすぎるほど静かだった。


 湊は、磨かれた床に反射する光を見つめていた。

 廊下の奥――玄関の方角から、かすかな“音”がした気がした。

 それが足音か、風の鳴る音か、判別がつかない。

 ただ、胸の奥がざわつく。

 誰かが自分を呼んでいるような、そんな錯覚。


 息を吐く。

 手のひらがじっとりと湿っていることに気づいた。

 エアコンの風は冷たい。

 なのに、汗が止まらない。


 ――夢じゃない。

 そう思ったとき、耳の奥で“水滴”の音がした。

 ぽた、ぽた、と。

 どこかで、何かが垂れている。


 湊はゆっくり歩き出した。

 靴底が静かに音を立てる。

 薄暗い廊下の照明が、まるで遠い波のように揺れて見えた。

 数秒ごとに照明が一つ、消えていく。

 背後から、闇が追ってくるようだった。


 玄関へ続く廊下の角を曲がったとき――

 鼻を刺すような匂いがした。


 錆。

 油。

 そして、血。


 玄関ホールの大理石が、濡れている。

 赤黒い液体が床を伝い、雨水のように流れていた。

 照明の下で、光がゆらゆらと揺らめく。


 湊は立ち止まった。

 視界の端に、**“人の影”**が見えた。

 正面の扉の前――

 ひとりの男が、崩れ落ちている。


 胸元にナイフのような裂傷。

 その上に、血で描かれた紋章。

 ルーチェ・ファミリーの光輪の紋。

 だが――

 “本物”とは違う。歪んでいた。


 “なぜここにそれがある”

 その疑問が浮かぶより先に、喉が固まった。

 身体が動かない。

 足元の床が歪むように感じた。


 ――音が止んだ。


 世界のすべてが、息を止めたように静まり返る。

 雨の音も、風の音も消えた。

 ただ、胸の鼓動だけが響いている。


 (速い……?)


 自分の“能力”が、無意識に発動している。

 動かしていないのに、世界が遅くなっている。

 ――違う。これは、自分の意志じゃない。


 視界の端で、“誰か”が動いた気がした。

 血の海の中に、何か黒い影が立っている。

 形を持たない。

 けれど、確かにこちらを見ている。


 その瞬間、頭の奥に低い声が響いた。


 ――「……返せ」


 振り返ったとき、世界が“音”を取り戻した。

 雨の音、冷たい風、廊下の照明のざらつき。

 すべてが一気に押し寄せる。


 息を吸い込む。喉が痛い。

 目の前の影は、もういない。

 代わりに――扉の前に、倒れたままの“死体”があった。

 その胸に刻まれた血の紋章が、雨に滲んで形を崩していく。


 湊は膝をつき、呆然とその場に座り込んだ。

 震える手が床の冷たさを拾う。

 冷たい。

 でも、指先に伝わるのは“生温い血”の感触。


 「……何してる」


 背後から声。

 湊は振り返った。

 そこに立っていたのは――テオだった。


 「テオ……」


 テオの瞳が鋭く細まる。

 その視線が、床に広がる血溜まりと死体へと滑る。

 息を殺すようにして、彼は一言だけ問う。


 「見たのか?」


 湊は答えられなかった。

 言葉を探そうとするほど、頭の中が真っ白になる。


 「……影が」

 かろうじて絞り出すように言った。「黒い影が、いた」


 「誰だ?」


 「わからない。……でも、見られてる気がした。」


 テオは沈黙したまま、懐から端末を取り出す。

 通信を入れる。

 「こちら黒狗。玄関前に死体を確認。――《Terza》所属の監視員だ。至急、第一に連絡を。」


 無線の向こうから、アリアの声が返る。

 『了解。《Prima》が動きます。現場維持を。』


 通信が途切れたあとも、テオはしばらく沈黙していた。

 そして低く呟く。


 「湊。……お前、いま能力を使ったか?」


 「わからない。気づいたら、世界が遅くなってた。」


 「遅く、か。」


 テオは死体の胸の紋章を見下ろす。

 指で一筋、血をなぞった。

 「速さじゃない。……逆方向の歪みだ。」


 湊は首をかしげる。

 テオの顔に浮かんだ表情は、ただ一言で言えば――“理解してしまった”人間の顔だった。


 「湊。……この件、誰にも話すな。」


 「……わかった。」


 テオは短く息を吐き、玄関の外を見やった。

 雨の帳が薄く揺れている。

 その奥に、微かに“誰か”の気配がある気がした。


 「――誰かが、“お前の速さ”を真似している。」


 その言葉に、湊の瞳がわずかに震えた。


 風が吹き抜け、玄関の照明が一瞬だけ消えた。

 再び灯ったとき、テオの表情はいつもの冷静なものに戻っていた。


 「行くぞ。ここから先は、黒狗の仕事だ。」


 湊は頷いた。

 立ち上がると、足元に残った血が波紋を描いた。

 それが雨水と混じり、静かに玄関の外へ流れていく。


 夜の雨が、すべてを隠すように音を立てて降り続いていた。

 その雨の中で、湊は初めて――

 “影”という言葉に、恐怖を覚えた。

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